05章……カオスの中の一般人
侑治郎は少なからず仰天し、脳内で様々な語彙を駆け巡らす。と、そこに、
「広辞苑だ!」
掛け声とともに拳で頭を殴られた。
「痛っ」
考えていたことなど忘れ、殴られた所を擦る。殴った主を睨むようにして見ると、無邪気な顔で寝ている爽奈だった。
真優がカレーを侑治郎の前に置きつつ、苦笑する。
「そーちゃんは寝相が悪いんですよ。許してやって下さい」
「あ、どうも。それにしても、何でタンクローリーなんだろうか?」
素直に疑問を口すると、切った食材をガラスで出来た底の深い透明な容器に移しつつ、成佳が饒舌に答える。
「『デリックの無謀な挑戦』と言うアニメの記念すべき第1話、"メタボリック将軍危機一髪"の中で主人公が、メタボリック将軍こと田部杉雄に、とどめの一撃を喰らわせる時の台詞です。まあ、広辞苑を使った攻撃があんまりにもリアルと言うか、広辞苑の出版社から訴えられて2話で打ち切られた伝説のアニメなんですけどね。終わり方が斬新でした。だって主人公はアメリカ人の設定なのに日本人で、しかも武士の打ち首前の白昼夢だったんですからぁ。あと、そうですね――」
「へ、へえ~……」
普通のアニメはそれなりに知っているものの、2話で打ち切られたアニメなど知る由もない。侑治郎は、嬉々として語る成佳に、適当に相槌を打つしかなかった。
「なるちゃん。そろそろそーちゃんを起こすね」
「だからあのシーンは――うん、いつものやつでお願いねぇ」
一瞬だけ真優を見て承諾は出したが、すぐさま視線がたじたじになっている侑治郎に向けられた。
「はーい。では、こほん。……キャー、助けてー! 怪人・トンマリミセが前半戦終了時点で、打率2割0分1厘の本塁打15本の打点が17で失策が18だよー! 怪我人も出まくるし、色んな意味で終わっちゃうよ――っ!」
少し演技が入ったのか声音が多少ながら違った。でも、聞く方がすんなり分かるくらい棒読みは棒読みではあるのだが。
最後の台詞から数秒後、脊髄反射的に跳ね起きた爽奈は、そのままベッドの上で何ごとかを言い始める。
「はーっはっはっはっ! 小生――ヴォウビョウマンが来たからには、安心ぞ。トンマリミセよ、己の悪行の数々をさっさと詫びてこれで安らかに逝くがいい! ……って、んっ?」
やっと気づいたのか、みなが自分の一挙手一投足に注目することに、ようやく気づいた。
「みなさん、おはようございます。そして、まゆっちはナイスチョイス! よくまあ、あんな長い台詞を憶えれたね」
だが、爽奈の態度は動揺することなく、にかっと笑うぐらいの余裕があった。
「たまたま昨日借りたDVDを観てたんだー。偶然だよ偶然」
照れながら謙遜してみせる真優。
そんな真優を成佳は褒め称える。
「長台詞お疲れ様。真優ちゃんもそのうち私と爽奈ちゃんみたいに。詳しくなるかもね」
「うん、何でも話せるように頑張るよっ」
「よーし、さぁーっすがまゆっち! その意気で次は野郎向けと言われている『ソルドバルド大作戦』を観てみようか!」
「ふふふ、爽奈ちゃんったらマイナー趣向なんだから~。ソルドバルドと言えば、『うぬらに渡す物など何も無いっ!』……って、毎回決め台詞のキャラクターがいた気がするわ」
細めていた眼を台詞の時に限ってかっと見開き、眉を逆立て片膝を立てて見せた。また、今まで控えめな感じで品があったのだが、極限まで喉を絞ったのか低くそれでいて威厳のある声であった。
「えっ……?」
思わず成佳をまじまじと見つめる侑治郎。
「そうそう、さあっすがなるさん。レイニー軍曹の物真似が上手いねー」
「なるちゃんは何でもできるよね。声優になれるんじゃない?」
「ふふ、私なんかなれないわぁ。上手な人は沢山いるし」
そのまま3人は、アニメ談義に花を咲かせてしまった。
侑治郎はそんな光景を目にして、しばし口をあんぐりと開けていた。だが、どう声をかけていいか分からず、困り果てた表情で隣に黙って座っている紗弥菜の様子を窺った。
視線を敏感に感じ取った紗弥菜は、読んでいた漫画から眼を離し、眼鏡のブリッジを押し上げながら、侑治郎の眼を直視する。
「残念だけど、こうなったからにはしばらくこっちに戻ってこないわ。私は、アニメには興味がないからこの話題になったら、いつも黙ってるけどね」
「あっそうなの……」
(やっぱり、女子ってのはよく分からない生き物なんだな……)
