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侯爵令嬢はバカ王子にさっさと婚約破棄されて、有能執事と結婚します

侯爵令嬢はバカ王子にさっさと婚約破棄されて、有能執事と結婚します〜「お嬢様、お任せください。そのような未来は私が断じて来させません」

作者: 源あおい

連載版始めました!


約12万文字で完結まで書き上げてあります。

よろしければ下記リンク先をご覧ください。

https://ncode.syosetu.com/n7993la/


あとがきにもリンクをつけてあります。

「ヴィオレット、そなたとの婚約は破棄する!」

 

 その冷酷な声は、凍てつく冬の嵐のように、豪華絢爛な王立学園大広間を冷え切らせた。


 その凍りついたような空気の中、眩いばかりの光を放つ、幾重にも連なる大きなシャンデリアの下に立つのは、十五歳を迎えたばかりの侯爵令嬢ヴィオレット・ボーフォールだった。

  

 隣に立つ婚約者、ロワナール王国第一王子オーギュスタンの口から出た信じがたい言葉に、ヴィオレットは息をのむほどの衝撃を受けた。


 今宵は、王国中の名だたる貴族たちが、年に一度集う、華やかで盛大な舞踏会だ。

 

 絹擦れの音、煌めくクリスタルグラスが優雅に触れ合うたびに響く、鈴のように澄んだ音。そして甘美でいながらどこか憂いを帯びたワルツの旋律が、祝祭の夜を優しく、情熱的に彩る。


 モスグリーンの上質なシルクの夜会服を(まと)い、艶やかな深紫色の髪を丁寧に編み上げたヴィオレットは、銀色の髪飾りがシャンデリアの光を受けて輝いていた。希望に満ちた彼女の姿は、まさに今宵の舞踏会の主役となるはずだった。


 未来への期待に胸を膨らませていたヴィオレットは、紫水晶(アメジスト)のごとき輝きを宿す(すみれ)色の瞳を大きく見開き、目の前の婚約者をただ茫然と見つめていた。


 周囲の喧騒は、ヴィオレットにとって遥か彼方の出来事のように、現実感を失っていた。


 まるで濃密な霧に包まれ、五感が麻痺したかのように、一体何が起こっているのか事態が全く飲み込めなかった。ヴィオレットは美しい唇を小刻みに震わせながら、今にも消え入りそうな、か細い声で問いかけた。

 

「殿下……? いったい、どういう事でございましょうか?」

 

 ヴィオレットの心臓は、激しい嵐に翻弄される小舟のように、激しく、そして頼りなく脈打っていた。冷たい汗が、背中をゆっくりと伝っていくのを感じた。

 

 オーギュスタンの太陽光を閉じ込めたかのような金色の瞳には、いつもの優しい光は微塵もない。底知れぬ冷酷な光は、獲物を定める猛獣の眼光さながらに禍々しい。

  

「今更、白を切るつもりか! 他家の令嬢に毒を盛るなど、貴様の犯した罪は、もはや決して許されるものではない!」

 

 オーギュスタンの声は、先程まで見せていた柔らかな王子としての仮面をかなぐり捨て、冷酷な断罪者の響きを帯びる。身に覚えのない罪状が、矢継ぎ早にヴィオレットに突き付けられる。


 周囲の貴族たちの間に、静かに、しかし確実に、波紋が広がるように驚愕と困惑、そして隠しきれない好奇のざわめきが広がっていった。


 誰もが息を呑み、世界から色彩が失われたかのように、この信じられない光景に目を凝らしていた。中には、面白おかしいとばかりに、嘲笑を隠そうともしない者もいた。


 ヴィオレットは、華やかな舞踏会という舞台で、ただ一人、世界から見捨てられたような深い孤独に苛まれた。これまで大切に築き上げてきた侯爵令嬢としての誇りが、脆くも音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。

 

 会場に飾られた希望の象徴であるはずのリュミエールの花は、不吉な影に侵食され、ヴィオレットの瞳に映るその色は、淀んだ黒へと沈んでいた。

 

 更にオーギュスタンは、残酷な言葉をヴィオレットに突きつける。


「その罪深き行いを断罪する! そなたには、死罪を申し渡す!」

 

 その言葉に未来の国王としての威厳はなく、ただ冷酷で傲慢な悪意だけがむき出しになっていた。オーギュスタンの口元には、歪んだ笑みが浮かぶ。

   

 あっという間に裁きは終わり、いくら無実を訴えても全く聞き入れてもらえなかった。それでもなお無実であることを訴えると、ならば神の裁きで判定するべし、と、有無を言わさず神殿へと連れて行かれた。

 

 暗く冷たい神殿の中、神前裁判の壇上に一人立つヴィオレット。周囲には見慣れた貴族たちの顔。しかし、彼らの瞳には、好奇の色、そして冷酷な嘲りの色が醜く浮かんでいる。


 厳かな神官の声が響き渡り、身に覚えのないおぞましい罪状が読み上げられる。そして、ヴィオレットの目の前に、銀色の光を鈍く放つ毒杯が差し出される。


 震えるか細い手で、運命を受け入れるかのように毒杯を受け取る。一口喉を通すと、たちまち焼け付くような激痛が全身を駆け巡った。


 ヴィオレットは苦悶の表情を浮かべ、床に倒れ伏した。身に覚えのない罪状、嘲笑する人々の冷たい顔、そして、決して逃れることのできない、残酷な死の宣告……

 





 

「いやぁああああ!」

 

 喉が張り裂けるような悲鳴と共に、ヴィオレットは現実に引き戻された。


 心臓が激しく鼓動し、全身を冷たい汗が覆っている。恐怖に全身を貫かれ、まるで悪夢から逃れるように、勢いよく自室の豪華な天蓋付きベッドから飛び起きた。荒い息遣いはなかなか落ち着かず、肩が小刻みに震えている。


 十歳を迎えたばかりの夜。先程まで夢の中で体験した華やかで残酷な舞踏会の記憶は、悪夢の残滓となって幼い心臓を激しく、そして容赦なく打ち付けている。


 絹のように滑らかな深紫色の髪は、寝汗で額や首筋に張り付く。まるで冷たい蛇が這っているかのような不快な感触が、より一層夢を現実のように思わせた。


 胸を締め付ける強烈な不安感は、夢の鮮明さゆえだろうか。


(あの光景が、いつか本当に起こってしまうとしたら……)


