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11章-1…聖母現象?

「失礼しまーす……」

 侑治郎が教室に入ると、幼児向けアニメを観ていた成佳が、首だけ振り向かせてにっこりと微笑んだ。

「おはようございます。侑治郎さんもこちらにいらして下さい」

 広々とした部屋の真ん中に乳児用の布団が2組敷かれており、傍らにはプラスチックかごがあって中に大小複数枚のタオルと、人数分のおしゃぶりがあらかじめ置かれていた。紙おむつも置かれており、パッケージから見るに男女兼用ものと言う事が分かる。

 侑治郎が感心したように「ほうほう」と言いながら、部屋の真ん中を通り過ぎ、行儀良く正座している成佳の隣にあぐらを掻いた。

「えっ!?」

 声を挙げて仰天する侑治郎。

 それもそのはずである。成佳の膝の上には、既に2人の乳児が座っていたのだ。しかし、アニメに夢中なっているせいか眼以外は微動だにしていない。

「じゃあ、侑治郎さんはこっちの龍弘りゅうこうくんをお願いしますねぇ」

「分かった。それにしても、よく2人もだっこできてたね。派手に動き回る時期なのに」

 成佳の右膝に座っていた龍弘を持ち上げて、左膝に座らせながら、感じ入った口調で言った。

 成佳は頬を緩めながら、しみじみと言う。

「なぜだかは分からないんですが、私が担当する赤ちゃんは、みんな大人しい子ばかりなんですよねぇ。嬉しいことは嬉しいんです。でも、ついて下さった保育士の方々が口々に苦笑交じりに『これじゃ、実習じゃないね』と、仰るぐらいで」

「へえ~、何でだろうね」

 保育士としては、言葉を発することもできず、1番心中が読めないであろう年頃の0歳児の扱いが、如何に難しいか分かってもらおうとしたのだろう。しかし、成佳がだっこすると途端に、借りて来た猫のように大人しくなってしまうのだから、どうしようもない。もう一度保育士がだっこすると、たちまち泣き出したり、腕の内で暴れまわったりと、とにかく成佳から離されることが不愉快らしい。いくら保育士があやしても、不機嫌なままであった。

「さあ、分かりません。でも、私がまただっこすると大人しくなったり、機嫌良く笑ったりするんです。それをその日の担当の方が、"聖母現象"と呼んだんですよ」

 "聖母現象"――別に、特殊能力でも何でもないのだろうが、成佳には子供の心を穏やかにする天性があるらしい。と言うよりもそういうことにでもしておかなければ、保育士がこれまでやってきた自分の保育士としての能力を、疑いたくなるものである。

「"聖母現象"ねぇ……確かに合ってるかもな。成佳は優しい性格だし、全くと言ってもいいほど怒らないしな。あと……」

 そのまま流暢に結構肉付きの良い体をしてるからな、と言う言葉を言おうとしたが、慌てて喉奥に押し込めた。流石にこれはセクハラってレベルじゃね―ぞ! と、思ったからである。

「あと……なんですか?」

 当然、成佳は小首を傾げて訊き返してくる。

 侑治郎は胸のうちに罪悪感が湧いてきて堪らず眼を離し、引きちぎれんばかりに首を横に振る。

「何でもない! 何でもないったら、何でもない!」

 性に目覚めた小学校高学年ないし、中学生の野郎みたいな妄想が露見したら、まともに目を合わせられない。挙措きょそを失う1歩手前までに心中が追い詰められた。

 と、成佳が何かを思い出したのか手をぽんと打った。

「あ、いけないいけない。侑治郎さん、この体温計で龍弘くんの体温を測って下さい。私は凪沙なぎさちゃんのを測りますので」

 一瞬、ばれたかと思ったが、どうやら杞憂に終わったらしい。ほっとしつつ手渡された体温計のスイッチを入れて、龍弘の服の上部のボタンを2つ外し、そこから手を入れて脇の下に体温計を挿し入れた。その上で動かないように引き寄せるが、両手と頭をしきりに動かすものだから、何度も体温計が脇の下から落ちてしまった。

