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作者: 立田

 流行にはとんと興味がないわたしであるのに、流行最先端のインフルエンザにかかってしまった。

 朝から喉が痛かったのに、気のせいだとごまかして仕事に行ったのがよくなかった。どんどんどんと音が出そうな勢いで熱は上がり、長針と短針が12の位置で重なるころには寒さで指先まで震えていた。やっと昼やすみになって職場近くの病院にかけこむと、その場で帰宅命令が出されてしまった。

 いつもの道のりが倍にも思えた。ふらふらしながら電車を二回乗り換えて、どうにかアパートにたどりつく。わたしは道隆さんにメモを書くと、処方してもらった薬を飲んで布団にもぐりこんだ。

 全力疾走したわけでもないのに息が切れる。暑いのか寒いのかわからなくて背筋がぞんぞんする。生理的な涙で視界がにじむ。

 目をつむって暗闇に包まれると少し落ち着いた。そしてそのまま寝てしまった。


 ひんやりした感触で目が覚めた。

「気分はどうですか」

 枕元に座った道隆さんは、わたしの額に濡らしたふきんを乗せながら言った。絞りかたがあまいせいで、つるつると水滴がこめかみを伝って流れ落ちた。

「とてもいいとはいえません」

「でしょうね」

 乾いた舌をもてあましながら返事をすると、道隆さんが立ち上がって電気をつけた。

 数時間は経っているらしい。窓の外はすっかり暗かった。

 道隆さんが帰宅している時間なのだからあたりまえだ。

「ちょっと買い物にいってきます。あなた、その間に着替えといてくださいよ」

 体温計をわたしに手渡すと道隆さんは出て行ってしまった。

 わたしは家の鍵が外から掛けられる音がするまでじっとしていた。

 それからやっと起き出して、まずべっちょりしたふきんを顔からのけた。パジャマの替えを出してのろのろと腕を通す。

 時計を見ると11時を過ぎたところだった。

 近くのスーパーはもう閉まっているから、買い物にはコンビニに行くしかない。

 ちょっと高くついちゃうなあ、と思っていると電子音が響きわたった。

 体温計を取り出してみると39℃近かった。熱っぽいとは感じていたが、こうもはっきりつきつけられてしまうと一気に具合が悪くなった気がする。わたしはうつぶせに倒れこんだ。


「薬飲むまえになにか食べないと。梨、むきましょうか」

「食欲ありません」

「でもなにか口に入れないとだめですよ」

「そんなことより道隆さんこそマスクしてください、うつっちゃいます」

 大きくふくらんだビニール袋を抱えて帰ってきた道隆さんはいそいそとわたしの世話をやいた。

 掛け布団をおりたたんでわたしの背もたれにし、台所へととって返す。しばらくして戻ってきた道隆さんの手には、梨が山盛りのお皿があった。

 元気なときでさえ食べられない量だったけれど、わたしはおとなしくフォークに刺してあった梨をちびちびとかじった。

「風邪なんて、ひさしぶりですね」

「ただの風邪じゃないです、インフルエンザです」

 いちおう訂正はしたものの、たしかに体調を崩しやすいこどもだったわたしが何度も道隆さんの手をわずらわせたのは、まぎれもない事実なのだった。

「この部屋で寝ちゃだめですよ。手もちゃんと洗って、うがいもしてくださいね」

「いっそうつったら堂々と仕事が休めるんですけど」

 あながち冗談ともいえなさそうな道隆さんからコップを受け取って薬を流し込む。

 開けたばかりのミネラルウォーターの大きなペットボトルを、道隆さんが電気スタンドの隣にどんと置いた。

 わざわざ買ってきてくれたのだ。水道水でよかったのに、と思う。

 そんなに大事にしてもらうと、心ぐるしい。

 でも同時にうれしい。

 わたしはもごもごと礼を言うと、布団を食堂兼台所に運んでゆく背中を見送った。

 電気を消すとすぐに眠れたが、どうしようもなく重苦しい夢ばかりみた。


 次の日はうつらうつらするうちに過ぎた。したことといえば、ペットボトルを空にしたのと、トイレと布団の間を何回も行ったり来たりしたことだけだ。


 その次の日起きると、新しい2Lペットボトルが置いてあった。道隆さんはとっくに仕事に出かけたらしい。

 苦労してペットボトルを開けて、いけないことだとわかっていたが、なにも食べずに薬だけ飲んだ。


 薬の成分のせいなのか、どろどろに眠い。ほんとうに寝ているだけで一日が過ぎて行くなあ、とわたしはへんなところに感心した。


 やっと意識がはっきりしたのは夕方になってからだった。

 わたしはまた水を飲んで、それからトイレに行き、そのまま流しの横に敷きっぱなしの道隆さんの布団の横を通って、ほぼ二日ぶりに冷蔵庫を開けた。

 いくつも放りこんであるゼリーのうち、一番手前にあるものを取り出す。

 うちで病人食といったら決まってこれだった。わたしが何回風邪をひいても、道隆さんはおかゆさえ作れないままだった。当然ほかの料理もできないから、ゴミ箱にコンビニ弁当の容器がたまっている。

