10章……真実と意地
「あれ? おかしいわね、ないわ」
紗弥菜は、かばんの中身を1つずつ出してみた。それでも、添削中だった小説を入れたクリアファイルが見付からない。
「もしかして、学校に忘れてきたのかしら。……面倒だけど、取りに行くしかないわね」
諦観し、渋面を作った瞬間、チャイムが鳴った。
「はーい」
様々な人物を思い浮かべてみる。
(今時分に誰だろう。成佳か真優? それとも……まあ、あいつは滅多に来ないか)
錠前を解除し、ドアを開けて出迎える。
「こんばんは。渡したい物があって来たんだけど、ちょっといいかな」
意外な人物の来客に虚を衝かれた紗弥菜は、目を瞠った。
(な、何で侑――円城寺が私の部屋に来るのよっ!?)
頭が激しく混乱の坩堝と化し、予想外の状況に脳の処理が遅れている。しかし、いつものように何処か冷たさを含んだ眼に変化させると、眼鏡の智を触りながら冷たく言い放つ。
「何しに来たの? 部屋を間違えたんなら、謝れば許してあげるわよ」
「いや、間違えてないよ。ただ、渡したい物があるんだ」
「あっそう。渡したら、早く帰りなさいよ」
「言われなくてもそうするさ。はい、これ。忘れ物だろ」
侑治郎がかばんから取り出したクリアファイルに、紗弥菜の動転は一気に極まった。クリアファイルを奪うようにして受け取ると、ひしと両手で以って胸の中に抱きしめた。真紅に染まった顔を胸に落とし、今にも頭から外気より熱い風を出しかねない。
(何で何で何で!? 侑治郎が私のクリアファイルを? ということは中身を読まれたって事?)
黙り込んでしまった紗弥菜に、対処法などはなかった。
侑治郎は、一時的に混乱から復活を待った。顔を下に向けているものだから、何ごとかをぶつぶつつぶやているのは分かるが、表情が全く分からない。失礼と知りながらも少ししゃがみ、下から顔を窺ってみた。
眼鏡のレンズ越しに瞳が上下左右に動き回り、動揺の様子がありありと表れている。呼吸も少し荒く、心臓が高鳴って胸が苦しいのだろう。クリアファイル越しに大きな胸を潰していた。
「それじゃ、俺はこの辺で……」
これはしばらくは無理だと悟り、侑治郎は紗弥菜に背を向けてその場を去ろうとする。
「ま、待って!」
紗弥菜が侑治郎の肩を掴み、自分の方に引き寄せた。
「ええっ?」
侑治郎は後ろから倒れそうになるが、何とか踏ん張って振り向いた。
相変わらず紗弥菜は、上気とした顔だった。恥ずかしそうに眼鏡を外して両手でもてあそびながら、伏し目がちに侑治郎を見る。
そのしおらしい紗弥菜を初めて見た侑治郎は、どぎまぎした。
いつもは鼻持ちならない高圧的な女と言う印象しかなく、とにかく嫌な奴という認識が脳内での確定事項だったからである。それが今、激しく揺らいでいた。
紗弥菜が蚊の鳴くような声で訊ねる。
「その……こ、これを読んだのよね?」
「あ、ああ、読んだよ。……それが?」
眼鏡をかけ直しつつ、恥ずかしさと嬉しさを混同した声音で言う。
「よ、良かったら、私の部屋に入ってくれない!? 詳しく聞きたいの……」
「ええっ!?」
甚く仰天した。"考えられない"と言う単語が脳味噌を埋め尽くす。
「だ、駄目……かな?」
上目遣いで侑治郎の双眸をじっと見つめた。
侑治郎は心中で生唾を飲んだ。
性格は多少難があるが、紗弥菜は基本的に美貌を備えた美人である。そんな美人に上目遣いで物事を頼まれては断りようがないし、男なら胸が高まらないはずがない。
「いいよ。俺なんかでよければ」
侑治郎が首肯して言うと、紗弥菜は手を合わせて飛び上がらんばかりに喜んだ。
