『第1話:教室で始まる格差と視点の物語』
夕日に染まる教室で始まったのは、ただの授業ではなく「正義」をめぐる物語だった。
国の成長か、一人ひとりの生活か──その選択は、誰を救い、誰を切り捨てるのか。
生徒たちの議論は、現実の私たちが直面する問いそのものだった。
--------------------
■登場人物の紹介文
• 天野創先生
30代前半の社会科教師。皮肉めいた笑みを浮かべながらも、生徒に「考えること」を強く促す。正解を与えるのではなく、問いを投げかけ続ける姿勢が特徴。
• 藤井葵
感情豊かで正義感が強い女子生徒。弱者の立場に寄り添う視点を持ち、議論では感情を爆発させることも多い。
• 星野怜
冷静沈着な分析型。功利主義的な立場から「全体最適」を主張する。論理的だが冷酷に見えることも。
• 佐々木遥
不安を抱えつつも、弱者の声を代弁する存在。感情的な叫びが議論に人間的な重みを与える。
• 大西健太
皮肉屋で斜に構えるが、実は最も「答えのなさ」を直感している。バランス感覚を持つ観察者的存在。
## プロローグ:夕日が染める教室
夕日が黒板を真っ赤に染め、チョークの粉が金色に輝いていた──その日、正義の授業が始まった。
いつもなら部活や帰り支度で賑やかなはずの時間なのに、今日はなぜか数人の生徒が教室に残っていた。
ホワイトボードの前に立つ天野創先生は、いつものように少し皮肉めいた笑みを浮かべながら、黒いマーカーで大きく二文字を書いた。
「正義」
「……先生、また難しい話ですか?」
最前列に座る藤井葵が、頬杖をつきながら呟く。彼女の表情には期待と警戒が半々に混ざっていた。
「難しい? いや、これは君たちが毎日生きている世界の話だよ。もしかしたら、君たちの家族や友達が、今まさに直面している話かもしれない」
天野先生は振り返り、教室に残る五人の生徒を見渡した。
窓際で腕を組む星野怜は相変わらず冷静な表情。その隣で不安そうに座る佐々木遥。後ろの席で退屈そうに頬杖をつく大西健太。
「今日は架空の話をしよう。でも、どこかで聞いたことがあるような……いや、もしかしたら、今この瞬間も起きているかもしれない、そんな話だ」
-----
## 第一章:優遇という名の選択
「ある国があったとしよう」
天野先生はホワイトボードに簡単な図を描き始めた。一つの大きな円と、その周りに散らばる小さな丸。
「その国の政府は、経済を成長させるために、ある決断をした。A社という大企業に、特別な優遇政策を与えることにしたんだ」
先生のマーカーが、大きな円の周りに矢印を描く。
「減税、補助金、規制緩和……何でもありだ。A社には国からの全面的なバックアップがついた」
「それって、ずるくないですか?」
葵が素直に反応する。
「ずるい、か。面白い表現だね」
天野先生は笑みを深くした。
「でも、政府にはちゃんと理由があった。A社が成長すれば、国全体の経済指標が良くなる。GDPは伸びるし、税収も増える。株価も上がって、投資家は喜ぶ。国際社会での評価も高まる。これは国のためには『良いこと』だと、政府は考えた」
「つまり……国のためには正しい政策だった、と?」
怜が冷静に分析する。
「そうだ。実際、A社は爆発的に成長した。毎日、使い切れないほどの利益を出すようになった。株主への配当も大きくなり、みんな喜んだ。技術も発展し、他国への支援もできるようになった」
「じゃあ、ハッピーエンドじゃないですか」
健太が皮肉めいた口調で言う。その表情は、すでに何かを察しているようだった。
「……だったら、こんな話をする意味がないだろう?」
天野先生はホワイトボードに新しい図を描き加えた。大きな円の外に、小さな丸がいくつも。そして、その丸には「×」が付けられていく。
-----
## 第二章:光の影に潜むもの
「問題は、ここからだ」
教室の空気が、一瞬で重くなる。
「A社を優遇するために、政府は財源を確保しなければならなかった。そこで、他の人たちへの支援を削った。B、C、D、Eさんたちだ」
