09章……忘れ物
「失礼しました」
侑治郎が、深々と礼をして静かにドアを閉めた。無表情を決め込み、しばらく廊下を歩いて行く。曲がり角を曲った所で、おもむろに顔を歪ませた。
「あ゛ー……あっつい。何とかならねえかなー、この暑さ……」
左手をうちわのように顔の近くで扇ぐ。だが、微々たる涼しか得られなかった。右手もTシャツの胸倉辺りを掴んで、風を入れんと必死に動かすが、全く効果がないと言ってもいい。
そればかりかこの時期独特のむわっとした湿気を、はらんだ生暖かい空気が廊下中に充満している。窓を全快にしてもあまり外気が入ってこないこんな所で、涼を得ようとすること自体が無茶というものだ。
季節は既に6月の上旬に突入し、雨天が増えてきた。それと比例するかのように、ここ最近ではセ氏25度以上の夏日が連続しており、体にまとわりつくような暑さで人々をいらいらさせる日々が続いている。
侑治郎もいらいらしていた。暑さもそうだが、実習のおかげで前倒しになった定期試験が、今月の下旬に差し迫っている。入院中は何もすることがなく、卒業と同時に国家試験が免除されるのにも関わらず、暇にかまけて様々な教科をこなしてきた。
しかし、分からない所はどうしても分からず、連日1日1教科の度合でそれぞれの教科の教授のもとを訪ねに行っていた。すると、5時限まである日はとんでもなく遅くなり、帰りの時刻も自然と午後7時を過ぎていることも少なくない。
ありがたいことに成佳や真優も良かったらと教えてくれるが、彼女達にも試験勉強があるしと、最近では断っている。
今日は幸い3時限の午後3時前には終わったものの、色々と訊きたいことを訊いていたら、午後5時近くまでになっていた。流石に、こんな時間帯に教室に居る者など皆無であり、しんと静まり返っている。
侑治郎は、かばんを取りに行こうと窓側の列に足を踏み入れようとした。その時だった。
「うわっ!」
掃除当番の生徒が片付け忘れたのか、床に落ちていた雑巾に足を取られ、前のめりに机に突っ込んでしまった。机と椅子が同時に倒れ、轟音が教室中に鳴り渡る。
「いつつ……ったく、誰だか知らんけど、ちゃんと片付けておけよな。はあ~、よりにもよって百武の机を倒してしまうとはなあ……。あれ?」
愚痴りながら強かに打った額を撫でていると、何も入っていないと思われた机の中から、クリアファイルが飛び出し、倒れた机の前方に落ちていた。
手にしてみると、それなりの厚みと重量があることが分かった。
(誰も居ないし、ちょっとぐらい見てもいいよな)
好奇心が湧き、1番上の何も書かれていない白紙をめくってみる。すると、無数の文字が白紙を埋め尽くすようにして紙面を賑わせていた。かぎかっこや三点リーダやダッシュがあることから、ある結論に達した。そしてそれは、夢想だにしなかったことであり、目を丸くする。
「もしかして、小説? まさかあいつが……でもありえるな。眼鏡をかけているし、結構ものを知ってるみたいだし」
あっさりと単純な理由で衝撃的事実を片付けた侑治郎は、中身が気になって仕方なくなった。見てはいけないと脳内の天使が懸命に呼びかける。しかし、悪魔も負けていない。ただ単に、見ちまえ見ちまえと連呼するのみではあるが、これが実に効果的だった。
「少しぐらいなら……」
死闘の末に悪魔が勝った。昂揚感が胸を圧し、若干の息苦しさを感じつつも1ページ目の文章に視点を移動させた。
「放てえっ!」
鉄砲頭の胴間声が発せられるや、草むらに伏せっていた30人の鉄砲足軽が一斉に引き鉄を引いた。筒先から発砲煙とともに必殺の弾丸が大気を切り裂き、吶喊してくる敵勢を打ち倒していく。その中に、士気を采配していた1人である騎馬武者の額に喰らわせることができた。
「よし、ひとまず退くぞ!」
鉄砲足軽は、鉄砲を背負うと縄でくくりつけ、一目散に退いていこうとする。
その退いて行く様を見た騎馬武者は、同僚を撃ち殺された悲憤慷慨し、絶叫する。
「ええい、小癪な! かような小勢、ひと思いに踏み潰してやろうぞ。皆の者かかれい!」
「おおおおう!」
騎馬武者が手勢を率い、鬼のような形相で鉄砲足軽が退いた方をひた走る。やがて草むらからも抜けた。その時だった。
「こ、これは何としたことぞ!?」
先頭を行く騎馬隊が眼前からいきなり消えたのだ。
不安が生じ、中ほどを走っていた騎馬武者が、進撃を停止させようと号令をかける。
「止まれ! 止まれ――っ!」
一応は止まったものの、後方を走っていた者は何故止まったのか解せない。血の気の多い武者達は、文句を言う事も出来ずにただ血走った眼で前方を睨むのみだ。
騎馬武者は、10人ほどを割いて斥候を出した。すると、草むらを抜けた先には空堀が掘られていて、騎馬隊は壊滅したと言う。
「むむむっ……では、なぜあいつらは逃げおおせたのか」
疑問を吐露し、忌々しげに歯軋りをする。
「やむおえん、一時撤退するぞ!」
先ほどまでの気勢は何処へやら、すごすごと持ち場に戻って行った。
その光景を本丸からじっと見下ろしている小具足姿の女が居た。見た目は幼さが取れて芳紀を少し過ぎたほどであり、艶やかで長い黒髪を後頭部辺りで束ね、額には細い白布が鉢巻として巻かれている。卵形のつるりとした面の中に整えられた眉、強い意志が込められた大きな瞳、筋の通った鼻に、ふっくらとした唇には紅が引かれている。体はほどよい肉付きで、年相応の色気も備えていた。
彼女の名前は、遥山夏音。古風な時代に似つかわしくない名前であるが、父譲りの義理や人情に厚い気質を受け継いだ戦乱人だった。
気がつけば侑治郎は、夢中になって熟読していた。読了して一息ついた頃には、午後5時半を少し回っていた。ふと、体に不快感があることを覚えた。それもそのはず、高温多湿の教室に閉め切った状態で1時間も居れば、体中に汗を掻くことは常識である。かばんからタオルを取り出して、とりあえずは顔に浮いた汗を拭き取る。首の汗を拭いた時、疑問に思う。
(これを届けた方がいいのか、机の中に戻しておいた方いいのか……)
ぺらぺらめくると必ずと言ってもいいほどに、赤ペンで添削した跡が残っていた。ところが、70ページ目でぷっつりと途絶えており、おそらくは部屋に帰ってから添削を再開するつもりだったのだろう。
(届けてあげるか。今頃は探してるかもしれないし。……ただ、こんな汗まみれじゃ駄目だよな)
100枚近くある印刷用紙を綺麗に整えてクリアファイルの中に戻した。かばんの中に入れて、侑治郎はそそくさと教室を後にした。