「本当っ? ありがとう! じゃ、狭いけど入って入って」
紗弥菜の嬉々とした表情に、侑治郎は若干の不信感を胸に留めつつも、後に従った。
紗弥菜の部屋はこざっぱりと整理整頓されており、フローリングの床に塵1つ落ちてないほどであった。部屋の奥には勉強机が置いてあり、その上には10冊近くの辞書が2列に分けて詰まれており、物書きということを植え付けるのにたやすかった。勉強机の隣には木製の本棚が鎮座し、様々な種類の小説から参考書や図鑑や漫画や絵本などが、所狭しと並べられていてまるで小さい図書館のようである。部屋の中央には少し大きめのモノクロのテーブルが置かれ、傍には座布団が敷かれてあった。
「まあ、適当に座ってくつろいでよ。私はお菓子と麦茶を持って来るから」
「あ、こりゃどうも」
侑治郎はとりあえず座布団の上にあぐらを掻いた。
「はい、どうぞ。お菓子は甘い物しかなくてごめん。食べられそうだったら、食べて」
紗弥菜が申し訳なさそうな顔をしながら、麦茶と皿にうずたかく盛られた甘菓子を侑治郎の前に差し出した。
「いやいや、そんなそんな。お構いなく」
慌てて手を振る侑治郎の向かいに座りつつ、紗弥菜は首を横に振った。
「遠慮しちゃ駄目よ。それに、これから結構時間がかかると思うからね。頭を使うから嫌でも食べたくなるわよ。さてと、感想を聞かせてもらっても宜しいかしら?」
「うん、分かった。まずは――」
侑治郎も普段から読書をしており、特に歴史小説を愛読していた。それ故に、相当な知識を持っているせいか、容赦無く内容について突っ込んでいく。
その度に紗弥菜は、喜怒哀楽を存分に働かせていた。やはり、自分の作品を他人に批評されるのは相当効くらしい。特に、長々と上手い表現にしたつもりで自分では良い文だと思っても、他人から見ればくどいの一言で悪文と片付けられると尚更である。それでも、最終的には侑治郎の意見を真摯に聞き、冷静に受け止めていた。
「でも、良い所は良いし、姫とか武将の人物表現は良いと思う。ただ、細か過ぎるのも想像する助けにはなるんだけど、多用し過ぎるのは避けた方がいいかなと」
侑治郎とて鬼ではない。否定的な意見だけではなく、ちゃんと褒めるべきところは褒めている。
「――以上かな。あれこれ言って悪かったな」
今の紗弥菜は無表情に近く、一応頭を下げて謝っておく。
「ううん、全然気にしてないわ。そりゃ、けなされたり罵倒されたりされれば頭にくる。けど、円城寺の場合は的確な批評だったもの。文句も怨みもないわ。付き合ってくれてありがとう」
莞爾と笑い、こうべを垂れる。
侑治郎は、初めて自分に対して礼儀正しく振舞ってくれる紗弥菜に、感動すら覚えた。同時に、激しく揺らぎっ放しだった嫌な奴と言う確定事項が、脳内から抹消される。
頭を下げている紗弥菜の腹が、か細くくぅ~っと鳴った。
「あ……」
2人が同時にもっとも発しやすい母音を口内から漏らす。
皿を見れば、うずたかく積まれていた甘菓子はとうに消え失せ、食べかすのみが残っているだけである。
侑治郎は、何だか紗弥菜のことが可愛く思えてきた。見た目はすっかり大人だが、以外にまだ子供なんだなと勝手に思う。
「これは……その……」
紗弥菜は必死に取り繕うとするが、なかなか言葉が出てこない。
それがまた心美しく、侑治郎の頬を緩ませる。
「よし、あれこれ言って申し訳ないし、俺が晩飯を作ろう。好きな料理を言ってくれ」
突然の宣言に弾かれたように、紗弥菜は侑治郎をまじまじと見た。
「え……そんな悪いわよ。批評して疲れたんじゃない」
「いいから、好きな料理を言ってくれ」
急かされ頭を切り替える。少し考えた後、開口する。
