07章……それをやったら園児が泣きます
爽奈達と侑治郎が出会ってから、2週間が経とうとしていた。
当初は、一部を除いてはかなりぎこちなかったが、成佳を中心に交流を持ちかけていて徐々ではあるが、親しくなりつつあった。
それでも紗弥菜だけは、なぜだか侑治郎との会話が他の3人に比べて圧倒的に少なく、話しても大体は2、3交わしただけで淡白に終わってしまう。しかも、関わることを避けている節さえもある。
そんな紗弥菜を侑治郎は、少しは気にかけてはいたが、いずれ話すきっかけがあるだろうと楽観的に構えていた。それゆえ、侑治郎も淡白な会話・対応で接することにしていた。
だから、先ほどの侑治郎に狡猾に笑いかける紗弥菜なんて、初めてであった。何かしら心境の変化があったと思われる。
だが侑治郎は、一考しただけで頭を振った。考えても無駄だと思ったからだ。
眼をふと、下に向ける。腕の中では爽奈が天使のような寝顔を見せている。本当に、今年で成人を迎えるのかと疑ってしまうほどの、艶色が無いに等しい童顔。長い睫毛に、今は閉じられているが大きな眼。にきびやほくろなどはなく、すべすべとしていて思わず触りたくなるような餅肌。
「やっぱり、子どもにしか見えないよな……」
無意識に感想がぼそりと出た。瞬間、爽奈が怒って起きるのではないかとどきどきしたが、全く起きる気配がなく、ひとまず安堵の息をつく。
すると、何の前触れも無く、いきなり爽奈が笑った。
侑治郎は、釣られるようにして微笑む。爽奈の笑顔に、胸が充足感に満たされていくようだった。
「そういえば、静乃姉ちゃんのとこのがきんちょ共は、元気にしてるかなー……」
空を見上げ、故郷に居るいとこの顔を映し出す。
「錫杖だ!」
叫び声とともに、みぞおちに強烈な衝きが入れられた。
「ぐっ……」
両手が塞がっていて防御もできない侑治郎は、不意に襲来した胸が塞がるような激痛に耐えつつ、寝ている爽奈を落とすまいと、歯を食いしばって必死に耐えた。
「ったく……どんなアニメを観たら、こうも体が動く夢を見るのやら……」
恨めしそうに侑治郎は、爽奈を注視する。
しかし爽奈は、そんな侑治郎を全く意に介していないのかの如く、気持ち良さそうな寝息をたてるだけだった。
野瀬私立保育園は、爽奈達が住んでいる野瀬市の中で、5本の指に入るほどの優良保育園である。1977年に創設。98年には温水プールも併設され、スイミングスクールも同年に開かれた。幼児からお年寄りまで幅広い人々から利用されており、人気を博している。
また、市内で初の24時間体制を2000年から開始。1日中開いているということで勤務形態は、さながら介護福祉士のように、早番、遅番、夜勤の3つとして決め、職員を代わる代わるながらも常駐させることにしている。
4年前、2005年の3月を以って様々な改革を行ってきた2代目園長・龍造寺百代が高齢の為に勇退し、2005年の4月から新しい園長が取り仕切っていた。
「加代子さーん、来たよ――っ!」
職員玄関から上履きに履き替えた爽奈が、すぐ目の前にある職員室に向かって叫んだ。
「はーい、ちょっと待ってね」
しばらくすると、1人の中年の女性が上履きをぱたぱたと鳴らせながら、姿を現せた。
「おっ、いつものメンバーのお出ましね。今日もお願いするわね」
「はいっ。宜しくお願いします」
女性陣が声を合わせて返事をし、折り目正しく礼をする。侑治郎も慌てて、上半身を少し折る。
「あら」
加代子は、1人だけずば抜けて背の高い男が、混ざっていることに気づいた。慌てた姿を見てくすりと笑う。
