序章……涙の別れ
そこに流麗な歌声が響き渡っている。
居間の窓辺に、春のうららかで優しい陽光を浴びている親子が居る。
正座している母親の膝には、人形のように可愛らしい女の子が頭を置き、心安らかに小さく寝息を立てていた。
母親は、慈愛に満ちた表情を浮かべ、寝顔に目を注いでいる。女の子のお腹をぽん……ぽん……と、軽く叩きつつ、一定の律動に合わせて子守唄を歌っていた。
その歌声はどこまでも透き通っていて、どんなに感情が昂っていようとも、聴けばたちまち心休まると言っても過言ではないほどだ。
どんな夢を見ているのだろうか。女の子が不意に、無垢な笑顔を母親に見せた。
母親は嬉しそうに口元に笑みを湛えつつ、もう片方の手で女の子の頭を優しく撫でる。
傍から見ても幸せそうな光景だった。
やがて、子守唄が終わりを告げる頃になると、ものの数十分しか経っていないであろうにもかかわらず、急激に外が真っ暗になっていた。いつのまにか居間の電灯にも白々とした光りが灯り、2人を明るく照らしている。
母親は顔を曇らせつつ、女の子の頭を撫でるのを止めた。すると、徐々に母親の体が少しずつ透明になって消えていくではないか。
異変に気づいたのか愛撫が止まったことに不満を持ったのか、女の子が指で目をこすりつつ目を覚ました。そこには、胸が張り裂けそうな悲しい顔で、女の子を覗き込んでいる母親が居た。
「ごめんね……本当にごめんね。爽奈ちゃん……」
母親が悲しみで口を震わせつつ言った。
爽奈と呼ばれた女の子は、理解できずにきょとんとしていたが、母親が透けて天井にある電灯が見えることに疑問を感じた。
「おかーさん。おかーさんは何でとーめいにんげんみたいなの?」
質問に答えている暇ない。そう判断した母親は、矢継ぎ早に伝えるべきことを伝えることにした。
「爽奈ちゃん。おかーさんはね、もういかなくちゃならないの」
「ええー、どこにいくのー?」
「遠くて近い所。……もう会えないけど、そこからずっとずっと……見守っていてあげるからね」
母親の姿がいよいよ消えようとしている。そのせいか、母親に話していると言うよりも、天井の電灯に話しているようにも思える光景だった。
「そんなのやだーっ。そーなもいきたいー!」
爽奈が顔を涙でくしゃくしゃにしてぐずり出す。
そんな娘を見て母親の目からも涙がこぼれた。ふと、庭に通じる窓に目を向けると、自分の姿がもう間もなく消えかけようとしていた。おそらく、あと二言ほど言うだけで消えてしまうであろう。瞬時悟った母親は、涙を指でさっと払い、精一杯の笑顔を作り、優しげな口調で我が子に言う。
「泣いてばかりいちゃ駄目よ。爽奈ちゃん。爽奈ちゃんは、お姉ちゃんになったんだから。これじゃあ、赤ちゃんに笑われちゃうよ。これからは泣く時と泣かない時を分けること。分かった?」
「う、うん……分かった。分かったから――」
母親は爽奈の言葉を遮りつつ、
「うんっ、それでいいんだよ。おとーちゃんにも宜しくね」
言い終わるや、完全に姿を消してしまった。
「おかーさ――」
どん、と頭を畳に打つ音が小さく鳴った。
その痛みに目を覚ました爽奈は、ひどく驚いた。
夢で膝枕をしてくれていたのは母親であったが、今、自分の顔を覗き込んでいる見知らぬ女性の膝で寝ていたことに、少なからず衝撃を受けたからだ。
(この人……だれ?)
爽奈は、動揺の中にも疑問を生じさせる。なぜ、正面にはふっくらとした顔の見知らぬ女性が居るのか。
「爽奈ちゃん、起きたのね。もう少しで終わるからもうちょっと辛抱しててね」
女性がやや前傾姿勢になりつつ、ぼしょぼしょと小声で言った。
そんな女性の言葉は、今の爽奈にとって馬耳東風である。激しく動揺しながらも、そのままの格好で頭を左右に振り、母親を探した。
しかし、居ると言えば、見知らぬ男性や女性ばかり。しかも、どういう訳か見渡す限り全員黒い服を着ている。
そのうえ、沈痛な表情の者、すすり泣きが洩れないように口元をハンカチで押さえている者、涙を目一杯溜めながらも気丈に正面を凝視している者など様々だ。
なおも動揺し続ける爽奈に突然、聴覚と嗅覚に意識が集中した。聞いたこともない単語を並べた歌のようなものを、おそらくは老人が、だみ声で唱えている。しかも何やらにおう。数年前、祖母が逝去した時と同じにおいだった。
とうとう爽奈はつっと立ち上がった。驚き呆気に取られる女性を後目に、周りを目を皿のようにして見尽くす。だみ声のする方を見ると、坊主頭がある。僧服を着た僧侶が仏壇の前に座っていた。次いで、視線をやや上に移動させた爽奈の双眸に、白黒の遺影が映りこんだ。瞬間、石像のように固まった。
にわかに立ち上がった爽奈に、周りは目を瞠った。頭に疑問符を浮かべながら、ざわめき出す。
と、どうしていいか分からないといった風の女性の横に座っていた男が、異変に気づいて爽奈を座らせようと、女性の前を膝立ちでいざり、細い腕を引っ張る。
「こら! いきなり立つ奴があるか。ちゃんと座ってなさい」
男の怒気をはらませた小声に立ち返った爽奈は、泣きっ面を作りつつ男の充血した眼を見る。
「とーちゃん……かーさんは死んじゃったの?」
既に泣き声とも言える声で、男に訊いた。
男はとっさの答えに迷い、唇を噛んだ。表情も怒から哀に近いものになる。少しの無言の後、ゆっくりと頷いた。
深い悲しみのどん底に一気に突き落とされた爽奈の眼から、おびただしい量の涙が溢れ出した。
「うっ……うっ……」
顔を涙で歪め、眼をぎゅっと一度瞑った。それが契機となり、爽奈は大声を挙げて泣いた。
その声は先に天上に逝った母親に届いたのであろう。この日、空に1つの流れ星が流れたという。