08章……簡単便利、時の止め方
ゴールデンウィークも過ぎ、あとは祝祭日が一切ない日が続く5月も、既に中旬に差しかかろうとしていた。
熱気の出てきた体育館に、折角の休日である土曜日を潰された幼稚園教諭保育士養成科の2年の生徒全員が、所狭しと座っている。勿論、ひと月前の学長の命令に従い、男子1人に女子4人の5人1組に分かれていた。
未だになれないらしく、女子の話を追従笑いを浮かべてただただ聞いている男子も、そこかしこに居た。
「卒業生講演会か~……どんな人が話しにくるんだろうな」
去年もあったのだがその時侑治郎は、入院していて話を聞けずじまいだった。
真優が若干下がっていた眼鏡を直しつつ、可愛らしい声で言う。
「あ、そっか。侑さんは、入院してたんですよね。去年は……保育士になった方と児童養護施設に勤めている方がきたんですよ」
「ほー、そうだったのか。児童養護施設ってのは孤児院のことだよな。殊勝な人も居たもんだ」
うんうんと納得したように頷いていると、爽奈が無意識にスカートを穿いているのにも関わらず、正座を崩したような座りからあぐらに掻き直した。両膝がぴんと生地を伸ばして、今にも見えそうである。
「今日は、晋ちゃん先輩とかっほーさんが来るらしいよー」
「また独特なあだ名だな。特に後者。誰だか分からんし、パンツ見えるぞ」
侑治郎が少し恥ずかしそうに目線を逸らしながら、指摘する。
因みに5人は、車座となって座っており、侑治郎の正面に丁度爽奈が座している。
爽奈がにたにたと笑う。
「これだけで照れるとは、うぶな奴だねぇ」
「や、やかましい!」
侑治郎は顔を明後日の方向へ向けて、声を上ずらせて怒鳴った。
事の成り行きを静観していた成佳が、菩薩のように顔をほころばせ、爽奈の眼をじっと見る。
「爽奈ちゃん、お行儀が悪いから直しなさい。さもないと……」
爽奈は即座に目線を逸らす。
紗弥菜と真優の2人も成佳を一瞥して、半ば戦慄しつつもそのままひそひそ話に入った。
一見すると、子どもを注意する優しそうな若奥様にしか見えないが、爽奈は知っていた。本当に温厚な人ほど怒った時の迫力は、凄まじいものがあることを。前に怒られたことを少し思い出してみる。
「うぅっ……」
思わず悲鳴ともとれる声が吐いて出た。開始15秒ほどで恐ろしさのあまりに脳内に映し出した映像を、かぶりを振って掻き消した。成佳の方を見ると、まだこちらを見ている。しかも心なしか凄みが増した気がした。早く謝らないと、背後に般若が友情出演しかねない。
「ご、ごめん。直すよ」
あぐらから反省の意味も込めて正座に座り直した。
すると、爽奈からすれば何処か険を帯びていた成佳の笑顔が、普段のものに戻った気がした。
「はい、よく出来ました~。恥じらいを持たないおなごなど……まあ、いいか」
爽奈の頭を優しく撫でる成佳。
だが、撫でられた爽奈は、強張った笑声を無理矢理口内から出すだけであった。
一連の光景を唯一傍観者として見ていた侑治郎は、何のことだかさっぱり分からず、頭上には疑問符が浮きっ放しだった。
「それでは、本日体験談を述べられるお二方のご登場です」
進行役の女子が、朗々と読み上げた。
次の瞬間、左方の幔幕が少し揺れたかと思うと、2人の男女が勢いよく飛び出してきた。そのまま重々しい教壇に備え付けられていたマイクの前で止まった。
「晋之介に果穂、あいつら何やってんだ……?」
侑治郎は、呟いたっきり開いた口が塞がらない。
「どーもー! 納富晋之介でーす!」
「成富果穂でーす!」
「2人合わせて、せーの」
「ダブルトミーでーす!」
2人は、お笑い芸人のみたいな自己紹介を、大雨のせいで普段では信じられないくらい速くなってしまった下水溝のように終えた。
結果、もともと静かだった体育館が水を打ったように、更に静寂に満たされた。総勢100人は居るのに、しわぶきもくしゃみさえもひとつも聞こえない異様な空間。まるで某漫画のようにあるスタンド使いが、時を止めたかのよう。
ステージ上の2人は、満面に湛えられた笑顔、他はぽかん。
過度の静寂は、人を焦燥に駆らせたり不安に陥らせることがある。恐怖感もしかりで、それが長ければ長いほど効能が現れてくるものだ。
そんな時人は、どうしたらいいか解からなくなる。全くの不明、理解不能状態になり、脳の動きが急速に活発化する――混乱で暴走していると言ってもいい――。明らかにただ事ではない状況を打破する為だ。
しかし、2、3人のちゃちな少数ではなく、百に届こうかという衆人環視の中である。意識している者が居る、居ないにも関係なく、無言の重圧が胸を潰していくもの。それに、そう簡単に思考が働くはずがないのだ。妙案など出ず、ただ後ろ向きな湯水の如く浮かんでは、その中から取捨選択の作業を、秒単位の早さでまともなものはないかとこなし続ける。
やがて1つの結論に達したのか、納富と名乗った男が、くるりと背を向けた。
時が動き出した瞬間である。全員の目線という矢ができ、後姿を容赦無く刺していく。
納富は、そのまま壁際まで行くとその場でひとまず座し、体育座りをして腿と腿の間に顔を埋めてしまった。
その頃になってようやく事の異変に気付いた成富と名乗った女が、視線の先を辿ってみた。すると、あろうことか何人たりとも近寄り難い雰囲気を周囲に撒き散らしている無残な納富が、体育座りをしているではないか。
いまいち状況が飲めてない上に、楽観主義者でそれでいて強心臓だった彼女は、純粋に「何やってんだ? こいつ」としか思わなかったらしい。何食わぬ顔でつかつかと歩み寄り、割りと大柄な体を丸めているだらしない奴の腕1本を引っ張り、そのまま引きずって横の幔幕に下がっていった。
とうとうステージ上に喋る者が居なくなった。
瞬間、体育館は沸騰した。