 夢の中で見た、十五歳の自分自身が鮮明に思い出される。あの時感じた底なしの絶望と骨まで凍り付くような恐怖が、幼い胸に深くそして重く刻まれた。


 ヴィオレットの菫色の瞳は、まだ夢の残像を映しているかのように、深い絶望の色を湛えていた。





 ◇◇◇◇◇





 朝の光を吸い込んだ紫水晶(アメジスト)のブローチが胸元で輝き、その輝きを見つめるヴィオレットの心は、十歳の誕生日を迎えた今日への期待で高鳴っていた。

 

 ロワナール王国第一王子オーギュスタン殿下との婚約式。王宮の祝宴の間は、朝から夢のように華やいでいた。


 シャンデリアの眩い光が磨かれた床に反射し、色とりどりの花々が甘い香りを放つ中、集まった貴族たちの笑顔が溢れていた。


 小さなヴィオレットの胸は、喜びと、初めての経験にほんの少しの緊張を覚え、ドキドキしていた。隣の第一王子の横顔をそっと窺うと、満足そうな、どこか誇らしげな表情をしていた。

 

(オーギュスタン殿下も、この婚約を喜んでくださっているのね……ほんの少しでも、わたくしのことを好いてくださると嬉しいのだけれど。)

 

  二人で並び、フィリップ国王陛下の温かい笑顔と、イザベル王妃殿下の優しい微笑みに迎えられ、ヴィオレットはそっと胸をなでおろした。

  

 温かい拍手が祝宴の間を満たし、ヴィオレットの心は、きらきらと輝く未来への希望でいっぱいになった。


 昼食会では、両親であるボーフォール侯爵アルマンと、優雅な侯爵夫人セレスティーヌが、晴れやかな娘の姿を誇らしげに見守っていた。その温かい眼差しに、ヴィオレットは心からの幸せを感じていた。


 友人たちの可愛らしい「おめでとう」の声が響き、ヴィオレットは今日がかけがえのない特別な一日になるだろうと心から信じていた。


 婚約式のために王家から貸し出された、胸元で陽光を受けて煌めく紫水晶のブローチに、そっと手を添えた。


(このブローチを身に着けたわたくしの姿、殿下はお気に召してくださるかしら……綺麗でしょう?)


 それは、先王妃マティルド様が大切にされていたという、由緒ある王家の宝物。陽光を浴びた紫水晶は奥底から光を放ち、ヴィオレットは思わず目を奪われた。 




 ◇◇◇◇◇

 


 

 昼間の喧騒が嘘のように、深夜のヴィオレットの寝室は、しん、と静まり返っていた。


 広々とした豪華な内装で、窓からは柔らかな月光が差し込み、部屋を淡く照らしている。天蓋付きの寝台には、美しい刺繍が施された上質な寝具が置かれ、小さな令嬢を優しく包み込むようだった。

 

 しかし、広々とした寝台の中で、ヴィオレットは小さく身を縮こまらせていた。昼間の笑顔は消え、(すみれ)色の瞳には、底知れない恐怖が宿っていた。

 

 夢に見た華やかな舞踏会。シャンデリアの眩い光の下で、婚約者オーギュスタン殿下から突きつけられた冷酷な言葉が、まるで耳元で囁かれるように、何度も繰り返された。


「ヴィオレット、そなたとの婚約は破棄する! そして、その罪深き行いを断罪する!」


(あんなに優しかった殿下が、なぜ……? 

わたくしは、殿下の嫌うことをしたのかしら?

……嫌われたくない。もっと、好かれたいのに……)

 

 婚約破棄という言葉の衝撃以上に、ヴィオレットの幼い心を深く蝕んだのは、自らの最期だった。


 暗く冷たい神殿。冷たい石畳の感触。毒杯を掲げ、苦痛に顔を歪め倒れていく自分。喉が焼け付く痛み、全身を駆け巡る苦悶。冷笑する貴族たちの顔。逃れられない死の宣告が重くのしかかった。


 ただ息をするのさえ苦しく、心臓は喉元まで跳ね上がるように激しく鼓動する。額には嫌な汗が滲み、あの夢の景色が脳裏に焼き付いて離れない。拭えない嫌な予感が、小さな胸を締め付ける。 

 

 疲れ果てた小さな体は、温かい眠りを切実に求めていた。けれど、ヴィオレットの心は張り詰めていた。目を閉じれば、あの恐ろしい光景が再び現れるのではないかという強い不安に襲われ、なかなか寝付くことができない。 

 

 恐怖は幼い心を掴んで離さない。

 

(殿下に、こんな酷い目に遭わされるなんて……どうして……?)


 やがて、まどろみ始める。しかし、安らかな眠りはほんの一瞬で途切れた。


 あの神殿の光景が、再び容赦なくヴィオレットを襲う。今度は、冷笑する無表情な神官が差し出す毒杯が、より大きく迫ってくる。喉を焼く苦い毒の味。意識が遠のくような恐怖感。


 それは現実と区別のつかない感覚で、ヴィオレットの体は震えた。

 

「いや……!」


 ヴィオレットは悲鳴のようなうめき声を上げ、勢いよく跳ね起きた。額には冷たい汗が滲み、心臓は激しく鼓動していた。部屋は静寂に包まれ、聞こえるのは自分の荒い呼吸音だけだった。


 夢と現実の区別がつかず、しばらくの間、自分がどこにいるのかさえ分からなかった。けれど、見慣れた自室の様子に、ようやく恐ろしい夢から覚めたのだと理解する。


 それでも、夢の中で味わった生々しい恐怖は、彼女の幼い心に深く刻まれていた。


(どうすれば、殿下に好かれるようになるのだろう……いつか殿下の妃となる身なのに、こんなにも嫌われてしまったら、わたくしはどうなってしまうのだろう……)

 

 ヴィオレットは、自分が一体どうなってしまったのか、誰かに助けを求めたいと、切実に願った。けれど、王家に絶対的な忠誠を誓う両親を心配させたくない。打ち明ければ、その内容の重大さに叱られてしまうかもしれない。


 侍女に話しても、ただの怖い夢だと笑われるだろう。「お相手は王子様なのですよ」と、諭される情景が目に浮かぶ。

 

 今日、昼間にはあんなにも優しかった第一王子に、冷酷な言葉を浴びせられた衝撃は大きかった。もし、あの光景が本当に未来なのだとしたら……

 

(殿下に嫌われたら、わたくしはどうなってしまうの……? ボーフォール侯爵家の令嬢として、王太子殿下に嫌われるなど、あってはならないことだわ……)

 

 誰かに話したところで、信じてもらえるはずもない。自分の気持ちを上手く言葉にできず、感情を表に出すのが苦手なことが、ますます誰にも頼れない状況を作り出しているように感じられた。


