『第2話:立場が作る正義』
夕日に染まる教室で始まったのは、単なる授業ではない。
CEO、社員、困窮者、政治家――立場を入れ替えたとき見える痛みと論理の齟齬が、私たちの「正義」を揺さぶる。
誰も悪くないのに誰かが犠牲になる世界で、君はどの視点の痛みを胸に刻むだろうか。
## プロローグ:昨日の余韻
放課後の教室。
昨日と同じ顔ぶれ。
けれど、空気だけが違っていた。
葵は窓の外を見つめたまま何も言わず、遥は机に突っ伏していた。怜は相変わらず冷静な表情だが、その目には何か複雑な感情が浮かんでいる。健太だけが、いつものように退屈そうに椅子に座っていた。
「……みんな、よく来たね」
天野先生が教室に入ってくる。その手には、白い紙が数枚握られていた。
「昨日の議論、面白かったよ。でも、まだ終わりじゃない」
「先生……」
葵が振り返る。その目には、まだ昨日の議論の熱が残っていた。
「私、昨日からずっと考えてたんです。でも、答えが出なくて……」
「答えが出ない、か。それは当然だよ」
天野先生は微笑む。
「なぜなら、君たちは昨日、それぞれの『立場』から物事を見ていたからだ。葵と遥は弱者の立場。怜は全体を見る立場。健太は……まあ、傍観者の立場かな」
「傍観者って……」
健太が苦笑する。
「でも、今日はそれを変えてみよう」
天野先生は、持っていた紙を一枚ずつ配り始めた。
「今日は、ロールプレイングをする。君たちには、昨日とは『違う立場』になってもらう」
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## 第一章:配られた役割
葵が受け取った紙には、こう書かれていた。
「あなたはA社のCEO(最高経営責任者)です」
「え……?」
葵は思わず声を上げる。
「先生、私が……A社の経営者?」
「そうだ。君は会社を率いる立場になる。株主、社員、取引先……すべてに責任を持つ立場だ」
怜の紙には、こう書かれていた。
「あなたはA社の現場社員です。家族を養うために働いています」
「……なるほど」
怜は静かに紙を見つめる。
遥の紙には──
「あなたはB/C/D/Eさんのひとりです。政策によって生活が困窮しています」
遥の手が震える。
「これ……私、昨日と同じ立場じゃ……」
「いや、昨日の君は『共感する立場』だった。今日の君は『当事者』だ。その違いを感じてほしい」
そして健太の紙には──
「あなたは国会議員です。有権者と国家の間で判断を迫られています」
「うわ、めんどくさそう……」
健太が苦笑する。
「さあ、それぞれの立場になりきって、もう一度昨日の議論をしてみよう」
天野先生はホワイトボードに、昨日と同じ図を描く。
「舞台設定は同じだ。政府はA社を優遇し、B/C/D/Eさんたちへの支援を削った。A社は莫大な利益を上げたが、社員への還元はしなかった。内部留保は600兆円──」
「では、まずA社のCEO、葵から始めよう。君は株主総会で、株主たちから詰められている。『なぜ社員に給料を上げないのか』『なぜ内部留保を溜め込むのか』と」
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## 第二章:葵の苦悩──経営者の論理
葵は紙を握りしめたまま、しばらく黙っていた。
「……わかりました。やってみます」
彼女は深呼吸をして、立ち上がる。
「えっと……私は、A社のCEOとして答えます」
葵の声が、少し震える。
「内部留保を積み上げているのは、会社の存続のためです。今は好調ですが、いつ不況が来るかわかりません。リーマンショックのような危機が来たら、この会社は一瞬で倒産するかもしれない」
「でも、600兆円もあれば十分じゃないの?」
遥が問いかける。
「十分かどうか、誰にわかるの?」
葵の声に、初めて力が入る。
「もし明日、大恐慌が来たら? もし海外の競合が革新的な技術を開発して、うちの製品が売れなくなったら? もし取引先が倒産して、連鎖的にうちも危機に陥ったら?」
葵は自分でも驚くほど、言葉が出てくる。