「この今どき風の男の子は、だ・れ・の彼氏かしら」
「誰の彼氏でもありません。ただ校長に、私達と行動を共にしろと言われた同級生です」
紗弥菜が真顔で代弁した。
加代子は、にべもない答えに苦笑しつつ問う。
「まあ、そうなの。貴方、お名前は?」
「円城寺侑治郎です。以後、宜しくお願い致します」
恐縮し切った態で、大きな体を再度折る。
「こちらこそ宜しくね。因みに私は、鍋島加代子。この野瀬私立保育園の園長だったりするけど、気軽に"鍋島さん"だの"加代子さん"って呼んでもらって結構よ」
鍋島加代子――野瀬私立保育園の3代目園長。前述の通り、2005年の4月から園長に就任。この時若干40歳だったが、前園長の強い要請もあったので異例中の異例ながらも承諾したという。
御歳44歳ながら、体型が若い時のままを保っているらしく、腹は出ずに腰つきもしっかりとしている。二の腕もそんなに垂れてなく、足も細い方ではある。おかっぱに近い髪形であり、染めているのか白髪が見受けられない。張りのある肌に愛嬌のある下がり目で、人の良さそうな雰囲気を醸し出していた。
因みに、爽奈の母親とは共に働き、懇意にしていた経緯がある。
爽奈自身も幼い頃はこの保育園に通っていて、加代子にはよくお世話になっていた。母が死んで引っ越してぷっつりと音信が途絶えていたが、高校の時に保育士になる旨を伝え、ボランティアに来るようになってからは、頻繁に交流する仲になった。以来、爽奈は加代子を母のように慕い、加代子も爽奈を娘のように可愛がっている。
「それで加代子さん、今日は何をするんですか?」
爽奈が瞳をきらきらと輝かせている。どうやら、早く園児達と遊びたいようだ。
「私の出で立ちを見て分からない?」
加代子がポケットから鎌を取り出して手に持ち、手足を広げてみせる。
よくよく見れば、頭には麦藁帽子を被り、首回りには純白のタオル。長袖のポロシャツに手には軍手が装着してあり、右手には鎌。ズボンは動きやすいジャージである。
「分かった! なまはげの格好をしてふにゅほへほ」
紗弥菜が背後から頬を掴み、引っ張った。
「馬鹿、どう見ても草刈りの格好でしょ」
「ふぁにふんらー」
爽奈が抵抗するが、全然話せていない。
加代子が嬉しそうに紗弥菜を指差す。
「そう。紗弥菜ちゃん、大正解! ということで、職員室の中に入って装備してから、グラウンドに集合ね」
「はあぁ~……」
草刈りが始まってから1時間ほどが経った。グラウンドの脇に生えていた雑草はあらかた消え、そろそろ終わってもいいぐらいだった。しかし、加代子が「終わり」と言わない限りは終わらない。その肝心の加代子は、侑治郎と何やら話していて、しかもかなり盛り上がっている。
「そーちゃん、どうしたの? 元気ないね」
悄然としている爽奈に、可愛らしい声がかかった。
「おー、まゆっち……眼鏡に汗がついてるよ。大事にしなきゃ駄目だぞー……」
「え? ほんとだ。ありがとう」
指摘されて初めて気づいた真優が、眼鏡を外してポケットから眼鏡拭きを取り出して、レンズを丁寧に拭く。陽光にかざすときらりと光り、汗と汚れが取れたことに満足したのか微笑みながら、眼鏡をかけ直した。
真優の所作をまじまじと観察していた爽奈が、小首を傾げて意見する。
「やっぱりまゆっちは、眼鏡を外すと可愛いことは可愛いんだけど、何か物足りないくなるよね。折角の黒髪黒目だし、何とも勿体無くなると言うか」
「はははっ。じゃあ、外人さんはどうなの?」