 誰にも打ち明けられず、ヴィオレットは孤独な恐怖に耐えるしかなかった。自分の身にこれから一体何が起こるのだろうか。あの鮮明な夢は、本当に遠い未来なのだろうか……? そう考えると、不安で押しつぶされそうになる。

 

(殿下に、もっと笑顔を見せていればよかったのかしら……)


 殿下の冷たい言葉は、幼いヴィオレットにとって、まるで未来を閉ざす鉄の扉のように、重くのしかかるようだった。


 華やかな舞踏会、冷酷な婚約破棄、残酷な死の宣告。同じ光景が何度も頭の中で繰り返され、幼いヴィオレットの心を少しずつ蝕んでいく。

 

 恐怖と孤独が、幼い心を締め付けるばかりだった。

 

 広々とした寝台の中で膝を抱え、ヴィオレットは小さく震えていた。菫色の瞳から静かに涙が溢れ出し、美しい刺繍が施された上質な寝具を濡らしていく。その涙は、誰にも気づかれることなく、夜の闇に吸い込まれていった。

 

 


 


  

 婚約式から三日が過ぎ、ヴィオレットは生気を失い、菫色の瞳は光を失ったようだった。重い倦怠感に囚われた体は、朝食も、趣味の読書さえも拒絶する。


 午後の陽光は、ヴィオレットの意識を悪夢の残像へと引きずり込む。夜の訪れは恐怖で塗りつぶされ、目を閉じれば、冷たい石畳と毒杯の記憶が蘇る。

 

 せめてもの慰めにと、庭園のリュミエールの花畑へ向かったヴィオレットは、一人佇んでいた。少し離れた場所には、付き従う専属執事レオンの姿があった。彼はそっとヴィオレットを見守り、その表情には明らかな心配の色が浮かんでいた。

 

 



 ◇◇◇◇◇


(レオン視点)



 婚約式から三日。誰もが祝賀ムードに包まれている中、レオンの仕えるヴィオレットお嬢様だけが、日に日に生気を失っていく。あの日の華やかな笑顔が嘘のようだ。


 紫水晶(アメジスト)のような輝きを持つ(すみれ)色の瞳は静かな憂いを宿し、光を失っている。


 お嬢様の専属侍女たちに尋ねても、皆、首を横に振るばかり。ただ塞ぎ込み、何も語ろうとされないと聞かされた。

 

 そんなお嬢様の異変を、専属執事のレオンは誰よりも早く察知していた。

 

 月光を掬い上げたような白銀の髪を持つ青年。吸い込まれそうな瑠璃色の瞳には、常に憂いを帯びた陰影が宿る。


 整った顔立ちに、黒曜石のような光沢を放つ漆黒の執事服を完璧に着こなし、彫刻のように凛とした佇まいだ。

 

 完璧主義のレオンにとって、主であるヴィオレットお嬢様の不調は自身の責任を痛感させ、静かに良心を苛む。

 

 午後の庭園。リュミエールの花畑前の東屋に、一人佇むお嬢様の放心した姿を見た時、レオンの胸には言いようのない不安が広がった。


 甘く優しい芳香が漂う中、リュミエールの花弁は美しいグラデーションを描いていた。中心の鮮やかなピンクから始まって、外側は光を帯びた白へと移り変わり、陽光を浴びて温かい光を溢れさせている。

 

 普段なら、その幻想的な美しさに目を輝かせ、小さな手を伸ばすはずのお嬢様の菫色の瞳は、目の前の花ではなく、遥か遠い何かを見つめているようだった。

 

 音もなく自然に傍らに近づき、レオンは静かに声をかけた。


「お嬢様、このような美しい場所で、何をなさっていらっしゃいますか?  少しお疲れのご様子ですね……」


 ゆっくりと振り返ったヴィオレットお嬢様の瞳には、深い悲しみが沈んでいる。


「……はい……少し、疲れてしまいました」


 その声は、まるで小さな囁きのように弱々しい。聡明でしっかりとした普段のお嬢様からは想像もできないほど、頼りない響きだった。


 静寂に包まれた東屋は、一人物思いに耽るには最適の場所。木漏れ日が幼い令嬢の頬を優しく照らし、そよ風がリュミエールの花穂を揺らす。


 レオンは心配そうに眉をひそめ、この静けさの中で、少しでもお嬢様の心が休まればと、心から願った。


「もし、私にお話できることがございましたら、どうか遠慮なさらずにお聞かせください。お嬢様の心に巣食う不安を、ほんの少しでも和らげることができれば、私にとって何よりの喜びです」



 

 ◇◇◇◇◇


(ヴィオレット視点)


 

 レオンの声は普段より低く、しかし確かな温かさを孕み、そっと語りかけてくる。ヴィオレットの繊細な心に寄り添うように。


 両親に話しても、きっと取り合ってはもらえないだろう。何よりも、ボーフォール侯爵家は王家への忠誠を第一としてきた。もし、この悪夢の内容が王家に関わることだと知れたら、両親はどう考えてしまうだろうか。


 侍女たちに話したところで、「おかしな夢を」と笑われるのは想像に難くない。けれど、レオンのあの静かで深い瑠璃色の瞳に見つめられていると、どんな秘密も打ち明けられるような、不思議な安心感に包まれるのだ。


 普段は感情を表に出さない彼だからこそ、この突飛な話を真剣に聞いてくれるかもしれない――そんな、小さな希望が、ヴィオレットの胸に灯った。 


 ヴィオレットは凍り付いたように沈黙していた。小さな唇を噛みしめ、不安げに両手を握りしめている。


 レオンの底なしの優しさを湛えた眼差しが、言葉を持たない励ましのように彼女の背中をそっと押した。

 

「レオン……実は、わたくし……あの、婚約式の夜に、とても恐ろしい夢を見たのです」


 震える声で、ヴィオレットは悪夢について語り始めた。昨日のことのように鮮明に蘇る、豪華絢爛な音楽、眩いシャンデリア。


 そして、婚約者であるオーギュスタン殿下からの、氷の刃のような冷たい婚約破棄の言葉。今も耳の奥で鮮やかに響く王子の声。

 

「……あんなに優しかった殿下が、どうしてあんな酷いことを……?」


 ヴィオレットの声は、今にも泣きだしそうに震えていた。


「わたくし、何か殿下のお気に召さないことをしてしまったのでしょうか? 未来の妃となるのに……嫌われたくない……ただ、少しでも、わたくしのことを見ていただきたい……それだけなのに……」


