約束通り、10年経ったので離婚してください
シャーロット・トラウド伯爵夫人は、夫のルーファスの執務室のドアの前で、軽く握った手を持ち上げた。そのままノックをしようとして、手が止まる。
「戻られますか?」
付き添っていた秘書のエルドがそっとささやいた。
「いいえ。行くわ」
反対の手に持った書類にちらりと視線を寄越してから、シャーロットは思い切ってドアをノックした。
「どうぞ」
落ち着いた声が返ってきて、シャーロットはドアを開けた。
正面の執務机にいるルーファスは、書類に目を落としていた。
我が夫ながら、呆れるほどに見目麗しい容姿をしている。簡素なシャツ一枚の姿だというのに、その美貌は全く損なわれない。金色の髪と青い目を縁取るまつ毛は窓からの光できらきらと輝いているし、顔のパーツは全て完璧な位置に収まっている。
いつまでもルーファスが顔を上げないので、横にいた側近のユリウスが声をかけた。
「旦那様」
ルーファスは言われて顔を上げ、シャーロットを見ると、ぱっと顔を明るくさせた。
「シャーリー! どうしたんだ? この時間に家にいるのは珍しいな」
「サインしてもらいたい書類があるの」
「見せて」
シャーロットが持っていた書類を差し出すと、受け取ろうとしたルーファスの手が止まった。
「えっと……これは……?」
「見てのとおりよ」
シャーロットは淡々と答えた。
「離婚届けって、書いてあるけど……?」
「ええ、そうね」
ルーファスの視線は書類に釘付けになっている。
「離婚したいってこと……?」
「はい」
「どうして……?」
声が若干震えていた。
シャーロットがちらりとユリウスの顔を見て、すぐに視線をルーファスに戻した。
「そういう契約だったので」
「契約?」
「はい。約束通り、十年経ったので離婚してください」
「十年、経ったから……」
「はい」
シャーロットは淡々と頷いた。
「……………………わかった」
たっぷり十秒ほど沈黙してから、ルーファスは書類を受け取り、脇に置いた。
「いま書いて欲しいのだけど」
ルーファスはじっとシャーロットを見た。
「……こっちで処理しておく」
「そこまでしてもらわなくてもいいわ。私が直接提出しに行ってくるから、サインだけちょうだい」
「いや、僕の方で処理しておくよ。明日宮廷に行くし、窓口で出すよりも、担当部署に直接届けた方が早いから」
「そう。じゃあお願いね」
シャーロットは踵を返すと、執務室を出て行こうとした。その背中を、ルーファスが引き留める。
「シャーリー!」
「……何?」
一拍置いてから、シャーロットはゆっくりと振り返った。
「いや、あの、えっと……離婚した後は、どうするつもりなんだ?」
「まずは旅行にでも行こうかと思っているわ」
「旅行なら、僕と一緒に行くのはどうだろう?」
何を言うのか、とシャーロットは眉を寄せた。
「私たち、離婚するのよ?」
「そうだけど、でも、一人で旅に出るのは危ないだろう?」
「ご心配なく」
答えたのはシャーロットではなく、エルドだった。そっとシャーロットの腰に手を回す。
「シャーロット様のことは、わたくしがお守りしますので」
ルーファスが絶句している間に、二人は今度こそ執務室を出て行った。
「ふぅ……」
自室に戻ったシャーロットは、ソファに深く体を沈ませた。
「お疲れさまでございました、奥様」
エルドがすぐに冷たい飲み物を用意する。
秘書のする仕事ではないが、シャーロットは専属の侍女を置いていないので、身の回りのことはほとんどエルドがしていた。やらないのは、男では差しさわりのある、身支度や風呂、夜更けの世話くらいだ。
三年前に実家から呼んだエルドを、シャーロットは心の底から信頼していた。元は幼馴染だから当然なのだが、屋敷で最も信頼できる人物である。なんなら夫のルーファスよりも。
「あなたに奥様と呼ばれるのも、あと数日ね」
息の詰まる十年間だった。伯爵家に相応しくないと蔑まれ続け、なんとか相応しくあろうと努力しても、血筋がすべてを台無しにした。成人してからの三年間は、それに加えていまだ跡継ぎができてないことを非難されてきた。シャーロットは十年経つのを、ずっと指折り数えていた。