 ふしぎなことに道隆さんは果物の皮むきだけはじょうずだった。

 何年一緒に住んでも、器用なんだか不器用なんだかわからないひとだ。

 わたしが寝込むと、かならず季節の果物を買ってきてくれた。風邪をひくのはビタミン不足のせいで、それには果物がいいとまるで信仰のように思いこんでいるらしい。

 ほどけるように皮が手元からするすると伸びてゆくのを熱にうかされたままぼうっと眺めたものだ。


 わたしはまるまるとしたビワが沈んでいるゼリーを両手で持つと、まずその冷たさを楽しんだ。

 やっと熱が下がってきたようで、食欲が戻ってくるきざしを感じる。

 蓋をはがすとき気をつけたのに、汁がテーブルにこぼれてしまった。思わず舌打ちすると、よけいむなしくなった。

 二部屋しかないアパートなのに、むだに広く感じてしまう。口に運んだゼリーは何の味もしなかった。

 スプーンをくわえたまま、時計を見あげた。いくら眺めても秒針の進むペースは変わらない。終業時間にはまだ何時間もあった。

 しかも定時あがりじゃないかもしれない。看病が必要なわけでもない。でも、声が聞きたかった。

 だから、夜になって帰ってきた道隆さんに、わたしはこどものようにねだった。

「なんかおはなししてください」

「なに言ってるんですか」

「あとマスクしてくださいってば」

 道隆さんは洗った手を拭きながら枕元に座った。

 風邪をひいたわたしと看病する道隆さん。もう何度もくり返したシチュエーションではあるが、こどものころのわたしの方が聞き分けがよかった。おねだりもくちごたえもわがままも言わないようにしていた。道隆さんに指図するなんてもってのほかだった。

 でも、何回言っても、道隆さんがマスクをする様子はない。たぶん買ってきてすらいない。

 実は、やせぎすで血色も悪い不健康そうな見かけだけれど、道隆さんは丈夫なひとなのだった。

 体力があるわけではないが、ずっと低空飛行を続けてゆけるだけの持久力がある。そして、たいした病気をすることもなく、わたしを大人になるまで育てあげたのだった。

「ひまなんです、とっても」

「はあ」

「だからおはなししてください」

 わたしはマスクをつけさせるのはあきらめて、おねだりだけをくり返すことにした。

 わがままを言えるようになったのは、わたしがずぶとくなったからでもあるし、一緒にいた時間の長さのせいでもある。いまさら、このくらいでは捨てられたりしないという自信がついた。

