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『第3話:沈黙の代償』

夕日に染まる教室で始まったのは、単なる授業ではなかった。

立場を入れ替え、相手の痛みを身体で知ったとき、憲法と法律が示す「本当の正義」が見えてくる。

感情と原理が交差する場所で、あなたはどの視点の痛みを胸に刻むだろうか。

プロローグ:空席の意味



翌日の放課後。


教室には、一つの空席があった。


遥の席だ。


葵は何度もスマホを確認したが、返信はない。怜も健太も、遥の席を見つめたまま黙っている。


夕日が窓から差し込み、空席の影を床に長く伸ばしている。


「……遥、来ないね」


葵が不安そうに呟く。声は、教室の静けさに吸い込まれるように小さかった。


「昨日、あんなに泣いて……大丈夫かな」


「連絡は?」


怜が聞く。


「返事がない。既読もつかない」


教室のドアが開き、天野先生が入ってくる。


先生は一瞬、空席を見つめ、それから三人に向き直った。


「……遥は、来ていないのか」


「はい」


葵が答える。


「連絡もつきません」


天野先生は、ゆっくりと黒板に向かう。チョークを手に取り、一言だけ書いた。


「沈黙」


チョークの音が止まる。窓の外では、部活の掛け声が遠く響いていた。


「今日のテーマは、これだ」


---



第一章:声をあげられない理由



「先生、遥のこと……」


葵が心配そうに聞く。


「心配だろう。でも、今日はまず、この問いから始めよう」


天野先生は黒板を指す。


「遥がここにいないのは、なぜだと思う?」


「……体調が悪いとか?」


健太が答える。


「それもあるかもしれない。でも、もっと根本的な理由があるんじゃないか?」


先生は続ける。


「遥は昨日、B/C/D/Eさんの立場を体験した。いや、体験というより、それが彼女の現実に近づいているのかもしれない」


葵の顔が青ざめる。


「まさか……」


「遥がここに来られない理由。それは、『声をあげる余裕すらない』からかもしれない」


天野先生は、黒板に新しい図を描き始める。


「声をあげられる人」と「声をあげられない人」


「世の中には、二種類の人がいる。声をあげられる人と、あげられない人だ」


---



第二章:声の格差



「先生、それって……」


怜が口を開く。


「つまり、経済的な余裕の問題ですか?」


「その通りだ」


天野先生は図に書き加える。


「A社の優遇政策を受けた人たち──株主、経営者、恩恵を受けた富裕層。彼らは声をあげる時間もお金もある。政治家に献金できる。ロビー活動ができる。メディアに意見を発信できる」


「でも、B/C/D/Eさんたちは?」


葵が聞く。


「彼らは、今日を生きることで精一杯だ。政治のことを考える余裕もない。選挙に行く交通費すら惜しい。そもそも、投票所に行く時間があれば、その時間で働かなければならない」


健太が腕を組む。


「つまり……声をあげる必要がある人ほど、声をあげられない構造になってる?」


「そうだ。これが『声の格差』だ」


天野先生は、統計を黒板に書く。


「日本の投票率:50〜60%」

「若年層(18-29歳)の投票率:30〜40%」

「低所得層の投票率:さらに低い傾向」


「声をあげない人が増えれば増えるほど、現在の構造は維持される。なぜなら、現在の構造から恩恵を受けている人だけが声をあげるからだ」


---



第三章:諦めのメカニズム



「でも……」


健太が口を開く。


「それって、本当に『声をあげられない』だけなのか?」


「どういう意味だ?」


「だって、投票するだけなら無料だし、時間だってそんなにかからない。それでも行かないってことは……」


健太は言葉を選ぶ。


「『行けない』んじゃなくて、『行かない』んじゃないか? つまり、諦めてるんだ。『どうせ変わらない』って」


天野先生は静かに頷く。


「鋭い指摘だ。健太の言う通り、『声をあげられない』には二つの意味がある」


先生は黒板に書く。


「物理的に声をあげられない(時間・お金・情報)」

「心理的に声をあげられない(諦め・無力感・恐れ)」


「そして、後者のほうが実は深刻なんだ」


「なんでですか?」


葵が聞く。


「物理的な障害は、制度で解決できる。投票所を増やす、期日前投票を便利にする、ネット投票を導入する。現実に、2025年参院選では18-19歳の投票率が41.74%と前回より上昇している 。制度改善の効果は出ている」