 見かねた成佳がアドバイスを送る。

「体温計を挿し入れた腕を、ぎゅっと掴まえておいた方がいいですよ」

「うん、そうだな。にしても、成佳の方の凪沙ちゃんは動かないな~。テレビに熱中してるせいもあるのか。それともこれが"聖母現象"なのか」

 成佳が苦笑いを浮かべる。 

「さあ、どうなんでしょうねぇ」

 ぴぴぴぴっ、と体温を測り終えたことを報せる電子音が鳴った。

「36度2分、と。うん、凪沙ちゃんは今日も平熱だねぇ。じっとしていてくれてありがとうね」

 頭を優しく撫でつつノートに書き込むと、凪沙を優しく膝の上から下ろした。

「ん? どうしたんだ?」

 成佳は、面映そうに両目を伏せる。

「侑治郎さん、ごめんなさい。少しお手洗いに行ってきてもいいでしょうか?」

「ああ、いいよ。龍弘がばたついているけど、凪沙ちゃんはテレビに夢中だし、少しの時間なら俺でも大丈夫だろうし」

「ありがとうございます。すぐに帰ってきますので」

 成佳が立ち上がって、そそくさと教室から出て行った。

 眼で見送った侑治郎が、意識を膝の上にちょこんと座っている龍弘に移す。途端に、生暖かい感触が膝上に伝わってきた。

「龍弘……お前、もしかして」

 とりあえず、その場に仰向けに寝かせて服のボタンを取り、紙おむつを広げてみた。すると、如何ともしがたい臭気とともに、大のほうの便が現れた。

 侑治郎はうんざりとした表情を隠すこともなく、「はあ……」と溜息をついた。

「やっぱりか……」

 いつまでもへこんでいても仕方ない、そう思いながら立ち上がり、紙おむつとウェットティッシュと『おむつ用』と書かれたゴミ袋を持ってきた。

 そして、便の形状を再度見直す。と、なぜか侑治郎の顔が明るくなった。

「でも、1本か。これなら始末が簡単だな。にしても、可愛い顔して豪快な物を出すんだな。きっと将来は大物になるぞ」

 侑治郎の言葉を理解してるのか、龍弘は「きゃっきゃ」と機嫌良く笑いながら、短い手足を動かした。

「こらこら、そんなに動くなよ。じっとしてればすぐに終わるからな」

 薄く透明なビニールの手袋をはめて、紙おむつを便を包むようにして丸め、ゴミ袋に捨てる。次に、ウエットティッシュを取って、尻穴周りの残り便を性器につかないように、前から後ろにさっと拭き取った。最後に、替えのおむつを尻に敷き、隙間ができないように多少きつめにして、マジックテープで固定した。

「ふう、あとは……」

 ウエットティッシュを捨て、手袋を手を汚さずに取って捨てた。暴れる龍弘を言葉でなだめながら服を着せると、ようやく終了である。

「やっと終わった――っ。どうだ? 気分良いだろ」

 龍弘を座らせつつ、試しに問うてみた。

 龍弘は、両手をばたばたと動かしながら、「きゃはは」と笑って答えた。

「そうかそうか。なら、良かった。こちとら数年振りだったからなあ。我ながら上手くいったもんだ」

 体中がほぐれるような安堵感を感じ取っていると、凪沙がハイハイをして近付き、両手を侑治郎の膝の上に置くと、けがれのない瞳で両目をじいっと射るように見始めた。

「お、どうしたのかなー? 龍弘ばっかり構ってて寂しくなっちゃたのかな?」

 侑治郎が猫なで声で訊いてみるが、凪沙は黙って凝視を続けている。

 困惑した侑治郎は、近くにあったパンが擬人化したような仮面を引っ掴み、顔に装着した。

「やあ、僕マジパンマン! すっごく甘い顔だから、アリさんが体を登ってきて大変なんだ! まあ、ポケットにはマーズ社が作った『アリさん根絶』が入ってるから、大丈夫なんだけどね!」

 うろ覚えの声音でご機嫌を取ってみた。すると、凪沙の瞳に涙が溜まり始めたではないか。両目がぎゅっと閉じられ、代わりに口が大きく開けられた瞬間、侑治郎は何かに感付いて仮面を取り去り凪沙を持ち上げ、でん部辺りをかいでみた。

「……凪沙さん、あんたもですかい……」

 侑治郎が「はあ~あ……」と溜息を吐いていると、出入り口が開かれた。

「侑治郎さん、ごめんなさい! 遅くなってしまって……」

 珍しく、いつもはのんびりと構えている成佳が取り乱し気味だった。

「ああ、何の何の。龍弘がたれた以外は、何もなかったから」

「そうですか。でも、何で凪沙ちゃんを持ち上げているんですか? 今にもぐずりそうですし」

 侑治郎は「あっ」と気づいて声を出して苦く笑う。

「ごめん、前言撤回。凪沙ちゃんもやっちゃったみたいなんだ……」

 成佳の顔にいつもの表情が戻ってくる。

「じゃ、凪沙ちゃんの方は私が取り替えますねぇ」

「お言葉に甘えます」

 深く頭を下げつつ、まるで朝貢を献上せんばかりに、涙目の凪沙を成佳に手渡した。

 成佳は布団の上に新聞紙を敷き、その上に凪沙を寝かせると、手際も素晴らしくあっと言う間におむつを交換してしまった。

 侑治郎は、目の前に起こった早業はやわざを、間抜けのように口を開けたまま見ているだけであった。

「す、凄い……早いだけじゃなくて技術も兼ね備えているとは。流石は成佳」

「ふふ、それほどでもありませんよ~。前に話したかもしれませんが、きょうだいが居ない代わりに、いとこが沢山居ましたからね。よくお守りをしてましたから、おむつ交換なんて慣れっこです。それに凪沙ちゃんは、ちゃんとした固形のうんちでしたし。これが液状のうんちだったら、後始末が凄く大変なんですよ」

 話しながらも穏やかな表情を全く崩さず、服のボタンを留めている。

 その姿に侑治郎は、子供に対する成佳の対応に強く尊敬の念を抱くのだった。

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