「そんなこと急に言われても……こまりましたね」

 道隆さんは頭をかいた。横になったまま見上げたわたしには、道隆さんの額が広くなりはじめているのがわかった。

 灰色になった髪の毛も、すっかり細くやわらかくなった。

「じゃあ、布団のはしっこをつかんでください」

 わたしは言われたとおりにして、続きをわくわくと待った。

「はい、おはなし」

 言いながら、道隆さんはわたしの手をそっと布団からはずした。

 ぽかんとしたわたしは、『お話』と『お離し』のだじゃれになかなか気づけなかった。

 その間に道隆さんは、おやすみなさい、と襖を閉めてしまった。

 ずるい、と思いながらいつのまにか寝ていた。


「もうだまされませんよ」

 次の日の夜、わたしがうらめしげな顔を作ると、道隆さんは苦笑した。

「なんの話をすればいいんです?」

 わたしはあらかじめ考えておいた返事をした。

「むかし飼っていた犬の話をしてください」

 わたしたちの住んでいるアパートはペット禁止だ。それに、ペットを飼うにはお金も時間も足りないのはよくわかっている。

 だけど、わたしは犬が好きだった。

 あのゆさゆさゆれる尻尾がいい。だらんとした舌がいい。濡れた黒い鼻がいい。飼い主を見て輝く目がいい。呼び声に動く耳がいい。

 とにかく、いい。

 父も犬が好きだった。実家では何匹も犬を飼っていたのに、と残念そうにむかし言っていた。つまり、道隆さんも犬を飼ったことがあるということだ。

 道隆さんはしばらく目を閉じていたが、突然言った。

「ミチルは竹やぶに埋めました」

 僕がはじめて飼った犬で、ミチルというのは、僕がつけた名前です。

 話しているうちに、道隆さんはだんだん思い出してきたようだった。

「小学校一年のときだったかな。学校の帰りに箱に入れて捨てられていたのを僕が見つけて連れて帰ったんです。白くてちぢれた毛の雌の仔犬でした。僕のはじめての犬だったので特別な名前にしようと思って、なんでか自分と同じ音からはじまるおそろいにしようと思って、ミからはじまる名前を二日ほど考えて、ミチルにしたんです。

 でもミチルはどんどん弱って、結局一週間もせずに死にました。ジステンパーかなにかだったのかもしれません」


 わたしがだまったままでいると、道隆さんは短く息をついて次の犬の話をはじめた。


「シロは大きいスピッツでした」

 道隆さんは両手でだいたいの大きさを示した。膝の上から大はばにはみ出すサイズだった。

「あなたのおじいちゃんがもらってきたんだったかな。外飼いだったので、白くて長い毛がすごく汚れてしまって。ちゃんとスピッツの顔はしてたんですけど、スピッツとは思えないくらいとにかく汚かった。今思うと雑種だったのかもしれません。

 一回、僕が学校に行くときについてきたことがあって。必死に帰れって言ったのに、まったく言うことを聞かなくて、とても困りました。しかたないから、学校の近くにつないでおいたら、帰るときになってもいたんです。だから、その日はシロにひっぱられて一緒に帰りました。

 あの通学路はすごく長かったなあ。毎日何キロも歩いてました。

 あの頃の犬の飼い方は、いまと比べものにならないくらい適当で。ドッグフードなんてしゃれたものじゃなくて、いつもおばあちゃんが僕たちのごはんの残りを鍋で適当に煮たものを新聞紙の上にぶちまけて食べさせてました。だけど、空腹のシロはがっつくから、しょっちゅう口の中を火傷してキャンキャン鳴いて、かわいそうでしたね。

 散歩だってわざわざしなかったですね。田舎だったし。いつも夜になると放して、朝帰ってきたらつないで。

 そしたらある日どこかでネズミ用の毒かなんかを食べちゃったみたいで、どうにか帰ってきたみたいなんですけど、僕が起きたときには冷たくなってました」


 道隆さんの話は、犬の死にはじまって犬の死で終わってしまった。道隆さんも思うところがあったらしい。

「……こんな話でいいんですか」

「そんな話でいいんです」

 わたしは即答した。

 話の内容より、わたしのために話をしてくれる、ということが大事なのだった。

 道隆さんは首をかしげたが、追及せずに立ち上がった。

「今日はここまでです」

 わたしは布団をひきあげてゆるんだ口元を隠した。どうやら明日続きがあるらしい。



「どこまで話しましたっけ?」

 翌日の夜、昨日の続きを催促したわたしに、道隆さんは聞いた。

「シロが死んだところです」

「えーと、そうそう、シロの後は、勝手に迷いこんできた犬がいました」

 わたしはうつぶせのまま目をつむった。道隆さんの声だけに集中する。

「どっかの家から逃げ出してきて、まるで最初からいたような顔をして居座ったやつです。ふらっと来て、しばらく居たんですが、すぐにどっかに行ってしまった。

 最初の家も同じように出て行ったんでしょうね。で、またどっかで同じように飼われたんだろうと思います」

「名前は?」

「なんだったかなあ。思い出せません」


 道隆さんはあっさり次の犬の話に移った。


「それから、えーと、タタかな。パンダと逆の模様でした。目のまわりが白くて、体が黒」

「タタ? へんな名前ですね。なんで『ダンパ』にしなかったんですか」

「ダンパって。それも変じゃないですか。

 そもそも昭隆兄さんがつけたんですよ、タタって。なんでか知らないけど」

 道隆さんの口から父の名が出てきたので、わたしは思わず目を開けた。


 道隆さんはこちらを見ていなかった。ぼうっとした顔で、次の犬の名を呼んだ。

「それから、マイクです」

 あんな賢い犬は見たことがないと、道隆さんは言った。

「マイクはビーグルでした。近所に狩猟を趣味にしていて、猟犬にするために血統書つきのビーグルの仔犬を買ってきた人がいたんです。とっても高かったんだそうですよ。

 でもその犬は、なんでかいつもうちにきて、縁の下にもぐりこんでました。僕が呼ぶと出てきて尻尾を振るんですけど、その近所の人が迎えにくるとどんどん奥にもぐって行って、帰りたくないって必死に足を踏んばって抵抗して。ついにその人が諦めて『もしよろしければお宅で飼ってください』と言ったから、うちで飼うことになりました」

