花婿にはヤンデレ適性があるけれど、今そんなことしてる場合じゃない。
不謹慎です。
ベンチに忘れられた帽子を手に持って、離れていくその背中を追いかけることが、三日ほど続いた。
「……まあ、またあなたに助けられましたわね、親切な方。ありがとうございます」
呼び止められた女が振り返って、翠緑の目を丸くして、それから恥ずかしそうに笑うことも三日続いた。
だが三日目は、なかなか持ち場に戻らない男を見上げ、帽子を受け取った女の方が「きっと、すっかり忘れん坊の問題児だと思われていることでしょうね」と言った。
「お恥ずかしいわ。ただでさえ一緒にいると気が引けてしまうのに。ふふ、あなたの妻になる方はかえって不幸です、夫である人がこんなに美しいのではね」
くすくす笑いながら、ピオニー・クラビニエットは帽子をかぶり直した。
そして口を開きかけた相手から目を逸らし、視線を王宮の庭の奥へと向ける。
「ところで、王太子殿下は今日はいずこにいらっしゃるのかしら。ええと、……騎士様はご存じ?」
花飾りがついた帽子の下の、小さな唇から出てきた、なんの悪意もない無垢な呼びかけ。
それが、騎士の胸に悪魔を誘う呪文であった。
――二年後、冬のクラビニエット伯爵領で、華やかな結婚式が行われた。
祝いの客人と贈り物は国中から押し寄せた。嫡子であった長男が宮廷から左遷されたことを覆い隠すようなそれは、ひとえにこの少し前に、伯爵家の長女が前例のないすみやかさで王家に輿入れしたことに起因していた。
そして今回は、女伯爵となることが決定した次女と、王太子の信任篤い若い騎士の婚礼である。
「えー……あなた方は、健やかなるときも病めるときも、富めるときも貧しきときも、……いかなるときも、死が二人を分かつまで、これを愛し、支え、貞節を守ることを神に誓いますか」
王都からの長旅で疲れ切った様子の新任司祭を前に、若い二人が順々に肯定の言葉を述べた。
――誓います。
――……誓います。
人形のようにうつろな眼差しの新婦が、ごく小さな声で同意した隣で、新郎はわずかに微笑んでいる。
誓いの口づけは、固く引き結ばれた唇の横へと落とされた。
祝いに集まった人々による宴は深夜まで続く。
その際、主役の夫婦が消えた寝室のほうを気にかけないのは礼儀であった。
***
――ノックの音に、寝室から返事はなかったが、ランドルフは構わず扉を押し開けた。
その瞬間、部屋に充満した甘ったるい香りが鼻を突く。思わず顔をしかめたくなるのを堪えた。
室内はまだ明かりが煌々と灯っていた。暖炉に火が入っていないせいか、背筋を寒気が走ったが、それも一瞬。ランドルフの注意は部屋の奥へと向かう。
古風な寝台の上では、先ほど結婚の宣誓をした妻が、ほどいた金髪を背に波打たせて座っていた。
小柄な体を守るようにかかっていた紗の天蓋をめくり、隣に座る。俯いたその顔を、ランドルフは無遠慮と自覚しながらのぞき込んだ。
「不安にお思いですか、ピオニー」
ぴくりと金色のまつげが震えた。翠緑の目が、怯えるように夫となったばかりの男を見上げる。
「……あなたは、この状況をおかしいとは思いませんでしたか?」
おかしい。どこがだろう。
嫡子の男子が遠ざけられ、姉が王太子に嫁ぎ、どこにでも嫁げるはずだった次女が家にとどまり、それまでの縁談がすべて白紙になったところで、王太子の強い後押しを受けた騎士と結婚することがだろうか。
思わぬ問いを笑顔でいなしながら、ランドルフは自分の中で哀れみがわずかに頭をもたげるのを感じた。
それを押しのける、欲望と満足感も。
「まったく」
答える声に迷いはない。ランドルフは、騎士として武勇に秀で、知略に長け、決断力もある、誰もがあこがれる美丈夫である。
だが、あらゆる長所をもってしてもなお、利己的という言葉以上にこの時の彼を言い当てるものはなかった。