 こらえきれなくなった涙が、ぽろぽろと白い頬を伝い始める。


 何よりも忘れられないのは、暗く冷たい神殿での神前裁判だった。身に覚えのない断罪、そして銀色の光を鈍く放つ毒杯による毒殺という、あまりにも残酷な未来の光景が、菫色の瞳に焼き付いて離れない。


 慎重に言葉を選びながら、ヴィオレットはその全てをレオンに打ち明けた。普段、感情を表に出すことのないヴィオレットにとって、この誰にも言えなかった恐怖を言葉にするのは、想像を絶する勇気が必要だった。

  

 夢の中で味わった、無力感、周囲の貴族たちの冷酷な嘲笑、そして、すぐそこに迫る逃れられない死の恐怖。それらの感情が、ヴィオレットを深く苦しめた。堰を切ったように感情が溢れ出し、大粒の涙が白い頬を伝った。


 けれど、レオンの穏やかで優しい雰囲気が、春の陽光のように、彼女の固く閉ざされた心をゆっくりと解きほぐしていった。


 小さな体は震え、その言葉の端々には、幼いながらも未来への深い絶望が滲んでいた。


 レオンは何も言わず、そっと、壊れ物を扱うように優しい手つきでヴィオレットの華奢な背に手を添えた。

 

 掌から伝わる温かさが、冷え切った小さな手をじわじわと温めていく。その温もりは、ヴィオレットの不安な心を少しずつ和らげていった。その指先からは、言葉以上に雄弁な、安心感と揺るぎない守護の意志が静かに伝わってくる。


 しばらくの間、ヴィオレットは誰にも聞かれないように、静かに、しかし堪えきれないように泣き続けた。

 

 そして、ようやく落ち着きを取り戻すと、涙で赤く腫れた目で、レオンをじっと見つめた。


「レオン、わたくしの話を、信じてくれますか? こんな……子供が見る馬鹿げた夢の話を」


 迷うことなく、レオンは力強く頷いた。


「お嬢様のおっしゃることは、全て真実だと、わたくしは心から信じております。純粋で嘘偽りのないお嬢様が、そのような作り話をなさるとは到底思えません」


 その短い言葉には、揺るぎない絶対的な信頼が、確固たる信念として込められていた。レオンの透明な瑠璃色の瞳は、真摯な光を湛え、その温かい眼差しは、ヴィオレットの心に深く根を下ろした不安を、優しく包み込むようだった。


 レオンの力強い言葉に、ヴィオレットは安堵の息を漏らした。誰にも言えなかった心の奥底の恐怖を打ち明け、そして、目の前の執事に信じてもらえたことで、重く沈んでいた心は、ほんの少しだけ、しかし確かに軽くなった。


「ありがとうございます、レオン……」

 

 レオンは、ヴィオレットの小さく、か細い手をそっと握りしめた。


「お嬢様、どうか、私に全てをお任せください。そのような恐ろしい未来は、私が断じて来させません」


 レオンのその力強い言葉は、ヴィオレットの心に一筋の光を灯してくれた。まだ小さな光だが、彼となら、この悪夢のような未来を変えられるかもしれない。ヴィオレットは、彼に託そうと心に決めた。




 ◇◇◇◇◇


(レオン視点)



 ヴィオレットの告白を聞き終えたレオンの心の奥底に、痛みが一瞬走った。だが、それはすぐに鉄壁の理性によって押し留められ、代わりに研ぎ澄まされた冷徹な光が宿る。


 感情に浸る暇はない。幼い主の言葉を一語一句分析し、悪夢の未来を覆す戦略を静かに組み立て始めた。

 

 やがて、彼は静かに口を開いた。


「お嬢様、私は、お嬢様の見た未来を変えることを誓います。どのような困難が待ち受けていようとも、必ずや……」


 その声には、揺るぎない決意が込められていた。


「でも……どうすれば?  あの夢が頭から離れないのです……本当に、あんな恐ろしいことが……」


 ヴィオレットは、レオンの言葉を聞いても、まだ不安の色を残していた。華やかな舞踏会の光、冷酷な王子の言葉、そして何よりも、冷たい神殿で味わった絶望的な感覚――悪夢が、繰り返し蘇っていたのだ。無理はない。

 

 レオンは、ヴィオレットの小さな手を優しく握りしめた。


「お嬢様、未来は変えられます。私たちの行動一つ一つが、未来を織り上げていくのです。どうか、希望を失わないでください」

 

 レオンの言葉は、冷静な響きの中に温かさが溶け込んでいた。幼いヴィオレットは、その響きに、不安の色を和らげるかのように微かに表情を緩めた。


 レオンは悪夢の詳細を冷徹に分析した。婚約破棄、嘲笑と憐憫、極刑宣告。特に「毒」という言葉が彼の胸に重く沈み、奥底に眠る忌まわしい過去の記憶を呼び覚ます。喉の奥が焼け付くように乾き、幼い日の苦い記憶が蘇る。


(お嬢様には、あんな思いはさせない。)

 

「お嬢様、神前裁判で毒を飲まされるという悪夢は、決して見過ごせません。その夢の光景は重要なヒントとなります」


 そう言いながら、レオンは庭園の隅で陽光を受け黒く輝く月響草に視線をやった。月の満ち欠けに合わせて青の色合いが濃くなる、特別な草だ。

 

 微かな指先の震えを制して、彼は真剣な表情で続けて言った。


「もし、その未来が現実になる可能性があるのならば、今すぐ毒に対抗するための準備を始める必要があります」

 

 ヴィオレットは、その菫色の瞳を丸くして、彼を見つめた。


「準備……ですか?」

 

 レオンは、極刑を回避するための大胆な方策を提案する。


「お嬢様、もし未来で毒を飲むことになるのであれば、今からお嬢様の身体が、いかなる毒にも決して屈しない強靭さを手に入れれば良いのではないでしょうか」




 ◇◇◇◇◇


 (ヴィオレット視点)



 レオンの涼やかな瑠璃色の瞳には、冷静さの中に敵を打ち砕く獰猛な光が宿るようだった。

 

 彼の提案は突飛で、彼女は戸惑った表情でレオンを見つめ返した。毒が全く効かない身体になるなど、常識的に考えて本当に可能なのだろうか。


「毒ですよ!?  だって、みんな死んでしまうから毒って言うのですよね!?」


 まだ十歳のヴィオレットには、非現実的な発想だった。

 

「お嬢様、私には大胆な考えがございます。それは、お嬢様の身体を、ほんの少しずつ、しかし着実に毒に強くしていくという方法です」


 ヴィオレットは、予想もしなかった彼の提案に目を丸くする。


「毒に……強くする、のですか?」


 彼女の声には、強い驚きと、かすかな希望が混じっていた。


「そんなこと、本当にできるんですか? まるで、悪夢を別の悪夢で打ち消すみたいで……」

 