悪いことばかりではない。実家の家業はトラウド伯爵家と繋がれたことで、飛躍的に拡大した。膨大な利益を生み、その功績で自力で爵位をもらえそうなほどに。トラウド伯爵家も、シャーロットの実家からの援助で、傾いていた財政を立て直した。
「わたくしのお嬢様に戻ってくださるのを、楽しみにしています」
エルドが跪いてシャーロットの手を取り、甲に口づけた。
「あなたが側にいてくれて、本当によかったわ」
「それがわたくしの役目ですから」
* * * * *
十年前、十五歳だったルーファス・トラウドは、五歳年下のシャーロット・メロディアと婚姻を結んだ。深刻な不作によって年々悪化していた財政にとどめを刺されたトラウド伯爵家が資金を欲し、事業で財を成した平民のメロディア家が貴族への伝手を欲した結果だった。
トラウド家は金で爵位を売り渡したと貶された。
だが仕方がない。領民を飢えさせるわけにはいかなかった。他家には援助をことごとく断られ、メロディア商会の申し出を受け入れる以外の道はなかった。
どうせいつかは家のために誰かと結婚をしなければならないのだ。相手が十歳の少女だというのはあまりにも想定外ではあったが、成り上がりの平民であろうとも構わなかった。領地と領民を守るには、もうそれしか方法がなかったのだから。
だが、ルーファスの欲深い両親はそうは思わなかったらしい。湯水のような散財により財政悪化を引き起こした張本人たちは、次期伯爵と平民の娘の結婚ではあまりにも釣り合いが取れなすぎる、と厚顔無恥にも主張し、ルーファスとシャーロットの結婚は、十年間の契約結婚ということになった。
つまり、十年後に離婚する、ということである。
その頃になれば、トラウド家はメロディア商会の援助により財政を立て直しているだろうし、メロディア商会の方も他の貴族との伝手はできていて、伯爵家と縁続きでなくとも問題はなかろう、という目論見だ。
そしてその十年後――つまり今――その目論見通りになった。
ルーファスが当主を継いだトラウド伯爵家はもうメロディア商会の支援がなくともやっていけるし、メロディア商会も貴族社会との伝手は十分にできた。二人が離婚しても、両家はそれぞれの道を進んでいける。
だから、離婚できる。できてしまう。ルーファスには、シャーロットを引き留める理由がない。
ルーファスは、シャーロット(とエルド)が出て行ったドアを呆然と見つめていた。
その胸倉を、ユリウスがつかむ。
「ちょちょちょちょちょっと! 何今の!? どういうこと!? なあどういうこと!? シャーロットちゃんと離婚するって!? ルーファス、説明しろよ! 契約ってなんだよ!!」
日頃の丁寧な言葉遣いはどこかへ吹っ飛んでしまい、乳兄弟としてのそれになっている。
ルーファスは、シャーロットとの結婚が契約結婚であったことをかいつまんで説明した。
「はぁ!? なんっっでそんな大事なことを教えておいてくれないんだ! どうするんだよ! 明日が結婚十年目の記念日だろ!? ……あ、だから今日書類を持ってきたのか。今日で丸十年だから、明日提出すれば最速で離婚できる。早く離婚したくて仕方がないんだろうな」
「あああぁぁぁぁ…………」
ルーファスが肘をついた手を額に当てて俯き、嘆きの声を上げた。
「なんでこんなことになってるんだよ? お前ら上手くいってただろ? 身分の差を超えただけはある、稀に見るオシドリ夫婦。社交には必ず二人で参加してたし、ダンスだってお互いとしか踊らないし、記念日にはプレゼントを欠かさず送っていて、今時珍しく寝室だって一緒なんだろ? 近いうちに跡継ぎができるだろうってみんな楽しみに――」
「してない」
「いやしてるって。そりゃ具体的な準備はご懐妊してからになるけどさ、すぐに動き出せるようにはしてあって――」
「そうじゃない。跡継ぎを作ってない」
「は? 作ってないって、セッ――」
バシッとルーファスが書類の束をユリウスの顔面に投げつけた。
「そうだ! してない!」
「なんで!?!?」
ルーファスはがっくりと肩を落とした。
「十歳の女の子に手なんて出せるわけないだろ……」