「外人は、大概1つの国に民族が一杯いるから、金髪でも茶髪でも黒髪でも紅毛でも碧眼でもいいんだよ。だから、外人の眼鏡は無条件にOK。むしろ最高。でもね、日本人ってのは、昔から眼はまだしも髪は黒髪って決まってるの。だのに、最近の若者ときたら……」
最初の方は笑顔で語っていた爽奈の顔が、最後の方には段々と険しくなっていった。怒りがふつふつと沸きあがり、やるせない気持ちを鎌に込めて土を削る。
「大和撫子が消えたって言うのは、本当だね。あんな汚ねぇ髪をよくまあ、平気でみんなの前で晒せるもんだよ。そんな奴に、眼鏡をかける資格なんかないねっ。使い捨てコンタクトで十分だ!」
呪詛を投げかけつつ、がっがっと土を攻めて掘削していく。
完全に地雷を踏んだと悟った真優は、必死に話題を逸らそうとする。
「で、でもさ、さやっちゃんやなるちゃんはどう? まるで昔に出てくるお姫様みたいじゃない」
「なるさんは、文句なしでお姫様。紗弥菜は……外見だけは文句ないんだけど、性格が町のお転婆娘って感じかな」
この言葉に、少し離れた所で成佳と談笑していた紗弥菜が、素早く反応した。ずかずかと歩み寄ると、怒りを露にする。
「誰が町のお転婆娘よ! 何処までも失礼な奴ね。私がお転婆娘なら、あんたなんかあっちの意味じゃない稚児よっ!」
「あーもう、煩い煩い! 子供達に聞こえるよ。黙らんと自慢の黒髪を……あ、やっぱごめん。紗弥菜も姫様です。すまんね」
爽奈からみるみるうちに勢いがなくなっていった。しまいには下を向いて、土を一定の間隔で殴り始めた。
拍子抜けした紗弥菜は、意外そうな顔になる。急激に力が抜け、今にも手にしている鎌を落とさんばかりだ。
成佳が耳元に近付いて髪と汗のにおいを、極力音を立てないように鼻で吸い込みつつ、ぼそりと言う。
「爽奈ちゃんは、紗弥菜ちゃんの髪と眼鏡が1、2位を争うほど好きなの。それを悪口に使おうとしたことで、自己嫌悪に陥ったのよ。久々に観たわね」
「そうだったわね。ま、まあ、無駄な大声を出さずに済んで良かったわ」
何処かつまらなそうな表情を含ませながら、紗弥菜はつんとそっぽを向いた。
「みんなー、終わりよ。シャワーを浴びて、園児達と遊んでちょうだい」
と、丁度頃合を見計らったかのように、加代子の声が4人にかけられた。
「はいはい、はぁーいっ!」
この声に復活した爽奈が、鎌を思い切り頭上に掲げて元気よく答えた。そのまま職員室の方へ走っていく。
他の3人も爽奈に習う。勿論、年相応の落ち着きを備えている為、走ろうとはしないが。
「ふふふ、相変わらず爽奈ちゃんは元気ね。幼い頃と全然変わらないわ」
加代子が穏やかな笑みを浮かべた。
「元気すぎてこっちは疲れますよ。しかも"でっくん"なんて変なあだ名も付けられましたし」
両手にぎっしりと雑草とゴミと石が詰まったゴミ袋を持っている侑治郎は、苦笑しながら嘆いた。
「まあ、そう言わないの。あだ名をつけるのは、爽奈ちゃんの昔からの癖みたいなものだから」
「そうなんですか。鍋島さんがそう言うなら仕方ないですね」
言い終えて、ふうっと溜息を漏らした。
「それよりも、例の件は大丈夫なのね?」
加代子が念押しするように訊いてきた。
「はい、勿論大丈夫です。月・水・土でしたっけ? 問題なく空いてますので、宜しくお願い致します」
歯切れの良い返事を聞き、安心したとばかりに首肯する。しかし、対等の条件だったことに心付き、手を振ってみせる。
「いやだわ、こっちが宜しくお願いしますよ。経歴を存分に活かして頑張ってちょうだいね」
「はい!」
喜色を面に表し、胸を張って返事をする。
その侑治郎の幅広い肩幅と背中に、暖かな陽の光りが照らす。それはまるで、侑治郎の逞しさを表しているようであった。