「ゴ、ゴーヤとブロッコリーと魚かな……」
「OK。じゃあ、ちょっと食材を持って来るな。台所を借りてもいいか?」
「い、いいけど……円城寺、あんた料理できるの?」
「ああ、任せておけって」
鍛え挙げられた胸板を拳でどん、と叩く。すっくと立ち上がると、侑治郎はさっさと出て行った。
紗弥菜にとって信じられないことが起こっていた。
(私の部屋で男が料理をしている……。しかも昨日までろくに会話をしたことがない男が……)
楽しそうに料理をしている侑治郎に目を向けつつ、当てもなく思う。しかし、すぐに首を横に振る。
(ううん、正確には私が会話の芽を潰していた。折角、話しかけてくれるのに、冷たく返したり、嫌味ったらしく言ったり……。だから、侑治郎は嫌な女だと思ったに違いないわ。いくら小説の為とは言え、悪いことをしたものね……)
近くにあったクッションを両手でぎゅっと抱きしめる。
(でも、今日みたいなハプニングが遇って良かった。正直、小説のキャラの構想を固めるとはいえ、半ば演技は疲れてたし。それに、侑治郎とは趣味が同じみたいだし、良い友達に……なれるかな? ……あ、それは私の棘のない態度になればいいだけか)
随想に一喜一憂していると、侑治郎が料理を運んできた。
「どうした? 腹が空き過ぎて腹痛でも起きてんのか」
「ば、馬鹿、違うわよ!」
言ってから、しまったと思った。
「ご、ごめ……」
謝ろうとするが、侑治郎が笑声でさえぎる。
「はははは、悪い悪い。それよりも食べてみてくれよ。口にあうか不安だけどさ」
腰を折ると、紗弥菜の前に料理が並べられていく。白米にわかめと豆腐の味噌汁、主菜が程よく皮に焦げ目がついた紅鮭とゴーヤの緑色が目立つゴーヤチャンプルー、他にもブロッコリーを茹でたものなど、紗弥菜の好きな食材を中心にテーブルを賑わす。
「……すっごい……」
頭の中で無数の語彙が浮かんだが、口から出たのはその一言だった。
「いやいや、全然大したことないよ。ちゃんと作ったのなんか、味噌汁とゴーヤチャンプルーだけだしさ。しかもゴーヤチャンプルーなんて、初めて作ったし」
と、謙遜して手を振ってみせる。
「でも、初めてにしては上手くできてると思うわ。本当なの?」
「んまあ、文字のレシピをさっと読んだだけなんだけどな。出来上がり写真なんてみたこともないし」
「はあ……」
侑治郎の想像力に紗弥菜は舌を巻いた。並べられた料理を見ると、食欲が急激に湧いてきた。胸の前で手を合わせて上半身を少し前に倒す。
「それじゃ、いただきます」
まずは味噌汁を一口すする。喉の通りをよくする為だ。出来立てで熱いが、味噌の風味と丁度いいしょっぱさと出汁が調和していて、美味しく仕上がっていた。
次いで、侑治郎が初めて作ったと言っていたゴーヤチャンプルーをつまむ。ゴーヤを口の中で噛み砕く。すると、塩分を含んだ水で苦味を取り除いていたらしく、程好い苦味が口内に広がり、紗弥菜は思わず相好を崩した。
「美味しい……」
うっとりとしている紗弥菜に侑治郎はほっとする。
「そりゃ、良かった。まずいかと思ってひやひやしたよ」
紗弥菜は箸を止めて莞爾と笑ってみせる。
「そんなことないわ。味付けがいい塩梅で完璧よ。料理の腕が立って羨ましいわ」
「いやぁ……」
褒められて満更でもない様子の侑治郎は、こそばゆそうに頬を指で掻く。
満足そうに食べ進めていく紗弥菜であったが、不意に生来の性格鎌首をもたげてきた。
(料理は美味しい。だけど、何なのこの屈辱感は……! 侑治郎はきっと、子供みたいに凄いだろうとか思っているに違いないわっ!)
