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12章……無知なんです

 まるで修羅場のような1ヶ月間の実習が終わって1週間弱ほど経った。

 収穫は多かれど、その何十倍はある疲労の方がもっと多かった。基本的に実習中と言えども土日は休みなのだが、それだけでは到底疲れが取れにくい。

 なぜなら、少しずつ実習ノートを書いておかなければ、後から夏休みの絵日記並みに大変なことになるからである。

 1日の出来事を思い出して書けと言われても、不可能である。当たり前だが居る訳ない。もしも、1日1日の仔細を憶えている人間がいようものなら、稀有な存在だ。

 しかも、毎日毎日実習に来ているからと言え、特別なことがあるわけがない。大方のスケジュールは同じなのだから、中盤以降は書くことがなくなり、竜頭蛇尾になり勝ちである。今回のような長期実習なら尚更だ。

 竜頭蛇尾にならないには、起こった出来事のペース配分を間違えずに、小出しに出す。さもなければ、先に述べたように泣きを見ることにもなりうるからだ。そしてそこからが、己の語彙がどれだけあるか試される時である。長文にするも良し、短文にするも良しのとにかく、実習内容をある程度まとめて書けば何ら問題ないと思われるものだ。

 1日ごとにちゃんと書けば良いのだが、自宅に帰ってくると、途端に疲労感が襲ってきて書きたくなくなる。そこで、己に鞭を打てるか打てないかでは大きく違う。疲れた脳味噌をフルに動かし、一気に書き上げるのが最良なのである。そこでくたばってしまうと……。

 以上のことから実習と言うのは、1日の積み重ねが如何に重要なのかということを、改めて知ることができる機会でもあるのだ。……勿論、業務内容もだが。


「失礼しました」と言い、涼しい部屋から出た瞬間、もわっとした熱気が体を襲う。

 その熱気に紗弥菜は、思わず顔をしかめた。

(何でこんなにも暑いのかしら……)

 窓の外からは、最早騒音の域に達するのではないかと思うくらい、やかましく蝉が鳴いている。

 胸の前に垂れていた髪を掴んで、少し乱暴に後ろに投げる。櫛ですいたように、背にさらさらと流れる長い黒髪も束ねなければ、季節柄暑苦しく見える。

 しかし紗弥菜は、決して束ねるようなことはしなかった。特別理由はないのだが、そうしてしまっては成佳や真優、一応爽奈とかぶってしまうように思えてしまうからだ。

 変わったところにも我が強く、極力は人とかぶらないことを信条としている点がある。何に対してかぶらないようにしているかは、髪形以外は本人にしか分からない。が、まだ他にあるのかもしれない。