「愛する方と結ばれることに、おかしいところなどあるはずがない」
その言葉と共に、ランドルフの指が長い金髪の一房をすくう。何気ない様子で、ゆっくりと指に金糸を絡めていく。
騎士ランドルフは、王太子に恋をしていたこの女を手に入れるために何でもした。
帽子を被りなおして立ち去るピオニーをともに見送りながら『美人だな、タイプだ』と口笛を鳴らした騎士仲間を、後日の演習で怪我を負わせ、引退に追い込んだ。
ピオニーに目をつけている高位の貴族がいると知れば、詐欺師をけしかけ破産させた。王家とピオニーの縁組を望んでいた、彼女の実兄を罠にはめ失脚させ、王都から追い出した。
いまだ結婚相手を決めかねていた王太子に、『クラビニエット伯爵家の長女があなたに懸想している』と吹き込んで引き合わせ、婚約まで持ち込ませた。聡明で身持ちが固いと噂のあった姉の方にも、『王太子はあなたにご執心です』と吹き込んで、よく効く媚薬を盛った上でだ。
姉の急な婚約を知った妹の傷心を知りながら、将来有望な騎士として彼女の両親に自分を売り込んだ。貴族の結婚において娘本人の意思など無いも同然なことは、言うまでもなく熟知していた。
――それでも、ピオニー本人が多少は抵抗したのだろう。教会側のトラブルだと言いつくろって、伯爵家の領地で行われる挙式は一日遅れとなった。だが王太子の後ろ盾と共に婿入りするランドルフ側が、それ以上の遅れを許さなかった。
こうして騎士は恋した女を妻として手に入れた。本来なら、見ていることしか叶わなかったはずの高嶺の花。それが今、薄衣一枚で肩を震わせている。ランドルフが今夜、彼女に何をしようと、誰にも咎められるいわれはない。
ピオニー・クラビニエットはもう、この男のものだ。
――どうしてこうなったのだったか、と思うことが、たまにある。
そのたびに、『ああ、あの時だ』と思い出すのだ。
忘れられた帽子を届けたあの日々のことだ。もう些細なことだ。この先はもう、思い出す頻度も減るだろう。
何せ結婚したのだから。彼女の夫は自分なのだから。――もう、そのことにもこだわらなくていいはずだ。
「……『死が二人を分かつまで』。愛していますよ、この先も、ずっと」
ランドルフは妻の小さなおとがいを指で持ち上げた。力を入れずとも素直に従った相手の小さな唇に、己のそれを近づけた。
「……いやっ、やっぱり無理です!」
触れる寸前で、拒絶の言葉が飛び出した。ピオニーは夫の肩を押し、寝台を転げるように脱して部屋の端の大きなチェストの前まで逃げ、こちらに背を向け小さく震えた。
「こんなの間違ってる……こんなの……」
ランドルフは好きにさせた。白けた気持ちと焦らされる苛立ちはあったが、哀れみもあったからだ。敗れた恋。急な結婚。望まない相手。もしかしたら、こちらの企みが彼女の無垢な目には透けて見えたのかもしれない。
かわいそうに。逃げようにも、もう何もかも手遅れなのに。
身長より大きなチェストにすがりつく彼女のもとへ、ランドルフはゆっくりと向かう。「何も間違ってはいませんよ」と優しく声をかけながら、真鍮の取っ手が付いた扉に手を突き囲う。二度目の逃亡を許さないため。
「どうか落ち着いて。私の、大事な方」
耳元でのささやきに、金髪が動揺するように大きく揺れて、それを最後に妻の震えは止まった。
「……騎士様、わたくし、このままあなたに身をゆだねることはできません」
その言葉を耳にして、理解するなり、己の手に力がこもるのをランドルフは自覚した。
(表面上くらい、優しく接してやろうと思ったのに)
もういいか。
もとより心は手に入らないとわかっていた。
本当に、いつから自分はこんな卑劣漢に堕ちたのだろう。どうしてこうなったのだったか。ああ、また同じことを考えている。今さら遅いのは自分だって同じなのに。