天野先生は窓の外を見る。


「でも、心の中の諦めは、制度では解決できない」


「『どうせ変わらない』『自分一人が投票したって意味がない』『政治家なんてみんな同じ』──こういう諦めが、実は最大の敵なんだ」


---



第四章:沈黙は誰を利するのか



「先生、でも……」


怜が冷静に分析する。


「『どうせ変わらない』って思うのも、無理ないんじゃないですか? 実際、昨日の議論で、健太が政治家役をやったとき、『何を選んでも誰かを裏切る』って言ってた」


「その通りだ」


天野先生は頷く。


「政治家は万能じゃない。全員を救うことはできない。でも、だからこそ、『誰を救うか』『誰を優先するか』を決めるのが政治なんだ」


「そして、その決定は、誰が声をあげているかで変わる」


先生は図を指す。


「もしA社の株主だけが声をあげていたら? 政治家は彼らの声を優先する。なぜなら、彼らは次の選挙で投票してくれるし、政治献金もしてくれるからだ」


「でも、B/C/D/Eさんが沈黙していたら? 政治家は彼らの存在を『無視してもいい』と判断する。なぜなら、彼らは投票しないから」


葵が立ち上がる。


「それって、おかしいじゃないですか! 困ってる人ほど助けるべきなのに、声をあげない人は無視されるなんて!」


「おかしいと思うか?」


天野先生は静かに聞く。


「でも、それが民主主義なんだよ、葵。民主主義は『声をあげた人』の意見で動く」


先生は黒板に大きく書く。


「沈黙は、今の状態を『これでいい』と承認する一票なんだ」


教室が静まり返る。


---



第五章:健太の告白──傍観者の罪



しばらくの沈黙の後、健太が口を開いた。


「……俺、ずっと思ってたんだ」


健太が、珍しく真剣な顔で語り始める。


「政治なんて、めんどくさいって。どうせ変わらないし、俺一人が何かしたって意味ないって」


彼は自分の手を見つめる。


「でも、昨日、政治家の役をやって……わかった」


健太は天井を見上げる。


「政治家は、声が聞こえる人の方を向く。当たり前だよな。誰も何も言わなければ、『これでいい』って思うしかない」


「つまり……」


健太は自嘲気味に笑う。


「俺みたいな傍観者が、実は一番の共犯者なんだ。何もしないことで、今の構造を支えてる」


「健太……」


葵が驚いて見つめる。


「遥が来てない。それって、もしかしたら……俺たちのせいなんじゃないか?」


「どういう意味?」


「だって、もし俺たちがもっと早く声をあげてたら。もっと早く、『これはおかしい』って言ってたら。遥は、こんなに追い詰められなかったかもしれない」


健太の声が震える。


「沈黙してたのは、遥だけじゃない。俺たちもだ。俺たちが沈黙してる間に、遥は声をあげる力すら奪われていった」


---



第六章:葵の決意──一歩目の勇気



葵は立ち上がった。


「先生、私、遥を探しに行きます」


「葵……」


「だって、このまま授業してたって意味ないじゃないですか。遥が苦しんでるのに、私たちがここで議論してるだけなんて」


葵は涙を拭う。


「私、昨日までずっと思ってました。『誰かが何とかしてくれる』って。『先生が答えを教えてくれる』って。でも、違うんですよね」


「そうだ」


天野先生は静かに答える。


「答えは、誰も教えてくれない。君たち自身が見つけるしかない」


「なら……私は、行動します」


葵は鞄を掴む。


「遥を見つけて、話を聞いて、できることを探します。それが正しいかわからないけど、何もしないよりはマシだから」


「私も行く」


怜が立ち上がる。


「論理だけで考えてても、誰も救えない。それは昨日学んだから」


「俺も」


健太も立ち上がる。


「傍観者は、もう卒業する」


三人は教室を出ようとする。


「待ちなさい」


天野先生が声をかける。


---



第七章:連帯という希望



「君たちは今、『行動』を選んだ。それは素晴らしいことだ」


天野先生は三人を見つめる。