「いやいや、シャーロットちゃん――奥様は二十歳だ。成人してから三年も経っている。子供が一人いてもなんらおかしくはない」
「わかってる。わかってるけど、成人した日に、じゃあ解禁ってわけにはいかないだろう!」
「いや、初夜ってそういうものだからな!? 結婚した日に解禁! 待ちたかったんなら成人した日が初夜だろうが! その後だってチャンスはいくらでも――」
机に伏せたルーファスが、ううぅー……と唸り声を上げた。
「毎晩同じベッドで寝てよく我慢できたな……。ああ、だから最近忙しくもないくせに執務室に入り浸っているのか。ソファで寝てないで部屋行きゃいいのにと思ってたら」
「拒絶されたら死ぬ……」
ユリウスがため息をついた。
「その結果、離婚っつー、最大の拒絶を突きつけられてるけどな」
ぐぅ、とルーファスがうめいた。
「その結果ってわけじゃ――」
顔を上げてユリウスを睨みつけた目には、うっすらと涙が溜まっている。
「その結果だろ。夫婦なのに夜の営みがないとなれば、契約通りに離婚するつもりがあると思われて当然だ。そもそもなんで先に契約結婚のことをどうにかしておかなかったんだ!」
「シャーリーは忘れてると思っていたんだ」
「忘れてる!? あのシャーロット・トラウドだぞ!? これまで締結した契約書を一言一句違わず諳んじることのできるメロディア商会の才女が、契約の存在を忘れてるわけがないだろうが!!!!」
「ユリウスの言うように、僕たちは上手くいってただろ。契約のことを覚えていたとしても、シャーリーもこの結婚を継続する意思があるんだと……」
「おい、契約書を出せ、今すぐに!」
ユリウスに言われて、ルーファスはシャーロットと交わした契約書を引っ張り出した。
「ここ――『甲と乙は公の場では夫婦らしい振る舞いをすること』と書いてある。もしかして、シャーロットちゃんは、これを守ってるだけだったんじゃないか」
ルーファスはガンッと後頭部を強く殴られたような気がした。
そして、まだ十歳のシャーロットが「公の場はもちろんですが、ボロが出ないように、私的な場でもある程度は親密な態度をとりましょう」と提案してきたことを思い出した。それに自分が頷いたことも。
「つまり、シャーロットちゃんがお前と仲睦まじくしていたのは全部演技で、本当はお前のことは何とも思ってなかったってことか」
「そんな、だって、シャーリーは……」
「それと、お前の態度も全部演技だと思われている可能性が高い」
「えぇぇ!?」
「だってそうだろ、そういう契約なんだから。いくら愛を囁いても、そういう演技だろうと思われるのがオチだ」
「愛を囁く……」
ルーファスは呆然として呟いた。
「お前、まさか、シャーロットちゃんに好きだって言ったことは――」
「ない、かもしれない」
「ばっっっっかじゃねぇの!?」
ユリウスが叫んだ。
「だって始めから夫婦だったし、最初はもちろん好意なんて持ってなかったし、好きだという感情を持ったのも最近――伯爵を継いだときに湧いてきたというか……」
「五年前は最近じゃねぇ!! 貴族の夫婦なのに跡継ぎも作らず? 今まで一度も好きだと言ったこともない? それは契約結婚じゃなくても離婚だわ。おい、念のために聞くけど、キスはしたことあるんだよな? ――あ、言わなくていい」
ルーファスの反応を見て、ユリウスは察した。
「はい、もう手遅れ。何やっても無駄。どうせ今から好意をアピールしたって全部演技だと思われるのがオチだし。シャーロットちゃんが抜けた穴をどう埋めるかを考えた方が建設的だ。後妻をどうするかは自分で解決してくれ。俺は代わりに事業を回せる人材を探すから。二人……じゃ無理か。三人いればなんとか……」
「え、ちょっと、ユリウス、待って。ユリウス!!」
ルーファスの制止むなしく、ユリウスは出て行ってしまった。
ユリウスの言葉がじわじわと効いてくる。
契約のことはずっと頭にあった。その対処を疎かにしていたのはルーファスが悪い。だけど、シャーロットはずっとルーファスの横にいて幸せそうだったし、ルーファスももちろん幸せだった。今さら蒸し返すと、その幸せな日々が壊れてしまうと思ったのだ。
どうしたらいいんだ、とルーファスは頭を抱えた。