ランドルフは顔から仮初の気遣いを削ぎ落としたが、察しの悪い新妻は黙り込んだ夫の様子に気づかない。当然、自分の言葉が音もなくくすぶり始めた火に油を注ぎ続けていることにも、気づきようがない。
「騎士様。わたくしの心の中には、別の方がおりますことを、お伝えしたいのです。先ほど、結婚の誓いをした、あなた様以外の殿方が」
ランドルフは答えなかった。その手がチェストの扉から離れ、ピオニーの肩を抱く。敵と戦うために鍛えた腕で、これから華奢な女を背後の寝台へ連れ戻すことに対して迷いはなかった。相手が何を言おうと聞く気はない。何を言われようと、どうせ一番の望みは叶えてやれない。別れない。譲らない。彼女の言葉は当たっている。自分と結婚する女は、幸せにならない。
哀れみも、もうない。
「……で、この際それはどうでもいいんですが、それより、この部屋の中にいるもう一人の殿方が大問題でして」
予想外の言葉が耳を打つ。
えっ、と、小さな声がランドルフの口をついて出る。
次の瞬間、ピオニーはチェストの扉をえいやっと一気に引いて脇に退いた。両開きの扉は、開ければ中はそれなりの広さがあった。
――中にたてかけてあったものが、二人の横の空気をなぶって、勢いよく床に倒れた。ばたっと音を立てたのは、ピオニーより大きく、ランドルフよりは小さい、白い大きい塊。
それは、白い祭服を身に纏った中年の男だった。
ランドルフの知る限りでは、それは一般に司祭と呼ばれるにふさわしいものだった。
ランドルフの知る限り、と言ったのは、それが本当にランドルフの知る司祭と同一なのかわからなかったからだ。
何せ倒れ伏した体は不自然なほど動かず、後頭部から流れ出た赤黒い汚れが服の一部を茶褐色に染めている。これはランドルフの知る司祭たちとは大きく異なる。過去に会った司祭というものは、活動量に差はあれど、おしなべて皆、元気に動いていたものだから。
――おいこれ、まさか。
「……紹介します。この地区を教区としていらした司祭様、いえ、『前』司祭様です」
胸の前で手を組んだピオニーが悩ましげに口にした言葉に、ランドルフも「……ほぉ」と半端な相槌をするしかない。
「前、と言いましたが、引退の理由はごらんの通りでして」
「なるほど」
「なにせ説教のための口もきけないのですから」
「ああ確かに」
ランドルフはこの状態で職務ができなくなった者を『引退した』とは言わない。怪我をさせた元同僚だって、最後はランドルフと口を利かなかったがもう少し元気だったし、チェストにはきっと収められなかった。でも伯爵領ではこういう状況に対し『引退』という言い回しをする習慣があるのかもしれない。そんなわけないと知ってはいたが、ランドルフはわずかな可能性を考慮しながら一歩後ずさった。司祭の青白い指先が自分のつま先に触れていたからだ。
「もうおわかりかと思いますが、挙式が一日遅れてしまいましたのはこのような突然の引退と、それに連動した行方不明によるものです。式には司祭様の立ち合いが必要ですから……」
「行方不明」
そういえば、教会側のトラブルがって話があった。無駄な抵抗しやがってと思ってさっさと代わりの司祭を呼び寄せたのだが、なるほどこういうことか。
何がなるほどなものか。
「両親は司祭様が急に消えたことに焦るばかりで、わたくしもまさか『司祭様ならわたくしの部屋で寝てます。永遠に』なんて教えることもできず……。騎士様がすみやかに新しい司祭様を手配してくださらなかったらどうなっていたことか。ありがとうございます」
「……いえ、礼には及ばず。当然のことをしたまでですから」
頭を下げたピオニーにランドルフは定型通りの返しをした。足元の死体を横目で見ながら。