「はい、お嬢様。極めて微量の毒を段階的に摂取することで、身体はその毒に対する耐性を獲得できます。決して安全とは言えない方法ですが、もしお嬢様があの絶望的な未来を心から回避したいと強く願われるのであれば、試してみる価値は十分にあります」


 彼の言葉は確信を持った強いものだった。

 

 ヴィオレットは、レオンの提案に最初は抵抗を感じた。毒という恐ろしいものを自ら進んで飲むなど、考えたこともなかったからだ。


 しかし、彼の真剣な眼差しに心を奪われながらも、未来を変えられるなら試したいと強く思った。

 

 そう言えば、とヴィオレットは思い出す。


 幼い頃、ヴィオレットが食事よりもお菓子をもっと食べたいと駄々をこねていた時に、レオンが「お菓子を食べたかったらご自分で作れば良いじゃないですか」と、茶目っ気たっぷりにウインクしながら言ったのだ。


 そのおかげで、彼女は『味見』という大義名分を手に入れて、夢中になってお菓子を作っては食べた。


 そしていつの間にか、ヴィオレットは古い家柄の貴族家では淑女の嗜みとされている、リュミエールを用いたお菓子作りで目覚ましい腕前になったのだ。心が満たされたら、不思議とご飯もきちんと食べるようになっていた。


(あの時も突飛に感じたけれど、結果は良かったわ。レオンを……信じてみよう。)


 彼の言葉には、人を惹きつける力がある。彼はその時にリュミエールについても色々と教えてくれたし、そのリュミエールのお菓子は、少し口にしただけでも心が安らいだ。彼の瞳を見ていると、勇気が湧いてくる気がした。

 

「でも……本当にそんなことができるのですか? きっと、とても苦しいですよね……?」


 ヴィオレットの声には、不安が滲んでいた。


「ご心配には及びません、お嬢様。最初はごく微量から始めます。安全には最大限配慮してすすめてまいります。私が必ずおそばにて無事にやり遂げられるよう尽力いたしますので、ご安心ください。このレオンが、命に懸けて、必ずお嬢様をお守りいたします」

 

 レオンは、優しい微笑みを浮かべながら、ヴィオレットの小さな手をそっと握りしめた。その力強い言葉と手の温もりに、彼女の心に再び希望が灯った。彼の透明な瑠璃色の瞳は、強い光を宿して輝いていた。

 

「分かりました、レオン。私……やってみます。あんな恐ろしい未来は絶対に嫌です! 自分の未来は、自分で決めてみせます!」


 小さな体ながらも、ヴィオレットの菫色の瞳には、未来を変えようとする強い意志が宿っていた。

 

 彼は、その力強い眼差しに応えるように、深く頷いた。


「ありがとうございます、お嬢様。私を信じてくださるお気持ち、心より感謝申し上げます。それでは、早速その準備に取り掛かりましょう。まずは、侯爵様にご相談し、許可をいただく必要があります」


 侯爵に許可をとる、という一言に一瞬怯えを見せたヴィオレットに、レオンは穏やかな微笑みを向けた。


「ご心配には及びません。私が、必ず侯爵様にご理解いただけるよう説明いたします」

 

 その表情には、既に綿密な計画を元に、必ず侯爵を説得してみせるという自信が満ち溢れていた。





 ◇◇◇◇◇


 (レオン視点)



 その夜、レオンはボーフォール侯爵の執務室を訪れた。


 重厚な扉を丁寧にノックし、許可を得て中へ入ると、侯爵はすでに執務を終え、書斎の椅子に深く腰掛けていた。侯爵の顔には、一日の疲れが見て取れる。

 

「夜分に申し訳ございません、侯爵様」


 レオンは、恭しく頭を下げた。月光を閉じ込めたような白銀の髪が、静かに揺れる。

 

「構わんよ、レオン。何かあったのかね?」


 侯爵は、穏やかな声で問いかけた。娘の専属執事である彼のことは、その忠誠心と能力を高く評価していた。


「実は、お嬢様がご覧になった予知夢について、ご相談したいことがございます」


 レオンは、真剣な面持ちで切り出した。その瞳の奥には、静かながらも強い決意が宿っている。

 

「予知夢、とな? 詳しく聞かせてもらおうか」


 侯爵は、眉をひそめて問い質した。

 

 レオンは、ヴィオレットが見た悪夢の内容、特に神前裁判で毒殺されるという未来の可能性を慎重に侯爵に伝えた。感情的な表現を避け、事実のみを淡々と語ったが、その声音には、かすかながらも憂慮の色が滲んでいた。 

 

「なるほど……そのような夢をヴィオレットが。……まさか、愛しい娘がそんな恐ろしい夢を見ていたとは」


 侯爵は、深刻な表情で重々しく頷いた。


「それで、君は何か対策があるというのかね?」

 

「はい、侯爵様。私は、この予知夢が、リュミエールの『七つの奇跡』の一つ、『予言』によるものなのではないかと考えております」


 レオンは、静かに言った。

 

「もしそうであるならば、その未来は覆せないものではないはずです。お嬢様を救うためには、今から手を打つ必要があると存じます」

 

「リュミエールの奇跡……予言、か」


 侯爵は、顎に手を当て、深く思案した。リュミエールは、ソール教を信奉するこの国と、人々にとって特別な意味を持つ植物だ。その七つの奇跡は、人々の生活のあらゆる面に深く根付いており、信じられている。


「第四の奇跡、叡智の啓示、というわけか」


 レオンは深く頷いた。彼の真剣な眼差しと、ヴィオレットを思う必死の念が、侯爵の心を徐々に揺さぶり始めていた。


「ヴィオレットは、そんなにも恐ろしい夢に苦しめられていたのか。奇跡の体現者とは……父親として、喜ぶべきか悲しむべきか……」


 予知夢の事を認識した侯爵に、レオンが毒についても告げる。

  

「こちらをご覧ください。ガマテグスの毒です。非常に有名な猛毒であり、神前裁判でもこちらが使われるのではないかと思われます」


 レオンは懐から小さな小瓶を取り出し、躊躇なく蓋を開けて中の液体を呷った。侯爵は、目を丸くしてその様子を見守る。喉元が小さく上下しただけで、彼は、何事もなかったかのように平然と微笑んだ。