改めてそう思う侑治郎だった。
爽奈と成佳と真優のアニメ談義が終わったのは、10分後だった。
各々が完食し終わったのが更に30分後。出来立て熱々だったカレーも、少し冷めかけていたらしい。
そして今、女性陣が自己紹介を終えた。今度は侑治郎の出番である。
「改めて円城寺侑治郎と言います。訳あって――」
侑治郎から見て左斜め横に座っていた爽奈から、腕が伸ばされる。丁度、口の前に掌が止まってもう喋るな、と言わんばかりであった。
「ストォーップ! ちょっと待とうかでっくん。訳ってなんですの? 気になって仕方ないんだけど」
爽奈に肝心な所を衝かれ、微苦笑を面に表す。少し考えた後、頭を掻きながら口にする。
「んー……正直言いたくなかったんだけど、去年の今ぐらいにこっちに帰ってこようとしたら、事故に巻き込まれてね。それで、大腿部の頚部を折ってしまったんだよ。それで3ヶ月ちょいは寝たきりだったんだけど、辛かったなぁ……」
ベッドで過ごした永すぎる期間を思い出したのか、遠い目を天井に投げた。
成佳が目を瞠る。
「大腿骨頚部骨折と言ったら、お年寄りとか割と年配の方のイメージが強いんだけど、円城寺さんみたいに若い人もなるのねぇ」
「お、詳しいね。担当した医師や看護師さんによく言われたなぁ。あと、相当運が悪かったんだね、とも」
爽奈がやおら立ち上がり、薄い胸を張って断言する。
「やっぱ、牛乳飲まなきゃ駄目だよ! 私みたいに1日500ml~1リッターは飲まないと。そのせいもあって骨折なんか1回もしたことないし、怪我してもすぐ治るし、良いこと尽くめだよー」
紗弥菜は、目を細めて野卑にも似た笑みを口角に顕現させる。
「その割には悲しいほどに、胸や身長には行かなかったみたいね。吸収した分は何処へ行ったのかしら」
挑発されてすっかり頭に血が上った爽奈は、表情を憤怒の形相に変えつつ、人差し指で紗弥菜の胸を指す。
「胸と身長のことを何で言うかなー。何でもでかけりゃ良いってもんじゃないと思うけどね。でも、なるさんは別格。なるさんの胸には愛情が詰まっているからねっ。あんたの胸なんかね、ただの脂肪の塊だ!」
自慢の胸を面罵された紗弥菜は、ほぼ無意識に眼鏡を外してテーブルに置き、怒髪衝天を衝かんばかりに食ってかかる。
「な、なんですって!? これだから、精神的にも肉体的にもお子様は困るわ。根拠もかけらもないことを、しゃあしゃあとよく言えるわね。ねえ、成佳。馬鹿らしいと思わない?」
しかし、成佳の答えは紗弥菜が望んでいたものと違っていた。
「じゃあ、爽奈ちゃんと真優ちゃんに触ってもらって、決めてもらいましょうか。はたして爽奈ちゃんの言う通りなのか」
それにしても、この女ノリノリである。某番組の企画なら、先述の常套句がお茶の間に流れたであろう。
「あ、それいーね」
一も二もなく爽奈が同意する。
「でも、でもさ……」
真優が止めようとするが、最早遅い。
引っ込みがつかなくなった紗弥菜が、折角の整った顔を歪めていると、いつの間にか空気と化していた侑治郎が、手を上げた。
「何、貴方も参加する気? いい度胸してるわね。私の胸を触ったら――」
わずかに頬を朱に染め、強い口調を侑治郎にぶつけようとするも、途中でさえぎられた。
「あのさ、俺が居ない時にやってくれないか」
もう、うんざりだ。そう言いたげな顔で胸の内を吐露した。
「分かった。じゃあ、帰れ」
即座に爽奈が反応。喜色を満面にして、軽い口調で言った。
出合った時から薄々感付いてはいたが、ここまでお子様な性格とは夢想だにしなかった侑治郎は、胸中に激しく生じた呆れを押し隠しながら、席を立つ。
「そうか。それなら、そろそろおいとましますか。木下さん、カレーごちそうさま。とても美味しかった」
突然変わった空気に、成佳は若干戸惑う。
「え、ええ。また宜しければ、一緒に食べましょうね」
早くも玄関で靴を履いている侑治郎が、首だけ振り向いて微笑む。
「ありがとう。じゃ、お邪魔しました」
ドアが開かれ、何秒も経たずに閉まる。その閉まった音だけが4人をしばらく包んでいたが、やがて爽奈の音頭で再開された。
階段を上がって自室に入った侑治郎は、1つ大きく溜息を吐くと、しみじみと独語する。
「女の思考回路ってどうなってんのかな……。本っ当、切に知りたいわ」
明日以降のことを考えると、もう1つ大きな溜息が出る侑治郎だった。