そうしてしばらく言及から逃げ回っていたランドルフだったが、「慎み深い方ですわね」と儚げな笑顔を見せるピオニーと床の男といつまでも三人きりでいるわけにもいかないと、とうとう茶番を切り上げる覚悟を決めた。
「ピオニー、あなたは彼が気絶しているわけではないと確信しているようですが」
「だって頭がつぶれてますもの」ピオニーは大きな瞳を床に向け、しょんぼりと項垂れた。
「……一応確認いたしますが、彼に手を下したのは、侍女とか? ……ああ、あなたご本人が……そう……なるほど」
不安げな顔の横にあっさり上がった右手を見て、ランドルフは最悪の現実を重い頷きでもって受け止める。聞く前から本当はわかっていた。だって他に関係者がいるなら、少なくとも今夜、ここに死体は隠さない。どう考えても、単独犯だ。
本気か。こんなことってあり得るのか。
手段を選ばず手に入れた女が、殺人犯だった。
これもしかして、死よりも早く二人が分かたれるパターンじゃないか。懲役とかで。
適当な誰かに罪をかぶせられないかと暗い目で思案するランドルフの傍ら、挙手したままのピオニーは悲しそうに事情を説明し始めた。
「結婚前の祝福に、とやってきた司祭様が、突然わたくしに『黒魔術を行ったであろう』とおっしゃったものですから……わたくし、急なことに驚いてしまって……」
なるほど。魔女の疑惑をかけられては、晴らす方が難しい。動転して思わず、ということか。
そう結論付けようとするランドルフの耳に、弱々しいすすり泣きが届く。
「なんでばれたのか、わからなくて……」
次の言葉を発するまでに、ランドルフはたっぷり十秒の沈黙を要した。
「……なさったのですか? 黒魔術」
「はい」
ピオニーは割合深く頷いた。つられて美しい髪が揺れた。死体の上で金糸が躍る。
「……一応確認いたしますが、あなたは黒魔術というものがどういうものかをご存じで? 花占いとは違うのですが」
「いけにえの血で魔法陣を描き、神を冒涜して悪魔を呼び出すんです。……女だからと馬鹿にしないで、もう何回もやってますのよ」
「もう何回もやってる??」
「でも、ただの一度も本物の悪魔を呼び出せたことなんてありませんでした。わたくし、魔女の才能が無いのです。無才の事実に今回も打ちのめされたのに、罪だけ背負わされるなんてあまりにも割が合わない……」
「魔女の才能???」
「だから、思わず、つい……」
思わず、つい、殺しちゃったのか。
「……つまりあなたは、自分の黒魔術の罪が摘発されることを恐れて、この司祭を突発的に殴り殺してしまったと」
「ああ、清く正しき騎士様、申し開きのしようもございません」
「その賛辞はやめていただきたい、胸が痛む。……ちなみに、いけにえには何をお使いに?」
「『何を』……人間ですが……? 清廉なる騎士様には御縁がないでしょうけど、一応申し上げますと黒魔術というものは花占いとは違いますので……」
「知ってますけど。いやもちろんやってませんよ、そんな回りくどいこと……」
ランドルフはこめかみをおさえて静かに絶望した。ランドルフの常識を心配して眉を下げている新妻の倫理観が、いよいよ後戻りできない地点にいることが確認できたからだ。
殺人はもうこの際はずみということで仕方ない。仕方ないで片付けるようなことではないのだが、人間ははずみで取り返しのつかないことをするものだから、もう仕方ない。だってもう、死んでしまったのだから。
しかし彼女はそれに加えて、人倫にもとるまじないにも手を出していた。別の何か、とても微笑ましい行為を黒魔術と思い込んでいるわけではなく、本当にやらかしているのだ。男はこみ上げてくる嫌悪感を必死に胸のあたりで抑え込んだ。騎士とは、信心深くあるよう教わるものだ。そして幸いなことに、忍耐強さも培うものだ。