「私には責任があるんです。この会社で働く何万人もの社員。その家族。取引先。株主。もし私の判断ミスで会社が倒産したら、その全員が路頭に迷う」
一瞬、葵の声が震える。
「もし判断を誤れば、誰かの生活が壊れる。その重みが、夜、眠れなくする」
「でも……」
怜が口を開きかける。
「でも、何?」
葵が遮る。その目には、昨日とは違う鋭さと、同時に恐れが混ざっていた。
「社員の給料を上げろって? じゃあ、その資金はどこから出すの? 内部留保を削る? そうしたらリスク管理ができなくなる。研究開発費を削る? そうしたら技術競争に負ける。株主配当を削る? そうしたら株価が暴落して、会社の信用が失墜する」
葵は自分の言葉に、自分でも戸惑っているようだった。
「私だって……社員に報いたい。でも、経営者として、私は会社を存続させる責任がある。それが最優先なの」
教室に重い沈黙が降りる。
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## 第三章:怜の気づき──社員の切実さ
「……怜、君の番だ」
天野先生が促す。
「君はA社の社員だ。葵のCEOに、何か言いたいことはあるか?」
怜は、いつもの冷静さを保とうとするが、その声は微かに震えていた。
「社長、あなたの言うことは理解できます。会社の存続は大切です。でも……」
怜は紙を見つめる。
「私には家族がいます。子どもが二人。妻は体調を崩して働けない。私の給料だけが、家族の命綱なんです」
怜は一度言葉を止め、静かに続ける。
「私は、もう笑えなくなった」
「……」
葵が黙り込む。
「会社は過去最高益を更新し続けている。なのに、私の給料は20年前とほとんど変わらない。物価は上がり、税金も上がった。子どもの教育費も払えない」
怜の声が、次第に大きくなる。
「社長は『リスク管理』と言う。でも、私たち社員の生活のリスクは誰が管理してくれるんですか? 私たちだって、明日をどう生きるか、必死なんです」
「でも……」
葵が反論しようとする。
「600兆円の内部留保のうち、たった1%でいい。6兆円あれば、全社員の給料を大幅に上げられる。人材育成にも投資できる。それでも、594兆円も残る。それでも足りないんですか?」
怜は、自分でも驚くほど感情的になっている。
「会社は『リスク管理』のために社員を犠牲にする。でも、私たちにとって、この会社で働くこと自体がリスクになってる。いつ切り捨てられるかわからない……」
怜は言葉を切り、深呼吸する。
「私は、論理的に考えようとしてきました。でも、論理だけじゃ……人は生きていけない」
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## 第四章:遥の叫び──当事者の絶望
「遥」
天野先生が静かに呼びかける。
「君は、B/C/D/Eさんのひとりだ。今の議論を聞いて、どう思う?」
遥は机に顔を伏せたまま、しばらく動かなかった。
やがて、震える声が聞こえる。
「……どうでもいい」
「え?」
「A社が存続しようが、倒産しようが、社員の給料が上がろうが、下がろうが……私には関係ない」
遥が顔を上げる。その目は涙で潤んでいた。
「私、もう……働く場所も、信じる人も、いなくなった」
遥の声が、教室に響く。
「だって、私はもう……生きることすら難しいんです。今日の食事も、明日の家賃も、どうしていいかわからない」
「政府はA社を優遇するために、私たちへの支援を全部切った。生活保護も削られた。医療費の補助もなくなった。職業訓練の機会も失った」
「私は……何も悪いことしてないのに。ただ運が悪かっただけなのに。なんで、私たちだけが犠牲にならなきゃいけないの?」
葵も、怜も、何も言えない。
「A社が儲かって、国のGDPが上がって……それが何? 私には一円も回ってこない。それどころか、私たちから奪って、A社に渡してる」
遥は涙を拭う。
「『いずれ恩恵が回ってくる』って? 『長期的には』って? 私は今日、今、苦しいの。明日まで生きられるかわからないの。そんな私に、『長期的』なんて言葉、何の意味もない」
教室が静まり返る。