「あれー? 紗弥菜じゃない?」

「ほんとだ~」

 紗弥菜がしかめっ面で廊下を歩いていると、半袖ハーフパンツ姿の女子2人が階段から現れた。

 2人の女子がこちらに走り寄ってくる姿を見て、ようやく紗弥菜が気づいた。

「あら、朋絵ともえ夏穂なつほじゃない。部活なの?」

 紗弥菜は相好を崩した。

 他の3人ほどの仲ではないが、それなりに社交的で交流関係が広い紗弥菜は、クラス内に友達が多い。

「まあね。何しろ大会も近いし、暑いなんて言ってられないよ!」

 朋絵が、ポケットからタオルハンカチを取り出し、ごしごしと顔の汗を拭く。

「今日は、成佳ちゃんと真優ちゃんと爽奈ちゃんが居ないんだね。どうしたの?」

 夏穂が首の辺りを拭きながら、訊いてきた。

「成佳と真優は先週実家に帰って、今日帰って来る予定。爽奈は、実習ノートが終わってないんじゃないの」

 最後の爽奈の名前を出すのと同時に、つんとした態度に変貌する紗弥菜は、さながら役者のような演技と言ってもよかった。

「そうなんだ」

 承知した夏穂が頷いた。

 と、朋絵が卑しさたっぷりに頬を吊り上げ、楽しげな語調で紗弥菜をなぶるように言う。

「ふうぅん、そうなの。道理で面白くなさそうな顔をしてたわけだ。彼女と一緒じゃなきゃ、つまんないもんねぇ」

「彼女?」

 この阿呆は何を言い出すんだ、と言わんばかりの呆れ顔で、紗弥菜は朋絵を白眼視する。

「だって、喧嘩するほど仲が良いって昔から言うじゃん。あんた達もできてんのかなーって」

「何を馬鹿なことを言ってんのよ。何でそうなるの? 爽奈も私も女よ? 女同士の恋愛なんて現実的にありえないわ」

 呆れに怒りを足して、白眼視を続ける紗弥菜。

 しかし、敵は全く怯まない。それどころか大げさに後ずさって、びっくり仰天して見せた。

「えええ――っ!? あ、あんた、今の一言で全同性愛者を敵に回したね! 全米のみならず、全世界があごがグワァーン! って落ちるぐらい驚愕したに違いないよ!」

 紗弥菜は呆れを一気に通り越した。今にも爆発しそうな怒りを拳を作ることで、懸命に押し殺す。

「……ごめん、日本語で言ってくれない? ……というか、そういうあんたはどうなのよ?」

「えっ、タチかネコかってこと?」

「は……?」

「そこまで訊かれちゃ仕方がない。私は――」

 んぐっ、と苦しそうな声が朋絵の口内で響く。

 意味を知っているのか、事の成り行きを黙って見ていた夏穂が、朋絵の口を手で塞いだのだ。

「これ以上、訳の分からないことを言っちゃ、紗弥菜ちゃんが混乱しちゃうでしょ。自重しようよ……ねっ?」

 紗弥菜から見れば夏穂が朋絵に、至って普通に微笑みかけているように見える。だが、朋絵から見た夏穂は、凄みのある笑みを閃かせた般若にしか見えなかった。

「んぐんぐ」

 うんうん、と言ってるつもりなのだろうが、口内でくぐもってしまい、正確に聞こえない。

 夏穂は紗弥菜に笑顔を向ける。

「それじゃ、紗弥菜ちゃん。私達はこれで」

 暫時呆気に取られていた紗弥菜が、取り繕うように笑う。

「あ、うん。練習頑張ってね。応援してるから」

「は~い。じゃ、またね」

 そう言い残して、朋絵を引きずるようにして夏穂は去って行った。

 紗弥菜は小首を傾げてうーん、と唸る。

(タチにネコ……何のことだったのかしら? 芸能人に居た気がするけど……まあ、あとで調べよう)

 と、ポケットに入れてあった携帯電話が、突如として激しく震える。取り出して開き、ディスプレイを見ると、『メールがきています』との文字が表示されていた。

(誰だろう)

 メールの差出人の名前を見ると、爽奈からだった。

(あいつが私にメールなんて珍しいわね。どうしたのかしら?)

 同じアパートで部屋も近いからメールや電話よりも、部屋に行った方が手っ取り早い。そう言っていた爽奈が、メールを送るということは余程のことなのだろう。

 とりあえず題名は何も書かれておらず、本文を見てみた。

『たすけて・・』

 言えば数秒で済みそうな一言が、そこに踊っていた。

 紗弥菜が渋面を作る。同時に何だか腹が立ってきた。

(何これ? ったく、ちゃんと変換されてないし、三点リーダも使ってないじゃない。いたずらにしても全く芸がないわ)

 携帯を畳み、ポケットにしまう。心中でぷりぷり怒って悪態をつきながら、廊下を歩き始めた。しばらくは他のことを考えながら歩いていたが、

(でも……)

 やっぱり、文面とめったによこさないメールが妙に引っ掛かった。1度感じ始めた不安は、どんどん悪い方に膨らんでいくものである。

(万が一、爽奈に何かあったとしたら……)

 不安が胸と思考回路を押しつぶしていく。

 成佳と真優は今日帰って来るとは言っていたが、おそらく夜になるとも言っていた。侑治郎も新しく始めたバイトで、夕方にしか帰ってこない。

 今現在の時刻は午前11時30分。今日1日自由なのは、紗弥菜しかいないのだ。

 しばらく無表情でその場に立ち尽くしていたが、まなじりを決して走り出した。

(……私が行くしかない。いくら毎日口喧嘩してるとは言え、病気や事故の時は関係ない。困ってる時は助ける。それができなきゃ、人としてどうかしてるもの)

 やがて、校門を出た。夏のぎらつく太陽の容赦ない攻撃に耐えながら、アパートへひた走る。

(でも、もしも嘘だったら……絶対に許さないんだからっ!)

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