そんなランドルフの様子をなんと思ったか――おそらくなんとも思っていない、ランドルフは新妻がそういう女であることを嫌というほど知っている――ピオニーは「とは言っても、血だけですけれど……」と気まずそうに目をそらして付け加えた。
「血だけ……?」
「はい……。お父様やお母様や、使用人たちの飲み物に睡眠薬を混ぜて、寝ている間に注射でこうチュウッと……蜜を集めるミツバチみたいに少しずつ……」
「ヴオェッ」騎士の忍耐にだって限界はある。
「まぁっ、お加減が? はちみつ入りのホットワインをご用意しましょうか?」
「結構です。お構いなく。絶対に。……しかし、黒魔術は行うだけで重罪と、あなたも分かっているはず。なぜそんな愚かなことをしたのです。隠ぺいのために殺人まで犯して」
ピオニーは俯き、きゅっと唇を噛みしめた。
「……お姉さまが、王太子様とご結婚されたのが憎たらしくて、つい」
「ここでその罪がめぐりめぐってくることなんてあるのかよ」
「罪? まあ騎士様、心につかえていることがあるならちょうどここに司祭様、だった方が」
「ピオニー、どうか聞いたことだけに答えてください」
新妻の薦めをよそに、ランドルフは目元を手で覆った。
もはや先ほどまで胸を覆っていた昏い悦びは影も形もない。それどころではない。
だって、足元には死体が転がっていて、それを見せてきたのはさっき夫婦の誓いを交わしたばかりの妻で、殺したのも妻本人だと言うのだ。こんな現実があるだろうか。さっきまで過去と未来に思いを馳せて女に下心を這わせていた自分の愚かしさが滑稽で憎い。お前、チェストの扉で妻を囲いながら、同時に司祭の死体と向かいあってたんだぞ。いやわかるかそんなん。
ランドルフは己の罪と罰に思いを巡らせながら、そっと手をずらし、傍らのピオニーを盗み見た。
――おそらく、今夜の悪い話はこれで終わりではない。
「あの、騎士様……」
小さな唇が、災いしか招かない唇が、止めるまもなく動き始める。
ランドルフは恐れた。二年ぶりの恐怖だった。この場で次にどんな事態が訪れるか、予想できる自分が恨めしかった。
視線の先で手を組み、うるんだ目で見つめてくる新妻から出てくる言葉なんてろくでもないに違いないのに、黙らせられない自分をただただ呪った。
「……あなたは先ほど、この状況をおかしいとは思わないとおっしゃいました」
「言ってません。あなたを妻にすることについてはなにもおかしいところはないとは言いましたが、同じ部屋に死体が隠されていることについては何一つ言及していません」
「何も間違ってないともおっしゃいました……」
「言ってません言ってません。手続きは滞りなく進んだのであなたの意思がどうあれこの結婚に間違いはないとは言いましたが、聖職者を殺し、死体を隠すことを肯定したことは我が剣に誓って一度もない」
「わたくしは正直に言いました……やっぱり無理ですと……」
「ちょっっっとその言い逃れはずるいんじゃないですか?」
「…………わたくしのことを、大事な方だと…………」
息を呑む音は、どちらのものだったのか。
沈黙した相手に、ピオニーはほとんど力のこもらない手で縋りつく。
「あの言葉に嘘はなかったと、愚かなピオニーにもわかります。……ねぇ、騎士様……」
見上げてくる翠緑の目は涙で揺れている。
太い腕に細い腕がまわり、薄衣越しの体が身を押しつけてくる。
「……『死が二人を分かつまで』……愛してくださる……この先もずっと……あなたは、確かにおっしゃってくださった……」
女の丸い爪が、ランドルフの夜着の袖に食い込んでくる。
二年前とは真逆の、必死な、まん丸に見開かれた瞳が助けを乞い、ひたと見つめてきている。
「……………見捨てないで、美しい、わたくしの夫……………」
新郎に、逃亡は許されていない。
