9 メンテナンス
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夜半、めったにない大風がとある邸宅の外を吹き荒れていた。コレクションルームの大きく割れた窓からは、近くの貯水池から巻き上げられた水が雨のように降り込んでいる。室内の明かりは皓々として眩しすぎるくらいで、壁に並ぶ飾り棚や定間隔に安置されたショーケースに収められた品々の現実感をかえって失わせていた。
棚から取り出したコレクションをじっくり眺めるためのスペースでは、ソファが蹴倒され、持ち主が堪能しようとしていたはずの宝石類がテーブルの上に乱雑に散らばっていた。その脇にあったワインのボトルもグラスもひっくり返り、宝石たちのルビーに似た鮮やかな光をより深い血の色で塗りつぶそうとしていた。
ワインは床まで滴り落ち、そばのもう一つの血溜まりと混じり合う。そこには、上質なガウンを纏ったこの邸宅の主――よく肥えていることがガウン越しでもわかる――がうつ伏せに倒れていた。
物音を聞きつけて起きてきた妻は、初め扉の隙間からそっと様子を伺い、異変を見て取ると数歩中へ入り込みすぐに身をすくませた。「ひっ」と短く息を呑み、直後にあらん限りの金切り声を上げた。
血溜まりに沈む彼女の夫には、喰いちぎられたかのように片手と首がなかった。
* * *
「ルゥ、お待たせ」
ノックとともにビアンカは船の医療ルームへ入った。
「ああ、ちょうどこっちも終わるとこ」
中では、ルゥがメディカルチェアに身を横たえていた。背もたれをほぼ水平に倒し、両腕はそれぞれ筒状のメンテナンスユニットに肩からすっぽり覆われている。
「ユニット積んどいて良かったよ。いつもより早く定期メンテが必要になるんだもん」
室内に詰め込まれた緊急時用医療ポッドや薬品保冷庫をよけてそばに近づくと、退屈していた彼女が話しかけてきた。
「出張が予定より長引いたからね。でもメンテの時期そのものは別に早まってないわ」
「そうなの?」
「いつも通り、ひと暴れふた暴れしたところで義肢の調子が落ちる。一般的なメンテスケジュールより三倍早いのがあんたのスケジュールよ」
「そうなの!?」
自分の腕のことなんだからちゃんと把握しときなさいよ、とビアンカは思ったが口には出さず、軽く肩をすくめただけにした。
程なくしてユニットの駆動音が静まり、緑の通知ランプがともる。
〈プロセス終了。義肢と装着者を接続します〉
自動音声に、ルゥがわずかに身を固くした。高周波に似た音が一瞬湧き上がると「んっ」と声を漏らし、それから静かに息を吐いた。ユニットのロックが外れ、腕が解放されると同時にチェアの背が起きる。
「問題ない?」
「ぜんぜん大丈夫」
ルゥは軽く手指を曲げ伸ばしたり肘や肩を回したりした。培養強化素材を使った人工皮膚も爪も生身そっくりに見える。ただ肩口の接合部にある小さなプラグ穴が義肢であることを示していた。普段は隠れているが、いま着ているようなタンクトップ姿だと露わになる。
「じゃあ次。仕上げするわよ」
ユニットがチェアの背後の壁へ自動的に格納されるのを待って、ビアンカは脇のスツールに腰を下ろした。手にしているガラスのボトルには、美しく透き通ったラベンダー色とペール・ブルーの二層に分離した液体が入っている。
ボトルを軽く降って二層の液を混ぜ合わせると、中に金色の粒子が生まれた。初めは渦を巻き、ボトルを振る手を休めると液全体に枝垂れ花火のように散り広がって消えていく。完全に混ぜ終えた液を手のひらに取り、ルゥの両腕に塗り拡げていく。
「出た。謎ローション」
うっすらとした紫色に染まる腕を眺めながら、ルゥがつぶやいた。
「茶化さないの」
「だって、絵面がほぼエステサービスじゃん」
「あのね、これをやらなかったらあんたの腕はメンテじゃ間に合わないどころか、〝ひと暴れふた暴れ〟の直後にスクラップになってもおかしくないのよ」
例えば、拳にボウリング並みの重さを付けて大男を殴り倒したりしても義肢が断裂や骨折したりしないのは、このコーティングがあるからだ。
「うん、おかげで思い切りやれてる。謎ローション助かる」
「謎って言わないで」
悪びれないルゥに呆れながらビアンカは作業を続けた。爪の先まで塗り終えると、ボトルを置いてその両手を取った。錬金術で調合したこのアイテムは、ロッドがなくてもビアンカから少量のオーラを送るだけで効果を発動する。
「……」
義肢の疑似神経がルゥにぴりっとした刺激を伝えた。両腕をくるむ何かが一瞬真綿のように膨れ上がり、同時に肌の表面をぴたりと覆う感触がする。直後、義肢を覆う紫色はすうっと消えた。
「これやると、急に腕が『腕そのもの!』って感覚になるな。『くっつけてる』って感じじゃない」
「でしょ」
ビアンカは少しだけ顎を上げた。
「レシピ44番『随意強化と霊域の保護』。ルゥの意思に対する義肢の反応速度を上げるのと、外からのショックを多少和らげてくれる効果があるのよ」
事務所の所長にして彼女の師匠とも言えるアレクサンドラが作成したレシピだが、ルゥの体質や行動を見てビアンカなりにアレンジを加えている。
「今回はね、効果を高めるためにローズクォーツの配合を変えてるわ。それからエッセンスはいつものに7番もブレンド。撹拌はルゥのオーラに同期するよう厳密に……」
「あーうん、わかった! つまり今より固くなるんだろ? ありがと!」
ルゥは聞いてないのに語りだしたビアンカを慌てて遮り、チェアから勢いよく立ち上がった。
「それよりもうお腹ぺこぺこ! ご飯にしようよ!」
それはそうよね、とビアンカも苦笑し一緒に医療ルームを出た。