「でも、一人の行動だけでは、構造は変わらない。遥を助けることはできるかもしれない。でも、次のB/C/D/Eさんも、その次のB/C/D/Eさんも生まれ続ける」


「じゃあ……」


葵が聞く。


「どうすればいいんですか?」


「連帯するんだ」


天野先生は黒板に書く。


「一人の声は小さい。でも、集まれば届く」


「君たちが遥を助ける。そして、遥と一緒に声をあげる。すると、同じ状況の人たちが『私も』と声をあげ始める」


「声が集まれば、政治家も無視できなくなる。メディアも取り上げる。世論が動き始める」


「それが、構造を変える唯一の方法だ」


怜が聞く。


「でも、それって……どれくらい時間がかかるんですか?」


「わからない」


天野先生は正直に答える。


「数ヶ月かもしれない。数年かもしれない。君たちが大人になるまでかかるかもしれない」


「でも……」


先生は微笑む。


「だからといって、何もしなければ、永遠に変わらない。君たちの一歩が、次の誰かの一歩を生む。それが、希望なんだ」


---



第八章:遥との再会



三人は、遥の家を訪ねた。


古いアパートの二階。壁には亀裂が入り、廊下の電気は切れている。階段を上がると、カビの匂いが鼻をつく。


葵がドアをノックする。


「遥? 私だよ、葵」


しばらく沈黙が続く。風が廊下を吹き抜け、どこかで洗濯物が揺れる音がする。


やがて、小さな声が聞こえた。


「……入って」


ドアを開けると、遥は部屋の隅で膝を抱えて座っていた。


暗闇の中、止まった時計だけが壁に掛かっている。時間を刻むことを諦めたように。


「遥……」


葵が駆け寄る。


「どうしたの? 何があったの?」


「……何もないよ」


遥は力なく笑う。


「ただ、もう疲れちゃって。学校に行く気力もなくて」


「電気代、払えなくなったの。だから、夜は真っ暗。ガスも止められたから、お湯も出ない。冬が来たら、どうしよう」


怜が静かに聞く。


「両親は?」


「お父さんは、仕事がなくなって。お母さんは、体調崩して働けなくて」


遥は涙を拭う。


「私、バイトしてるけど……全然足りない。学校行って、バイトして、家事して……もう限界なの」


「でも、誰にも言えなかった。だって、言ったって……」


遥の声が震える。


「どうせ変わらないから」


---



第九章:小さな声の始まり



「遥」


葵が遥の手を握る。その手は、冷たかった。


「私たち、来たのは、あなたを助けたいからじゃない」


「え……?」


「私たち、あなたと一緒に声をあげたいんだ」


葵は真剣な目で遥を見つめる。


「あなた一人の問題じゃない。これは、構造の問題なんだって、先生が教えてくれた。そして、構造を変えるには、一人じゃ足りない」


怜が続ける。


「私たち、調べてきました。自治体の生活困窮者支援制度、NPOの相談窓口、法テラスの無料法律相談……使える制度は、実はたくさんある」


「生活保護の申請サポート、給付型奨学金、家賃補助制度。知らないだけで、助けはあるんです」


「でも、それを知ってる人は少ない。それに、一人で行くのは怖い」


健太が言う。


「だから、俺たちが一緒に行く。一緒に声をあげる。あんたは一人じゃない」


遥の目から、涙が溢れる。


「……本当に?」


「本当だよ」


葵が微笑む。


「そして、遥。あなたの声が、次の誰かを救うかもしれない」


「私……」


遥は震える声で言う。


「私も、声をあげてもいいの?」


「あげなきゃダメだ」


健太が言う。


「あんたが沈黙してたら、次の誰かも沈黙する。でも、あんたが声をあげたら、次の誰かも勇気を出せる」


遥は、ゆっくりと立ち上がった。


「……わかった。私、もう一度、やってみる」


---



第十章:声が集まる場所



数日後。


天野先生の教室には、いつもの四人だけでなく、他のクラスの生徒も集まっていた。


「みんな、集まってくれてありがとう」


葵が前に立つ。


「今日は、私たちが直面してる問題について、みんなと話したいんです」


遥が隣に立つ。