***
祝いに集まった人々による宴は深夜まで続く。
その際、主役の夫婦が消えた寝室のほうを気にかけないのは礼儀であった。
たとえ、主役の夫婦が三人目の寝室利用者とともに、寝室を抜け出していたとしても。
――喧騒から離れた森の中で、ランドルフは鍬を手に土を掘り起こして深い穴を掘っていた。
横の地面に座り込んだ女の、情けない泣き言を聞きながら。
「寒い……寒い……どうして晴れの結婚式のあとにこんな凍えているのわたくし……」
「あなたが死体をこさえたからですが?」
鍬を振り上げながら、ランドルフは冷たく返した。べしょべしょと涙と鼻水にまみれ、寝間着にガウンとコートを重ねたピオニーが穴の下の夫をのぞき込む。
「まだでしょうか……早くしてくださらないと、人が来てしまいますわ……」
「ならあなたも掘ったらどうですか」
「初夜の後のわたくしの手にまめができていたら、怪しまれてしまいますわ……」
「突発的に人殺すくせに頭は回りますね」
ざくっ、と穴の底に鍬を突き刺し、騎士服姿に着替えていたランドルフは腰に手を当て、苛立ちをたっぷり乗せたため息を吐いた。それから鍬を穴の外に放り出し、自身も上がって司祭の体を穴の底に落とす。仕事の早い男である。
「土をかけるのは手伝ってください。掘るほどには力が要らない」
「寒くて力が入らないのに?」
「……手のひらをこちらに。御身に流れる血は存外温かいと思い知らせて差し上げます」
ピオニーは「野蛮……」と泣きべそをかきながら、綺麗な手で農具を握り、粛々と司祭埋めに従事した。とはいえ本当に力が入らないのか、もともと非力なのか、ほとんど役には立たなかったので、結局ランドルフがせっせと働いた。
ランドルフは思う。寝室に漂っていた妙に甘ったるい香料は、腐臭隠しのためだろうと。
暖炉に火が入っていなかったのも、腐敗を少しでも遅らせるため。
狡猾さに思わず呻き声が漏れた。少しでも発見のタイミングを遅らせようとしていたピオニー・クラビニエット。罪を贖う気などまったくない。
寝室に入った途端、背筋に寒気も走るわけだ。
「きゃっ、ミミズ! え~んもうヤダ~お姉さま~」
土と共に死体を食らうそのミミズの方が、この女よりよほど善良に作られていると、ランドルフは確信していた。
ようやくすべてが終わったのは、日付を越え、あと数刻もすれば朝日も登ろうかという頃だった。
埋めてならした地面を前に、鍬に寄りかかり肩で息をしながら、ランドルフはひとまずこんなものだろうと額の汗をぬぐい思案した。
どうしたものか。土が柔らかいのは懸念事項だ。
近いうちに、ここに何か建ててしまおう。なんでもいい。結婚記念の植樹でも、石碑でも。一番いいのは皮肉だが墓だ。墓石があれば、誰も掘り起こさないから。
ここに埋めるのにちょうどいい人員は、誰かいなかっただろうか。頭が冷えたら、何かいい案が――。
疲れた頭で、黒魔術より物騒なことについて真剣に考えながら、ランドルフは襟ぐりを寛げて熱気を冷まそうとする。それを見て、鼻をすするピオニーはぽつりと呟いた。
「なんか、ひとりだけ暖かそうですわね……」
それは呪文だった。
男の中の、堪忍袋の緒を軽やかに切る、鋏のように鋭利な呪文。
――泥だらけの手が、ピオニーの冷え切ったおとがいをわし掴む。小さな顔は抗う暇もなく引き寄せられた。
唇の奥で息を呑む音がした。同時に、翠緑の目が驚きに見開かれる。顎を起点に宙づりになりかねない体制で口づけられたことに、言葉も呼吸も封じられたことに、すぐには気づけないようだった。
「……ピオニー・クラビニエット」
ようやく離れた唇には、どちらともなく血がついていた。無防備に口を開けていた令嬢の歯が、男の唇に当たったのだ。
それを拭いもせずに、地獄の底をさらうような低い声が、夜明け前の闇を打つ。