「このように、幼い頃から訓練をし、毒を克服してしまえば、身体は毒に耐性を得ることができます。訓練中は常に解毒薬を備え、決して焦らず段階を踏んで行います。古来より伝わる魔法の中には、免疫力を高め、より毒に強くなる方法もございます」


 レオンは、微量から始め徐々に量を増やし、常に体調を注意深く観察すると約束するなど、彼の知識と経験に基づく具体的な方法を説明した。この丁寧な説明は、毒耐性訓練の安全性を強調し、侯爵の不安を和らげようとした。


「今ご覧いただいたように、決して無謀な賭けではございません」

 

 侯爵は、娘の身を案じ、深く眉を顰めた。

 

「危険はないと断言できるのか?」

 

 その声には、父親としての切実な願いが込められている。

 

「完全に安全であるとは申し上げられません。しかし、最悪の未来を回避するためには、試みる価値のある方法だと信じております。わたくしが、必ずお嬢様をお守りいたします」


 レオンは、力強く答えた。

 

 侯爵は、しばらく沈黙した後、重い口を開いた。


「娘を頼む」


 その言葉には、レオンへの深い信頼と、娘の未来を託す父親の覚悟が込められている。


「ただし、この訓練は決して外部に漏らしてはならない。分かっているな?」

 

「承知いたしました、侯爵様。決して、口外いたしません」


 レオンは、固く誓った。

 



 ◇◇◇◇◇


 (ヴィオレット視点)



 翌日の午後、ヴィオレットは緊張した面持ちで屋敷の離れにある小さな書斎にレオンと共に向かった。普段はほとんど使われていないため、人目を気にせずに訓練を行うことができる。


 ヴィオレットの小さな手は、氷のように冷たく、わずかに震えている。


 レオンは、そんなヴィオレットの目を見て、優しく励ました。


「ご心配には及びません、お嬢様。私が常におそばにいます」

 

 レオンが用意したのは、ごく微量の、庭園にひっそりと自生する月響草(げっきょうそう)という植物由来の毒だった。それは、適切に扱えば体に害はなく、徐々に耐性を高める効果が期待できるものだった。


 レオンは、その毒の性質や、摂取することによる体の変化について、ヴィオレットに分かりやすく説明した。


「最初は、ほんのわずかな苦味を感じるかと思います」

 

 ヴィオレットは、覚悟を決めてレオンから差し出された小さなガラス瓶を手に取った。中には、朝露のようにきらめく、淡く青白い液体がほんの少し入っている。


 深呼吸を一つして、ヴィオレットはそれを口にした。ほんの数滴。だが、その瞬間、彼女の顔はすぐに歪んだ。舌の奥に広がる苦味が味覚を襲う。思わず顔をしかめるが、レオンの励ましに応え、涙目でなんとか飲み干した。

 

「いかがですか、お嬢様?  何か 異常な感覚はありますか?」


 レオンは、ヴィオレットの様子を注意深く観察しながら尋ねた。その瑠璃色の瞳は、彼女の顔色のわずかな変化も見逃さない。

 

「おえ……思ったよりも苦いです。騙しましたねレオン」


 ヴィオレットは、思った事を正直に告げた。体には特に変化は感じられない。普段は感情を表に出すのは苦手だが、この不快感は隠せない。

 

「あれ? 私は、慣れてしまっていたのか、ほんの少ししか苦いと思いませんが……香味野菜嫌いのお嬢様には新鮮な味でしたか」


 本心なのか、場を和ますための冗談なのか……レオンがとぼけた事を言っているが、時間が経つと少し胃がムカムカしてきた。

 

「それが、お嬢様の身体が毒に反応している証拠です。無理はなさらず、もし辛くなったらすぐに教えてください。解毒いたします。効果を上げる為に『生命活性(せいめいかっせい)』の魔法をお嬢様におかけ致します」


 そう言ってレオンが魔法を使い、光る掌をヴィオレットのお腹に当ててくれた。じんわりと体の中がぽかぽかしてくる。


(あ……なんだか日向ぼっこをしているみたいに気持ちが良いですね。)


「お辛くないですか?」

 

 問いかけるレオンの声は静かだが、その奥には確かな力と優しさが宿っている。


「もう大丈夫です」

 

 最初の訓練は、ほんの数滴の毒を摂取するだけで終わった。レオンは、ヴィオレットの顔色や脈拍を注意深く観察し、異常がないことを確認した。


 「今日はここまでです。よく頑張られました、お嬢様」


 レオンが労いの言葉をかけてくれた。その声には、いつもの完璧な執事としての仮面の下に隠された、優しい感情が確かに感じられた。

 

 その夜、ヴィオレットは、口の中の微かな苦味と共に、レオンの心配そうな、でもどこか期待に満ちた笑顔を思い出しながら、眠りについた。


(レオンを信じれば、きっと大丈夫。)


 微かな苦味が、未来を変えるための小さな決意を灯した。未来への期待と不安がないまぜになったような、不思議な感覚を抱きながら、深い眠りへと落ちていく。


 夜が明けるまで、連日の悪夢を見ることはなく、久しぶりに朝までぐっすりと眠ることが出来たのだった。





 次の日からも、ヴィオレットはレオンとの秘密の訓練に臨んだ。レオンは、彼女の顔色をつぶさに観察し、昨日の体調を考慮しながら、ほんのわずかな毒を慎重に増やしていった。

 

 ヴィオレットは、舌に残る苦さと、時折襲ってくる吐き気や眩暈に耐えた。


(また、この苦さが……でも、乗り越えてみせる。未来のために。)


 未来を変えるという強い意志が、十歳の小さな身体を支える力となっていた。彼女の瞳には決して諦めの光は宿らなかった。

 

 レオンは、ヴィオレットの食事にも気を配ってくれた。毒の苦みと甘い菓子の相性が悪いことを知っているのだろう。今日から、栄養価の高い旬の果実や、消化の良い軽い食事が用意されるようになった。


「お嬢様、本日は特に消化の良いものをお選びいたしました。体調はいかがでしょうか?」


「ありがとう、レオン。少しだるいけれど、大丈夫よ」

 

「お嬢様、本日の果物は、朝摘みの真っ赤に熟れた甘いフラエですよ」 

 

「ありがとうレオン。フラエは大好きだわ」


 ヴィオレットは微笑んで、その小さな紅い実を美味しそうに頬張る。


 時には、母から課せられた刺繍に取り組むヴィオレットの傍らで、レオンは歴史書を開いた。彼の心地よい声が静かな書斎に響き、訓練で疲れた彼女の心を優しく包み込む。


 それは、毒耐性訓練のために奪われた時間の補填としての、レオンによるスケジュール管理の一環だった。

 