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## 第五章:健太の板挟み──政治家のジレンマ
「……健太」
天野先生が促す。
「君は国会議員だ。今、君の事務所には三通の手紙が来ている」
先生は、ホワイトボードに書く。
「A社:優遇政策を続けてほしい。国の成長に貢献している」
「A社社員:会社に賃上げを指導してほしい」
「B/C/D/Eさん:支援を復活させてほしい。死にそうです」
「さあ、健太。君はどう答える?」
健太は、長い沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
「……最悪だな、これ」
「どういうことだ?」
「だって、何を選んでも、誰かを裏切ることになる」
健太は頭を掻く。
「A社の優遇を続ければ、B/C/D/Eさんは死ぬ。優遇をやめれば、A社は衰退して、国の経済指標が悪化する。そうすると、今度は別の人たちが職を失う」
「社員への賃上げを指導する? でも、それは民間企業への介入で、自由経済の原則に反する。強制したら、A社は海外に逃げるかもしれない」
「B/C/D/Eさんへの支援を復活させる? その財源はどこから? 増税? それは他の有権者が反対する。国債? それは未来の世代にツケを回すだけだ」
健太は深くため息をつく。
「そして、SNSでは『無能議員』って罵られて、街を歩けば『血税泥棒』って言われる。でも、誰も聞いてくれない。俺たちも人間なんだ」
健太は自嘲気味に笑う。
「俺が何を選んでも、誰かが犠牲になる。そして、犠牲になった人たちは、次の選挙で俺を落とす。でも、何もしなければ、全員から批判される」
「これが……政治、なのか?」
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## 第六章:崩れる立場
「みんな、役から離れていいよ」
天野先生が静かに言う。
葵は椅子に崩れるように座り込んだ。
「……わかった。わかってしまった」
その声は震えていた。
「私、昨日は『A社の経営者はひどい』って思ってた。でも、その立場になったら……わかってしまった。彼らにも理由があるって。そして、その恐怖も」
怜も、額を押さえる。
「私もです。私は論理的に、全体最適を考えることが正しいと思ってた。でも、社員の立場になったら……数字じゃない、生活の切実さがあった。論理だけでは、人の痛みは測れない」
遥は涙を拭いながら言う。
「私は……B/C/D/Eさんの気持ちが、昨日よりもっとわかった。これは、想像じゃない。本当に、死ぬか生きるかの問題なんだって」
健太は天井を見上げる。
「俺は、政治家って楽な仕事だと思ってた。偉そうに決めるだけだって。でも、違うんだな。全員を救えないって、最初からわかってる中で、それでも決めなきゃいけない。その孤独は、想像を超えてた」
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## 第七章:構造という敵
「先生……」
葵が震える声で聞く。
「これって……誰も悪くないんですか?」
天野先生は、ゆっくりと頷く。
「そう。誰も悪くない。CEOは会社を守ろうとしている。社員は家族を守ろうとしている。B/C/D/Eさんは生きようとしている。政治家は国を守ろうとしている」
「でも……」
葵は言葉に詰まる。
「でも、誰かが苦しんでる。誰も悪くないのに、誰かが犠牲になってる」
「そうだ。これが『構造』という敵だ」
天野先生はホワイトボードを指す。
「個人の善意だけでは、構造的な問題は解決できない。CEOが優しくても、社員に還元できない仕組みがある。政治家が誠実でも、限られた予算しかない。社員が努力しても、賃金が上がらない構造がある」
先生は黒板にゆっくりと書く。
「構造は、誰の手にも触れられない檻だ。でも、今日君たちは、その檻の形を”見える化”した」
「じゃあ……」
怜が聞く。
「私たちは、何もできないんですか? この構造は、変えられないんですか?」
「変えられる」