* * * * *
翌日、結婚十周年記念のパーティが、屋敷で盛大に行われた。
離婚を切り出したシャーロットとしては気まずくて仕方がないが、開くしかなかった。準備はもう全てしてしまったし、招待客だっているのだから。ルーファスは今日離婚届を提出しただろうから、それが受理されるまでの間の辛抱だ。今まで通り、にこにことルーファスの横で笑う。
複雑な心境でいたせいか、シャーロットはワインを飲み過ぎた。
足元がふわついているシャーリーを見て、ルーファスが腰に手を回した。
「シャーリー、飲み過ぎたようだね。もう部屋に戻ろう」
「あなたが残らないのはダメだわ。一人で戻ります」
もう招待客もだいぶ帰っているが、まだ残っている客もいる。
「君を送ったら戻ってくるから」
「大丈夫よ。あなたはここにいて」
シャーリーがルーファスの体を軽く押す。
そこへ、エルドがやってきた。
「ではわたくしが」
無理なくシャーロットをルーファスから引き離し、腰を支える。
「ありがとう、エルド」
「それではこれで」
エルドはルーファスに一礼すると、シャーロットをエスコートして会場を後にした。
その様子を見ていた招待客がひそひそと囁いていたのには、聞こえないふりをして。
* * * * *
招待客を全て帰し、ルーファスは執務室のソファに身を沈めてクラバットを緩めた。
そこに、ユリウスが水の入ったグラスを二つ持って入ってくる。
「お疲れ様でございました」
「ありがとう」
残ったグラスを持って、ユリウスはルーファスの向かいのソファにドカッと座った。
「で? 離婚届は出したのか?」
「出すわけないだろ!?」
机の引き出しの中にしまってある。
「でも昨日、『わかった』って言ってなかったか? 自分で出した方が早いとも」
「あの時はああ言うしかなかっただろ」
「時間稼ぎもたかが知れてるぞ。白い結婚なんて、離婚事由としては強力だ。契約書を持ち出されなくたって十分に成立する。裁判に持ち込まれたら一発だ」
ルーファスは顔を両手で覆ってため息をついた。
「この間に何とかしたい。助けてくれ」
「まあ、どうにかするには、ちゃんとシャーロットちゃんのことが好きだと伝えて、改めて結婚を申し込むしかないと思う。けど……」
「けど、なんだ?」
「昨日からエルドがやけにシャーロットちゃんと近い気がしてて」
エスコートだといえばその通りなのだが、普通よりも密着していたような気もするし、それ以外の場面でも、やたら距離が近かったような気がする。
「それは気にしなくていい」
「いやでも、幼馴染って言ってたし、旅行も一緒に行くつもりみたいだし、あの二人はたぶん……。だとすると、ルーファスがいくら頑張ってももう無駄っていうか入り込む余地はないというか」
「とにかくエルドのことは気にしなくていい。だから俺が今から何とかできる方法を考えてくれ」
「ああ、まあ、やることは変わらないだろうから……」
ユリウスはルーファスに策略を伝授した。
* * * * *
それからルーファスはシャーロットに対して猛攻を仕掛けた。
離婚はしたくないしするつもりもないし離婚届も出していないと最初にきっぱりと宣言をし、シャーロットに愛を乞い続けた。
毎朝手ずから摘み取った薔薇の花束を贈り、それとは別に毎日プレゼントを贈った。高価なものも、安価なものも、手作りの物も、とにかく毎日。
そしてやがて、シャーロットが音を上げた。
「わかった。わかったから。結婚は続けましょう」
「本当に!?」
「はい。離婚するのはやめます」
「よかった……」
泣いて喜ぶルーファスを見て、シャーロットはため息をつく。報われない恋心を抱いて悩み続けたこの十年間は何だったんだろうと思いながら。
「エルドは置いておいてもいい?」
「いいよ」
「気にするかと思ったけど」
「男なら嫌だけど」
「え? 知ってたの?」
「当然だろ。シャーリーの側に男を置くのを許すわけない。最初から知ってた」
はぁ、とシャーロットは再びため息をついた。不貞を働いたふりをする作戦は最初から失敗だったわけだ。
「じゃあこれからまたよろしくね」
「ああ、よろしく。愛しのシャーリー」