そう思った時、腹の内が顔に――特に眼に表れた。垂れていた目尻がいつものようになる。嬉しさと悔しさが心中で闘い始めた。とりあえずは、きっと威圧をかけつつ睨む。
「美味しい、美味しいけど……すっごく悔しい! さっさと出て行ってもらえる!?」
いきなり金切り声を発し出した紗弥菜に、笑顔から真顔に瞬時に戻った侑治郎はたじろいだ。
「あ、ああ……分かった」
癇癪を起こした原因など分かるはずも無く、このままいつまでも居座っていては何をされるか分からない為、すっと腰を上げると玄関へ急いだ。
ドアを開けて右半身だけ外に踏み出し、首だけ振り返って紗弥菜の様子を窺う。依然として侑治郎が座っていた真正面を、睨んだまま微動だにしない。
「お、お邪魔しました」
何とも言えない恐怖感が胸と脳を圧する。残りの左半身も素早く戸外に出し、ドアを優しく閉めて、首をかしげながら自身の部屋に戻っていった。
残された紗弥菜は、切歯してひたすら小さなうめきを挙げていた。
(悔しい。こうなったら、色々な料理を完璧に作れるようになって、侑治郎のことをあっと言わせてやるんだから!)
紗弥菜の中で治まっていた勝気で強気な性格が、再び如実に現れ出した瞬間だった。
翌朝。午前8時。
「でっくん、お前は完全に包囲されている。大人しく出て来い!」
爽奈がいつもの如く、なかなか起きない侑治郎の部屋の前で、飽きずに呼びかけていた。
だが、今日は何度も呼びかけても返事がなかった。爽奈の眼に悪さを企んだ時特有の光が奔る。
「よーし、今日も必殺"ダイブトゥーベッド"が繰り出されるようだ」
「そーちゃん、好きだよねー。その技」
真優が小さくあくびをしながら言った。
「なんせ、私の十八番だからね! じゃ、行くよー……ありゃ? まゆっちや、紗弥菜はいずこへ行った」
「さあ……でも、侑さんの部屋のドアが開いてて、中に入ってるみたいだよ」
爽奈が目を見開き、頓狂な声で叫ぶ。
「はあ!? 紗弥菜って侑治郎のこと嫌いじゃなかったっけ?」
「そう見えるかもしれないけど、小説のキャラ設定の為にああいう態度を取ってだったんだって」
ふわぁ~と気の抜けた声を発し、真優は再び眠そうなあくびをする。
「へえー、全っ然知らなかった。小説を書くのも難儀なもんだねぇ」
爽奈はどうでもいいと感じで応じた。
「武士が突然の奇襲に驚いた時に言う言葉は?」
「すわっ! 敵襲ぞ!」
紗弥菜の問いに体で反応した侑治郎。顔まで作っていたが、夢だと知ると寝惚け面になってしまった。
紗弥菜はカーテンを開け放つ。
「おはよう、良い朝ね」
「全くだ……って、お前何やってんだ!?」
侑治郎は、思わず枕を盾に身構えてしまう。
すると、紗弥菜は心苦しそうに謝罪をする。
「昨日はごめんなさい。自分で言うのも恥ずかしいぐらいなんだけど、私は相手が得意そうに作っていたり、昨日の場合は食べて凄く美味しいと、勝手に対抗意識を燃やしちゃう時があるのよ。それで半ば我を忘れてあんなことを……」
侑治郎は、寝癖のような頭をぼりぼりと掻く。
「そうなのか。まあ、仕方ないんじゃないか。あん時は驚きはしたけど、怒っちゃいないよ。そうかー、料理か~……ま、紗弥菜の料理がどんなもんか見てみたいし、頑張ってな」
「うん、ありがとう」
紗弥菜は、しとやかに笑った。だが、まだ心苦しそうである。
侑治郎が、面をやや渋面にしつつしっくりこないとばかりに言う。
「うーん……。なんからしくないと言うか、違和感があるなあ。今日からはありのままの態度で話してくれよ。俺はその方がいい」
紗弥菜がはっとしように、笑顔を壊して顔を怒らせる。
「うるさい! 調子に乗るんじゃないわよ。絶対、料理を作れるようになって、ぎゃふんと言わせてやるんだから。覚悟しておきなさいよ!」
「爽奈と同じかよ! ……まあ、いいか。これからもお手柔らかに宜しくな」
「ふん!」
腕を組んでそっぽを向く。
侑治郎は苦笑しながら、ようやく紗弥菜を気の置けない人物として見る事できると、内心喜んだ。