天野先生は、力強く言う。
「でも、それには『立場を超えた対話』が必要だ。CEOも、社員も、弱者も、政治家も、全員が『相手の視点』を理解した上で、一緒に新しい仕組みを作る」
「それは……」
遥が聞く。
「可能なんですか?」
「難しい。とても難しい」
天野先生は正直に答える。
「でも、少なくとも君たちは今日、相手の立場を体験した。それが、第一歩だ。構造を変えるのは、一人の英雄の行動ではない。立場を超えて集まった、小さな声の連帯だ。そして、その連帯を可能にするのが、君たちが今日体験した『共感』なんだ」
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## 終章:視点を超えて
「今日の授業で、君たちに伝えたかったこと」
天野先生は、夕日の差し込む教室で静かに語る。
「正義は、立場が作り出す。そして、立場は構造が作り出す。個人を責めても、問題は解決しない」
「でも……」
先生は続ける。
「立場を理解することで、私たちは『構造』を変える可能性を手にする。相手を敵だと思っている限り、何も変わらない。でも、相手の視点を理解したとき、初めて対話が始まる」
葵が手を挙げる。
「先生、じゃあ……次は、その『構造を変える方法』を教えてもらえますか?」
天野先生は微笑んだ。
「それは、君たち自身が考えることだよ。でも、もし君たちが本当に知りたいなら──」
先生は黒板に一言書く。
「第3話:声をあげる人と、沈黙する人」
「明日も、ここで待ってるよ」
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## エピローグ:読者への問いかけ
教室を出た四人は、誰も何も言わずに歩いていた。
やがて、葵が口を開く。
「ねえ、みんな。今日、自分が思ってたのと違う立場になってみて……どう思った?」
「……正直、辛かった」
怜が答える。
「論理だけじゃ、人は救えないって思った」
「私は……」
遥が続ける。
「相手にも理由があるんだって、わかった。でも、それでも……やっぱり苦しい人を見捨てていいとは思えない」
「俺は」
健太が言う。
「答えがないって、こんなに辛いことなんだな」
四人は、夕焼けの中を歩き続ける。
そして、この物語を読んでいる「あなた」にも問いかけられる。
現実の日本では、企業の内部留保が637兆円を超え、13年連続で過去最高を更新し続けている 。
もしあなたが、それぞれの立場を体験したら──
CEO、社員、困窮者、政治家──
どの立場の痛みが、一番胸に刺さりましたか?
そして、その痛みを知った上で、あなたは何を選びますか?
『立場が作る正義』、あなたならどう選びますか?
─── 第2話 完 ───
第2話を読んでくださり、ありがとうございます。今回の話では、同じ出来事でも「立場」が変われば見える世界が変わる、という当たり前のようで忘れがちな事実を描きました。葵が経営者としての責任を抱え、怜が生活の切実さを語り、遥が当事者としての絶望を示し、健太が板挟みで揺れる──それぞれの声は互いに矛盾し、しかしどれも「正しさ」を持っている。私が伝えたかったのは、誰かを断罪することだけでは問題は見えないということです。
物語の舞台は教室という限定された空間ですが、そこで起きる対話と摩擦は現実社会の縮図です。法や制度は「正義の基準」を掲げますが、運用や実感は常にずれていく。第2話で示した構造的な矛盾――内部留保、支援の削減、法律の形骸化――は、感情と原理の間で生きる人々の現実を覆い隠してしまいます。だからこそ、個々の痛みに耳を傾け、立場を入れ替えて対話することが第一歩になると私は考えます。
創作上の裏話を少しだけ。葵の「眠れない夜」の一文や、怜の「もう笑えなくなった」という短い台詞は、読み手の想像力を引き出すために敢えて余白を残しました。細部を説明しすぎると人の痛みが説明文になってしまうことを避けたかったからです。また、統計や条文の言及は物語の現実感を強めるために意図的に散りばめていますが、必要に応じて注釈や出典を加える予定です。