 ほんとうに欲しかったものを手に入れた思い出が、道隆さんの表情を明るくした。めったにしない顔だ。

 これまでに道隆さんがそんな表情をしたのは何回くらいあっただろうかと、わたしは考えた。

「本当の名前はマイクロトフ。ちょうど、そのころ読んでた外国の小説に出てくる名前からとったんです。でも呼びにくかったので、マイクになっちゃったんですが、僕は、本当はマイクロトフだ、ってひとりで思ってました。

 賢い犬でしたよ。シロとは違って、途中までついてきても『帰れ』って言ったら帰るし。僕が高校に入ってからは、朝、駅まで送ってきて、ちゃんと自分で帰ってました。言葉がわかるみたいでしたね。

 あ、散歩はやっぱり勝手に行かせてたんです。拾い食いとかもしなかった。食べ物も人間のが好きで。特にコーヒーにミルクをいれたやつが好きで。一回、修理に来ていた大工さんたちにコーヒーを持っていったら余っちゃって、だからマイクの皿に入れてやったら『俺達は犬と同じもん出されとんのかー』ってイヤミを言われたことがあります」

 そんなつもりはなかったからびっくりしたんですけど、と道隆さんは言って、マイクの話を続けた。

 一回、散歩から帰ってこなくて心配していたら、数日後にひょっこり帰ってきたこと。

 耳垢をとられるのをすごく嫌がったこと。

 鼻筋が白くて、りりしい顔立ちをしていたこと。

 四本の足のうち、右の前足だけが手袋をはめたように白かったこと。


 マイクが道隆さんにとって一番大事な犬だったことは明らかだった。

 わたしはじゃましないように、静かに呼吸しながら聞いていた。元気はつらつとしたビーグルの姿を想像してみようとしたけれど、うまくできなかった。

 結局、道隆さんの中でも、マイクはその姿のまま年を取っていなかった。

「僕がまだ高校生のときだったかな、マイクは交通事故で死にました。夜のうちに出かけて、朝まだ暗いうちに帰ってこようとしたところを車に轢かれたみたいです」

 道隆さんはいっそ淡々と話した。

 わたしは、道隆さんがそのとき泣いたか気になったが聞かないことにした。道隆さんがいまどんな顔をしているかも見ないことにした。

 偶然というほどではないかもしれないが、わたしの父母もマイクも交通事故で死んでしまったのだった。


「やっぱり思いいれのあった犬については色々思い出せるものですねえ」

 さっきまでのわたしの考えを裏づけるように、道隆さんは最後に言った。

 わたしは、道隆さんが電気を消して出て行くまで寝たふりをしていた。



 土曜日はひさしぶりに道隆さんより早く起きだした。ちょうどゴミの収集日だったので、まとめて出す。

 アパート中を動き回っていると、道隆さんが台所の床からぼんやりと起きあがった。

「もう大丈夫なんですか?」

「すっかり元気ですよ。あさってからは仕事に出ます」

 インフルエンザが感染しないよう、熱が下がってから数日は自宅謹慎するように言われていたが、月曜には出るつもりだった。

 わたしは派遣社員なので、休んでしまったらそのぶんお給料はもらえないし、急に休んで迷惑をかけたことが気になっている。

 まさかこれが原因で辞めさせられることはないと思うが、早く職場に戻りたかった。

「よかったですね」

 道隆さんは、パジャマの下ばきに手をつっこんでお腹をかきながら洗面所に向かった。

 ひげ剃りの音を聞きながら朝ごはんの準備をする。

 冷凍のアジの干物を焼いて、同じく冷凍してあった茹でホウレン草を解凍しておひたしにした。

 おみそ汁の具は乾燥ワカメと玉ねぎ。ありあわせの食材でも結構どうにかなった。

 魚には白地に青い波模様のお皿、とふり返ると、テーブルにもう並べてあった。おひたしを入れるガラスの小鉢はその隣。おみそ汁用のお椀もいつのまにかコンロの横に置いてある。