 貴族令嬢としてだけでなく、妃教育も続いている。


 王宮から派遣された作法指南役の老女教師は厳しく、王族としての振る舞いや言葉遣いをヴィオレットに教え込んだ。


 時折、その厳しさに心が折れそうになるけれど、そんな時、いつもレオンがさりげなく優しい言葉をかけてくれる。その一言が、彼女の幼い心をそっと支えてくれた。


 毒耐性訓練を続けるうちに、ヴィオレットは驚くほど早く毒の苦味に慣れていった。最初はほんの数滴でさえ辛かったのに、今はほんの少しなら、平気になったように感じる。


(本当に、慣れてきたんだわ。このまま続ければ、きっと……)

  

 その小さな成長は、何よりも大きな励みとなった。

 

 内心では確かな達成感を感じ、ふとした瞬間に、そっと笑みをこぼすこともあった。


 その姿をレオンに見つかり、ほほ笑み返される事もある。


「お嬢様、何か楽しいことをお考えでいらっしゃいますか?」


「ええ、まあね。」


 そんな時に見せる彼の微笑みは、いつもよりどこか優しく見えた。その笑顔を見るたび、ヴィオレットの心も温かくなるのを感じた。

 

 訓練の合間、レオンは今飲んでいる毒――月の満ち欠けで性質が変わるという不思議な月響草(げっきょうそう)について、丁寧に教えてくれた。他にも、様々な毒物や薬草に関する深い知識、そしてもしもの時の対処法まで、分かりやすく説明してくれる。

 

 ヴィオレットは、レオンの教えを熱心に聞き入り、丁寧にメモを取った。


 レオンと二人で困難を乗り越えようとするうちに、言葉にしなくても分かり合えるような、固い絆が育まれているのを感じた。それは、未来を変えようとする幼い自分と、いつも真剣に向き合ってくれる彼との、特別な時間だった。




 


 

 ある夜、ヴィオレットは再び悪夢に囚われた。


 豪華絢爛な舞踏会の喧騒、第一王子オーギュスタンによる婚約破棄宣言と断罪。嘲笑する貴族たちの冷たい視線、そして最後に喉を締め付けるような絶望と共に訪れる毒殺の未来――

  

 夢の中で、ヴィオレットは神前裁判の壇上に一人立っていた。周囲には、息を呑むほど絢爛な装飾が施された神殿の内部空間が広がっている。


 以前の夢と寸分変わらず、対面の壇上には神官と、威圧的な表情の第一王子が立ち、彼女を射抜くような鋭い眼差しで糾弾している。


 厳かな神官の声が響き渡り、身に覚えのないおぞましい罪状が読み上げられる。


 周囲の貴族たちの嘲弄を含んだ囁きが、まるで無数の針がヴィオレットを刺すかのように耳に届く。


 胸を締め付けるような恐怖は、以前と変わらず彼女を襲い、言いようのない不安感にヴィオレットは小さく息を呑んだ。

 

 そして、ついに運命の瞬間が訪れる。神官が無表情で差し出したのは、あの忌まわしい毒の入った銀の杯。

 

 しかし、ヴィオレットは不思議なほど冷静だった。心臓は激しく鼓動するものの、全身を支配するようなパニックは感じられない。


 ヴィオレットは、これまでレオンと共に秘密裏に行ってきた、決して楽ではなかった毒耐性訓練の日々を鮮明に思い出す。その思い出の数々が彼女の背中を力強く押す。

 

 意を決して、ヴィオレットは震える手で杯を受け取った。ひんやりとした銀杯の冷たい感触が、熱い手のひらに伝わる。


 ゆっくりと、ヴィオレットは杯を自身の口元へと運んだ。鼻腔を刺激する独特の苦い匂いは、これまで訓練で何度も経験したものと似ている。


 恐る恐る唇をつけると、舌の上には、もはや慣れ親しんだ苦味が広がる。液体が喉を通っていく感覚は、喉が焼け付くような激痛とは、明らかに異なっていた。


 喉の奥に、少しの痛みと違和感が残るだけだ。

 

 毒を全て飲み干した後も、ヴィオレットは意識を失わず、自分の足でしっかりと立っていた。


 周囲の貴族たちは、その信じられない光景に息を呑み、静寂を破りざわめき始める。


 オーギュスタンは、目の前で幽霊でも見たかのような、信じられないといった表情で、ヴィオレットを凝視している。


 第一王子の自信に満ち溢れた尊大な表情は消え失せ、深い困惑の色が浮かんでいる。

 

 時間が経つにつれて、ヴィオレットは体のだるさを感じてきた。


 目の前の光景を遠くの景色を見ているように感じ、手足の先が痺れ、意識がふっと遠のきそうになる瞬間もあった。


 しかし、以前の悪夢で感じたような、内臓が引き裂かれるような激しい苦痛は、最後まで彼女を襲うことはなかった。


 そして、静寂の後、神官が改めて神託を伺うと、厳かな、まるで天からの声のように、ヴィオレットは無罪であるという、結果が告げられた。


 ヴィオレットは、大きく、そして心から安堵の息をついた。


 


 


 ヴィオレットは、そこでハッと、目を覚ました。心臓はドキドキと激しく高鳴っているが、以前のように悪夢の残像に引きずられるような、鉛のように重い感覚はない。


 むしろ、夢の中で最後に感じた、微かながらも確かな希望の光が、彼女の胸の奥で、まるで小さな太陽のように温かく燃えている。


 まだ薄暗い部屋の中で、彼女はそっと自分の胸に手を当て、確かにそこに、未来を変えることができるかもしれないという希望があることを確認した。

 

 夜が明け始めたばかりの、薄い藍色の光が、窓から静かに差し込む中、ヴィオレットは、いてもたってもいられず、寝間着の上に一枚、お気に入りの柔らかなローブを羽織ると、寝室を飛び出した。


 廊下を駆け抜け、向かう先は、いつも彼女の傍にいてくれる、執事レオンの部屋。


 扉をノックしてレオンを呼ぶと、すぐに廊下に出て来たレオンに対して、堰を切ったように興奮した様子で、見たばかりの夢の内容を語り始めた。

 

「レオン!  レオン!  あの夢が……変わったんです!」

 

 レオンは、普段は冷静沈着なヴィオレットの興奮した様子に、すぐに何か特別な、彼女にとって喜ばしいことがあったのだと察した。


「お嬢様、どうされましたか?  このような時間に……」

 