「私の家は、今、生活が苦しいです。電気もガスも止められて、明日が見えません」


教室がざわつく。


「でも、これは私だけの問題じゃないって、気づきました。同じような人が、この学校にも、この街にも、たくさんいる」


すると、後ろから手が挙がった。


「……実は、私も」


一人の女子生徒が立ち上がる。


「うちも、お母さんが病気で。バイト代だけじゃ、全然足りなくて」


また別の生徒が手を挙げる。


「俺の親父も、会社クビになって……」


次々と、手が挙がる。


声が、集まり始めた。


教室の空気が、変わり始めた。


---



終章:民主主義の始まり



その日の放課後。


天野先生は、生徒たちが議論する様子を、静かに見守っていた。


葵が先生に聞く。


「先生、これで……変わりますか?」


「わからない」


天野先生は正直に答える。


「でも、変わる可能性は生まれた。君たちが声をあげたことで」


「民主主義っていうのは、完璧なシステムじゃない。声をあげる人の意見で動く、不完全なシステムだ」


「でも、だからこそ、声をあげることに意味がある」


先生は生徒たちを見渡す。


「君たちは今日、沈黙を破った。それが、民主主義の始まりなんだ」


窓の外では、夕日が沈みかけている。


でも、教室の中は、熱気に満ちていた。


小さな声が、集まり始めている。


それは、まだ小さな波かもしれない。


でも、波は必ず、岸に届く。


─── 第3話 完 ───


---



エピローグ:あなたへの最後の問いかけ



正義の物語は、ここで一度終わるが


一つの答えを第4章で示します。


そして、問いは続く。


遥は、勇気を出して声をあげた。


葵、怜、健太は、一緒に声をあげることを選んだ。


教室には、同じ痛みを持つ仲間が集まり始めた。


彼らの声は、まだ小さい。


でも、教室の外にも、きっと同じような声がある。


あなたは、その声を聞こえないふりをするだろうか。


それとも──


現実の日本では、格差の拡大が社会の不安定化を招き、民主主義の基盤を揺るがしている 。


声をあげなければ、今の構造は変わらない。


でも、声をあげることは、怖い。


無力感もある。


「自分一人が何かしたって、変わらない」


そう思うかもしれない。


でも、遥も最初はそう思っていた。


葵も、怜も、健太も、最初は何もできないと思っていた。


それでも、彼らは一歩を踏み出した。


あなたは、どうしますか?


沈黙は、今の状態を承認する一票です。


声をあげることは、未来を変える一票です。


あなたの一票を、どこに投じますか?


─── 三部作 完結 ───


物語は一つの答えを出します

─── 第4章に続く───

第3話「沈黙の代償」をお読みいただき、ありがとうございました。今回は「声をあげることができる人」と「あげられない人」の距離がどのように社会構造を再生産するのかを、できるだけ具体的な痛みとして描こうとしました。遥の不在、空席の陰、そして教室に広がる沈黙は、単なる情景描写ではなく、声なき多数が日常で経験する“見えない抑圧”の象徴です。


• 描写意図

遥の家庭事情や止まった時計といったイメージは、個別の悲劇を抽象化して「構造問題」として読者に提示するために意図的に選びました。個人の物語を通じて、制度や運用の欠陥が具体的に誰にどんな影響を与えるのかを感じ取ってほしかったのです。

• 主題の核

「沈黙は承認である」という命題は、この話の核心です。声を出せない状況は単に不便な状態ではなく、政治的な不在を生み、結果として政策決定の偏りを固定化します。物語は小さな行為の倫理的重みを問うために、主人公たちの個別行動と連帯の可能性を並行して描きました。

• 創作上の工夫

台詞の余白や間、描写の抑制は読者の想像力を引き出すための手法です。登場人物の内面をすべて説明せず、読者自身に解釈の余地を残すことで、物語が読者の実感と結びつくことを期待しています。

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