「……削った?」
遥の声が震える。
「そう。社会保障費の削減、増税、中小企業への支援打ち切り。B、C、D、Eさんたちは、ある日突然、生きることすら難しくなった」
先生の声が、静かに教室に響く。
「B社は廃業に追い込まれた。Cさんは医療費が払えなくなった。Dさん一家は家を失った。Eさんは進学を諦めた」
「でも……それって、おかしくないですか?」
葵が立ち上がる。その目には怒りと困惑が混ざっていた。
「だって、一部の人だけが得をして、他の人が苦しむなんて……それは正義じゃない!」
「じゃあ、葵。君に聞くけど」
天野先生は真剣な目で葵を見つめた。
「もし君が政府の立場だったら、どうする? 国全体の成長と、一部の人たちの生活。限られた予算の中で、どちらを優先する?」
「それは……」
葵は言葉に詰まる。
「国全体が豊かになれば、いずれはみんなに恩恵が回ってくる。そう考える人もいる」
怜が静かに口を開く。
「いわゆるトリクルダウンの考え方ね。まず大企業が成長すれば、その利益がいずれ社会全体に波及する。最大多数の最大幸福という功利主義的な視点では、全体の利益が増えるなら、一時的な犠牲は仕方がないという論理になる」
「でも!」
遥が思わず声を上げた。
「それって……結局、弱い人が切り捨てられるってことじゃないですか。B、C、D、Eさんたちは、何も悪いことしてないのに。ただ運が悪かっただけで、生きる権利まで奪われるの?」
-----
## 第三章:内部留保という城
「話はまだ続く」
天野先生は図に新しい要素を加えた。A社の円の中に、さらに小さな丸をいくつも描く。
「A社の社員たちも、実は苦しんでいた」
「え? 会社が成功してるのに?」
葵が驚く。
「会社は莫大な利益を上げているのに、社員の給料はほとんど上がらなかった。それどころか、福利厚生は削られ、人材育成への投資も止まった」
「なんでですか? 会社は儲かってるんでしょう?」
「A社の経営者はこう言った。『これはリスク管理だ。いつ不況が来るかわからない。いつ海外の競争相手に追い抜かれるかわからない。だから利益は会社に蓄えておかなければならない』」
天野先生は、A社の円の中に大きく数字を書き込んだ。
「600兆円」
「気づけば、A社の内部留保は600兆円。国家予算の5年分だよ。けれど、社員の給料は20年ほとんど上がらなかった──なぜだと思う?」
教室が静まり返る。
「内部留保……」
怜が呟く。
「そう。使い道のない巨額のお金が、ただ貯まり続けた。人材育成への投資もしなかった。技術開発への投資も最低限。すべては『リスク管理』の名の下に」
「それって……」
健太が腕を組む。
「結局、経営者が自分たちだけ守ろうとしてるだけじゃないですか。社員も、B、C、D、Eさんたちも、全員犠牲にしてさ。で、株主だけが配当もらって喜んでる」
「でも、健太」
天野先生は問いかける。
「もし君がA社の経営者だったら? 株主総会で『なぜもっと配当を増やさないんだ』『なぜ業績が横ばいなんだ』と詰められる。いつリーマンショックのような不況が来るかわからない。そんな中で、君は社員に給料を上げられるか? 技術開発に賭けられるか?」
「……それは」
健太も答えに詰まった。
-----
## 第四章:割れる議論
「先生、結局、この話の答えは何なんですか?」
葵が痺れを切らしたように聞く。
「答え?」
天野先生は肩をすくめた。
「それを見つけるのは、君たちだよ。それとも、葵は答えがほしいのかい? 『これが正義です』って誰かに決めてもらいたい?」
「そうじゃなくて……でも!」
葵の声が大きくなる。
「これって明らかにおかしいじゃないですか! B、C、D、Eさんたちは生きることすら難しくなって、A社の社員も報われなくて……それなのに、政府とA社の経営者と株主だけが得をしてる。これのどこが正義なんですか!」
「でも、国全体のGDPは伸びた」