 ヴィオレットは、待ちきれないといった様子で、身振り手振りを交えながら、見たばかりの夢の内容を、まるで宝物を見つけたかのように語り始めた。


「 あの夢が……変わったんです!  神前裁判で、わたくし、毒を飲んだのに、少し苦しいだけだったんです!  無罪になったんです!」

 

 ヴィオレットの紫水晶(アメジスト)のように輝く(すみれ)色の瞳は、喜びと興奮で溢れている。


 毒の味や喉を通る時の感覚、体の痺れ、周囲の貴族たちの驚いた表情、そして何よりも、オーギュスタン殿下の狼狽ぶり……細部に至るまで克明に語る彼女の声は、まるで喜びの歌を歌っているかのように、希望に満ち溢れていた。


「お嬢様、こちらでお話が長引きますと、侯爵様にご心配をおかけしてしまいます。お支度をすませ、人目の少ない庭園へ参りましょう。この時間でしたら、まだ人影もございませんでしょう」


 白銀の髪を静かに揺らし、レオンはそう優雅に促した。興奮した面持ちのヴィオレットを先導し、彼女の私室へと導く。

 

 専属侍女ノエミが手際よく朝の支度を整えてくれる間、ヴィオレットは逸る気持ちを抑えきれない。支度が終わると、レオンは主を伴い、朝日を受けて輝くリュミエールの庭園へと(いざな)った。


「レオン!」

 

 庭園の東屋に着くなり、ヴィオレットは先程の興奮そのままに、弾むような声を上げた。彼女の菫色の瞳は、朝日を浴びて輝きを増している。


「あの夢が、変わったのです!」

 

「神前裁判で毒を飲んだのに、それほど苦しくなかったのです!  無罪になったのです!」 


 小さな体全体で喜びを表すように、ヴィオレットは再びその全てを、希望に満ちた声で克明にレオンへ伝える。彼は、彼女の言葉を一言も聞き漏らすまいと、丁寧に耳を傾けてくれた。


 夢の内容を聞き進めるうち、彼の涼やかな表情にも、ゆっくりと安堵の色が広がるのがわかった。普段は感情を抑える彼の口元に、隠しきれない柔らかな笑みが浮かんだ。

 

「お嬢様」

 

 ヴィオレットの語りが一段落すると、レオンは静かに頷き、慈愛に満ちた眼差しを彼女に向けた。

  

「レオン、本当に変わったんですね!  私、あの毒で死ななかったんです!」


 夢の余韻を楽しむように、ヴィオレットの頬は上気し、期待のこもった瞳で彼を見上げる。その顔には、喜びと安堵が隠しようもなく表れていた。


 レオンは、そのいじらしい様子に目を細めている。


「ええ、お嬢様。わたくしもそう思います。これまでの訓練が、早くも確かな効果を上げているのでしょう」

 

 その声には、普段の冷静さの中に、温かい喜びが滲んでいるように感じられた。いつもヴィオレットの事を一番に考えてくれているレオンにとって、主の努力が夢という形で実を結んだことは、深い感慨があるのだろう。 


「やりました!」

 

 ヴィオレットは、喜びのあまり、その場で小さく跳ねた。


「これなら、未来を変えられるかもしれません!」

 

 ヴィオレットの紫水晶のような瞳は、希望の光を受けてきらめいている。レオンは、そんな無邪気な彼女の姿を、温かい眼差しで見守っていた。


「お嬢様の強い意志と努力の賜物です。その懸命な想いが、未来を少しずつ、しかし確実に変え始めているのかもしれません」


 ヴィオレットは、弾むようにレオンへ駆け寄り、その手を両手で強く握りしめた。


「レオンが私の夢の話を信じてくれたからです! 誰にも言えなくてただただ辛かった時に、信じてくれて、一緒に訓練してくれたから、私は頑張れたんです。本当に、ありがとうございます!」

 

 飾らない感謝の言葉が、ヴィオレットの純粋な心を映し出す。握った手から伝わる温もりが、レオンの胸を満たしたのが、なんだかわかる気がした。


(レオン……本当にありがとう。)


 レオンは、ヴィオレットの純粋な感謝に少し照れたように視線を外しつつ、彼女の小さな手を優しく握り返してくれた。


「お嬢様のお役に立てたのであれば、私にとってこれ以上の喜びはございません」

  

 穏やかなレオンの微笑みが、ヴィオレットの心に揺るぎない安心感をもたらす。


「この夢は、私たちにとって大きな励みになりますね。これからも、決して油断せず訓練を続けましょう。きっと、あの恐ろしい未来を必ず変えられると信じております」

 

 レオンの力強い言葉に、ヴィオレットの心にもまた未来への希望が湧き上がり、しっかりと頷いた。

 

「はい! 私、頑張ります!」

 

 二人は、朝日が降り注ぐ庭園を歩き出した。朝露を纏った美しい花々が、光を受けて宝石のように輝いている。辺りは開いたばかりの花の芳香で包まれ、小鳥たちの楽しげなさえずりが響いていた。


 清らかな朝のそよ風を浴びて、ヴィオレットは嬉しそうに花の名前を挙げ、その美しさについて楽しげに語った。レオンは、そんな主の言葉に静かに耳を傾け、時折、優しい相槌を返してくれた。

 

 庭園には穏やかな時間が流れる。ヴィオレットの表情は明るく、足取りも軽い。レオンは、希望に満ちた彼女の横顔を、温かい眼差しで見守っていた。

 

 しばらく散策した後、ヴィオレットは木陰のベンチに腰掛ける。

 

「なんだか、少しお腹が空いてきました」


 ヴィオレットは、頬を染めて照れたように笑う。

 

 レオンは、その仕草に微笑みながら答えた。


「それは素晴らしい兆候です。さあ、お嬢様。温かい朝食をご用意させましょう。今日は、この変化を祝して、ささやかなお祝いをいたしましょう」

 

 ヴィオレットは嬉しそうに立ち上がり、彼と共に、光に満ちた屋敷の中へと戻っていく。ヴィオレットとレオンの間には、困難を共に乗り越えた絆と、未来を切り開く固い決意が満ち溢れていた。

 

 朝食の席に着くと、ヴィオレットは焼きたてのパンを美味しそうに頬張る。


「夢が変わって、本当によかったです!」


 主人の歓びを目の当たりにし、レオンも笑顔を見せ穏やかに頷いた。


最後までご愛読いただきありがとうございます♪


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― 新着の感想 ―
第1王子は無罪とはならないだろうし王家にも影響が出る事を考えると王と王妃には密かに伝えて学園で王の影を付けるとか対策取った方が良いかもですね。 毒を慣らすとかの苦しい目に遭わないしね。 第1王子と婚…
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