女は凍りついていた。この夜初めて、ピオニー・クラビニエットの顔に、目の前の男への緊張が宿っていた。当然、唇についた血に構う余裕はない。
「な、なに……」
「俺たちは夫婦だ。いかなる時も愛し、支え、貞節を守る――『死が二人を分かつまで』? ばかばかしい」
嘲りを含んだ語尾と共に、小さな顎の骨が軋んだ。ピオニーは悪魔を前にしたようにがたがたと震え、青い顔で身を引こうとしたが、ランドルフは逃亡を許さない。
「き、騎士様……」
二年前から変わらない呼び方に、ランドルフの手にさらなる力がこもる。
白い肌。小さな顎。翠緑の瞳に金のまつげ。自分を狂わせた運命の日と何一つ変わらない、可憐な美しさ。
己のすべてをかけて手に入れた女へ、ランドルフは捕らえた敵兵を拷問するときのような声を差し向ける。
「犯した罪も二人のもの。死してなお、我らの魂が同じ地獄に行きつくことを、もちろん誓うだろうな?」
限りなく殺意に近い気迫を前に、哀れなピオニーを守るのは、薄い寝間着とガウンのみ。
大声を出せば誰かに助けてもらえるはずの自分の邸宅は目と鼻の先。しかし、ピオニーはそれを選べない。
――怯える余地すら奪われた新婦は、この日一番謙虚で真摯な、心からの言葉を差し出した。
「…………ち、ちかいます…………」
新郎の唇の端が吊り上がる。
土の下の司祭の前で、二度目となる誓いの口づけが交わされたのだった。
人目を避けるために、新郎新婦は宴会場から遠い窓を頼りに、屋敷に戻ろうとしていた。
あらゆる意味で震え、すっかり大人しくなった妻の体を抱えて木に登り、ランドルフはバルコニーに降り立つ。そのとき、ふと胸の内に湧いた黒い疑念を口にした。
「一つ確認しますけど、黒魔術に乗じて処女まで失ってないでしょうね」
すると、指示されるままに夫の首にしがみついていたピオニーはきょとんとし、次には頬を真っ赤に染め、それまでの怯え切った様子を消してきっと眉を吊り上げた。
「いやだ、あなたは結婚前の姦通を神がお許しにならないことをご存じありませんの?」
「……これは失礼を。ところでピオニー、神は黒魔術を行うことも、それを指摘した人間を殺すことも許してないとはご存知でしたか?」
妻をバルコニーに下ろしながら乾いた声で呟いたランドルフの口内に、自分の血の味が広がった。
それで唐突に理解した。この夜は、この身の血をいけにえに、この美しい悪魔を呼び出してしまったのだと。
司祭殺しの悪魔を妻に持ち、その罪の隠ぺいに付き合わされた自分は一生この秘密を抱えて生きることになる。今までさんざん人に言えない謀略を巡らせはしたが、ここまでのことはまだしていなかったのに。
これからを思い、ランドルフは苦いものが胸に広がるのを感じた。いまだ騒がしい宴会場の人間たちに気取られぬよう、細心の注意を払って寝室へ戻る自分たちのなんと浅ましく愚かしいことか。
「……あの。わたくし、あなたに迷惑をかけてしまったことをとても申し訳なく思っていますの」
背中にかけられた謝罪に、廊下を進んでいたランドルフは振り返る。
ピオニーは殊勝な様子で夫の反応を窺っていた。
「……いいですよ、今さらですから」
疲れていたランドルフは、自分がそっけない言葉ながらも声音自体は和らげていたことに気が付かなかった。だからほっとしたように眉の力を抜いたピオニーを見て、反射的にかわいいなと思ってしまう。
――そう、どうせ今さらだ。
もとからこの身は地獄行き。それは、今夜よりずっと前から決まっていた。
そう思えば、むしろ彼女が罪深い女でいてくれてよかった。
生きている限り一緒にいられると思って手を伸ばした妻は、死後も同じ地獄で裁かれる。あの日からここに至るまで苦労したのだ。死ごときで別れさせられてたまるものか。