 手を止めて眺めていると、冷蔵庫からおしょうゆを取り出していた道隆さんがけげんそうな顔をした。なんでもない、とわたしは首をふって、焼きあがった干物を菜箸で持ち上げた。

 こんなとき、ただ息が合っているというよりも、わたしは道隆さんがあまりにもちかしい存在に思えてしまってちょっと困る。

 道隆さんが、わたしより十年ちょっと前にフライングして生まれてきた、わたしの一部であるかのように感じるなんて思いあがりもはなはだしい。わたしにしたらうれしい錯覚だけれど、はずかしくてとても口に出せない。

 朝ごはんを食べた後、道隆さんは換気扇の下でたばこを吸いながら、右手をひねるような動作をしてみせた。わたしがうなずくと、いそいそと駅前のパチンコ屋に開店前から並びに出かけてしまった。

 とはいっても、この数日、たばこもパチンコもがまんしていてくれたようだからかまわない。それに出かけてくれたほうが家事もはかどる。

 わたしはシャワーを浴びてから、窓から布団を干した。やっと数日分の汗を洗い流せてほっとする。

 しばらくぬれた髪のまま、ぺたんと座り込んで外をぼんやりと見ていた。

 手をのばせば触れるすぐそばに隣の家のフェンスがある。今年もそこに朝顔がからんで、目の前でいくつも花を咲かせていた。

 うつくしい色だけれど、わたしはこの花がずっときらいだった。

 冴えた青と白の二重丸が目玉のようだ。こちらを見ている数百もの目。

 まるで、この部屋の中で悪いことが行われないように、まばたきもせずに見張っているようだ。

 早く枯れてしまえ。

 わたしは心の中でつぶやいた。

 道隆さんに引き取られてから、わたしは少しでも道隆さんの役にたちたかった。恩返しとかそういうことではなくて、わたしのことを重いとか面倒だとか思われたくなかった。

 そうして、わたしは色々なことができるようになった。

 たとえば、道隆さんは家事をしないひとだったから、わたしが入りこめるところがたくさんあった。

 今では、わたしは道隆さんのためにごはんを作ることもできるし、洗濯だってできる。掃除もできるし、衣替えも、日用品の買い物も、わたしがやっている。ワイシャツにアイロンだってかけられるし、仕事のぐちだって聞いてあげられる。

 いってみれば、わたしは、道隆さんの生活をずいぶん快適にしてあげていると思う。

 でも、そんなことは全部ささいなことだ。

 ごはんが作れないのならコンビニでお弁当を買えばいいし、洗濯も掃除も、それ以外だって、お金さえ払えばやってもらえる。

 そもそも、気にならないからしていなかったのであって、やっているのはわたしの勝手なのだ。

 道隆さんに必要とされたいのは、わたしだ。

 道隆さんがいないと不安なのは、わたしだ。

 道隆さんさえいればなんでもいいのは、わたしだ。

 飼い主に呼ばれるだけで尻尾を振る犬といっしょ。道隆さんが飼った五匹の犬たちとちっとも変わらない。

 わたしは指を折って数えてみた。ミチル、シロ、名無し、タタ、マイクロフト。

 道隆さんにとって、わたしに近いのはどの犬だろう。

 まさか名前すら忘れられた三番目ではないと思うけれど、五番目のマイクといえるかどうかは自信がなかった。もうずっと前に死んでしまった犬にすら、わたしは嫉妬した。

 だってわたしには道隆さんしか大事なものがない。

 だからそばにいられるためにできることならなんだってする。他のひとからみたら悪いことでもなんでも。その声で名前を呼んでもらえるなら。隣でいっしょに眠ってもらえるなら。

 別れが突然訪れるということを、わたしも道隆さんも知っている。

 わたしたちも引き裂かれるのかもしれない。病や、事故や、なにか抗いようもないことで。

 いつかは。そう、きっと、いつかは。

 でも、と青い目玉をにらみかえした。

 でもそれまでは、そばにいる。


 立ち上がると、もう秋の匂いがした。朝顔も次々としぼみ、端から枯れはじめている。

 髪を乾かしたらスーパーに出かける。今夜は道隆さんの好きな豚の生姜焼きと焼きなすにしよう。洗濯物もたまっているし、掃除機もかけたい。午後になったら、二人のお布団を取り込もう。

 そして、道隆さんが帰ってきたら、わたしの名前を呼んでもらう。

 今夜は、ひさしぶりに隣で眠る。



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