怜が冷静に反論する。
「技術も発展したし、国際社会での評価も上がった。この国は経済大国として認められ、他国を支援できるまでになった。その恩恵は、長期的にはみんなに回ってくる可能性がある」
「そんなの、机上の空論よ!」
遥が叫ぶ。
「B、C、D、Eさんたちは『今』苦しんでるの。『長期的には』なんて言葉で、その苦しみを正当化できるの? 死んだ人には未来なんてないのよ!」
「でも、感情だけで政策は決められない」
怜が言い返す。
「全員を救おうとして、結局誰も救えなくなることだってある。限られた予算をどう配分するか、それは数字で考えなければならない」
「じゃあ、一部の人を見殺しにしていいって言うの!?」
「見殺しにするんじゃなくて、優先順位をつけるってこと──」
「それって同じことじゃない!」
議論は白熱し、教室の空気が張り詰める。葵と遥は感情的に、怜は冷静に、それぞれの「正義」を主張し続ける。
-----
## 第五章:視点の向こう側
「みんな、落ち着いて」
天野先生が手を上げる。
「君たちは今、それぞれ違う『正義』を語っている。そして、それぞれが正しい。同時に、それぞれが間違っている」
「……どういう意味ですか?」
葵が呆然として聞く。
「葵と遥は、個人の尊厳と生存権を守ることが正義だと考えている。一人ひとりの命が大切で、誰も見捨ててはいけないという視点だ」
天野先生は、ホワイトボードに「義務論・人権」と書く。
「怜は、全体の利益を最大化することが正義だと考えている。限られた資源の中で、最も多くの人が恩恵を受ける道を選ぶという視点だ」
その隣に「功利主義・全体最適」と書く。
「健太は……」
「俺は、どっちも正しく見えるし、どっちも間違ってる気がします」
健太が正直に答える。
「その通りだ。そして、それが最も誠実な答えかもしれない」
天野先生は微笑んだ。
「正義は、いつも『誰の目線か』で姿を変える。政府の視点では国の成長が正義。A社の経営者にとっては会社を守ることが正義。株主にとっては利益を得ることが正義。社員にとっては待遇改善が正義。でも、B、C、D、Eさんにとっては──」
「それらすべてが『悪』……」
遥が小さく呟く。
「そう。同じ一つの政策が、ある人にとっては希望で、ある人にとっては絶望になる」
先生は、夕日に染まる教室を見渡す。
「正義は、必ず誰かを救い、誰かを切り捨てる──問題は、それを『自覚しているか』なんだ」
-----
## 終章:問いは続く
「じゃあ……」
葵が震える声で聞く。
「私たちは、どの視点で『正義』を選べばいいんですか? どうやって決めればいいんですか?」
天野先生は、夕日を背にして静かに答えた。
「それは、君たち自身が決めることだ。ただし、覚えておいてほしい」
先生の声が、教室に静かに響く。
「どの正義を選んでも、必ず誰かが傷つく。完璧な答えなんて、この世界にはない。でも──」
一拍置いて、先生は続ける。
「だからこそ、私たちは考え続けなければならない。『この正義は、誰を救い、誰を見捨てるのか』『私は、その選択に責任を持てるのか』を」
夕日が沈み、教室に長い影が伸びる。
生徒たちは、それぞれの胸に重い問いを抱えたまま、黙って座っていた。
「先生……続きは、明日も聞けますか?」
葵の問いに、天野先生はただ微笑んだ。
─── 第1話 完 ───
## エピローグ:あなたへの問いかけ
教室を出た葵は、夕暮れの校庭を見つめながら考えていた。
「正義って、こんなに複雑なものだったんだ」
隣を歩く遥も、同じことを考えていた。
「私たちは、いつも誰かの『正義』の中で生きているのかもしれない」
そして、この物語を読んでいる「あなた」にも、同じ問いが投げかけられる。
現実の日本では、企業の内部留保が600兆円を超え続けている 。
格差の拡大は社会の不安定化を招き、経済成長の停滞リスクを高めている 。
もしあなたがその教室にいたら、どの「正義」を選びますか?