――いやでも手を下したのは妻の方だし、さすがに同罪ではないのでは? と、胸の内の悪あがきを隠したランドルフが寝室の扉の前で立ち止まると、ピオニーも横に並ぶ。
「でも、これでおあいこです。先にわたくしから王太子殿下を遠ざけたのはそちらですもの」
扉の取っ手に手を置いたランドルフは一瞬固まり、それから苦笑いとともに息を吐いた。
「……気づいていたんですか。ご自身の兄上や姉上のこと」
「え? お兄さまとお姉さまが何?」
「違うのかよ忘れてください気のせいです」
聡いようでそうでもない妻にいらぬ弱みを握らせる必要はない。唇を引き結んでゆっくり扉を開けるランドルフの耳朶に、どこか呑気な、囁くような妻の声がかけられる。――そりゃ部屋から死体がなくなれば、多少は呑気にもなるだろうが。
「お忘れですか? 二年前、わたくしがせっかく置いておいた帽子を持ってきてしまったときのこと。いつもあの時間、王太子殿下は中庭を通るから、自然にお話しするチャンスでしたのに三日連続で邪魔をなさって」
「あれわざとだったんですか」
親切心で届けた帽子が他の男へあてた罠だったと聞かされても、今さら動揺しない。帽子の下に聖職者の首がくっついてなくてよかったと思うぐらいだ。――いっそ自分こそ、あの帽子に気が付かなければよかったのに。
開けた扉の中に誰もいないのを確認したランドルフが、ピオニーに先に中に入るよう促す。ピオニーはつつましやかな動きで、しかしエスコートを素直に受ける。
「……でもこの結婚、かえってよかった気がします」
ランドルフが息を詰めたのも知らずに、ピオニーはほうっと息を吐いた。
「夫が騎士でなければ、今夜は助けていただけなかったかもしれませんもの」
火の気のない寝室を数歩進んで、女は立ち止まる。
廊下から届く照明の光と、窓からにじむ夜明け前の薄明かり。そのどちらも届かないちょうど真ん中、一番暗い場所から、翠緑の目が夫を見上げていた。
「ありがとうございます、ランドルフ様」
爛々と輝く魅了の瞳は、まるで魔女のそれのよう。
ランドルフは、無言でそれを見返して、それから力なく唇の端を上げた。諦念の笑みだった。
あーあ。
その響きを、あの時、あの唇から聞けていたら。
三度目の名乗りをしたあの日に、無関心な声で構わないから、自分の名を呼んでもらえていたら。
――そうしたらきっと、こんな最低な夜は訪れなかったに違いないのに。
宴会場の喧騒を背に、ランドルフは後ろ手で扉を閉める。
ややあって、鍵の閉まる音がした。
それから二分後、閉じたばかりの扉から「クソ、焼却炉どこだよ…!」と吐き捨てながら、注射器と血文字で汚れた羊皮紙を握りしめた新郎が出てくるのであった。
***
――死後、ランドルフは、燃え盛る地獄の門の内側で件の司祭と再会した。
「いや~前から目をつけていたピオニー様が、まさか本当に黒魔術を行っていたとは。めざとい長女や長兄がいなくなるのを待つまでもなく、もっと早くにかまをかけていればよかったものですな~~~」
しみじみと語るこの聖職者が、かつてピオニーの黒魔術を見破ったわけでもなんでもなく、ただ結婚直前の美しい令嬢に言いがかりをつけて無体を強いようとした外道(未遂)だったと知ったランドルフは、新婚初夜以降の悪夢で散々見たその顔を無言で殴り倒した。罪悪感を返せと言う声は恨みで震えていた。
「まぁ、ランドルフったら。突発的な暴力は何も生みませんことよ」
馬乗りになって殴る男の傍らには、彼が健やかなるときも病めるときもいかなる苦労を強いられたときも愛し抜いてしまった妻がいた。あの日と変わらず、何の悪意もない無垢な様子で佇んでいるのであった。
おしまい
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。