第四部 笑顔の練習
「本当に大丈夫?」
「だいじょうぶで…ぶえくしっ!」
先程くしゃみをした少女、ウンモは、風邪をひいていた。それでも働こうとするので、ケトクは心配したのだ。
「気持ちは嬉しいけど、たまには休んで」
私がこう言っても、ウンモは引き下がろうとしなかった。やれやれ。私は私で仕事がある。会計の仕事だ。しかし、この調子ではここを離れられない。少し不安だが、兄にやって貰おう。ウンモはソワソワしていた。お母さんの店は、お母さん、兄、私、ウンモ、シム君で回している。大量の布を扱うので、ウンモはそれを運ぶ係だ。私では到底持てないので、助かっている。大事な従業員の1人だ。店の場所をショッピングモールに変えたのは母曰く私たちが帰って来た上に新しい人も増えて少し多めに服を作る余裕が出来たからだそうだ。私はウンモを寝かせるために布団の準備をし始めた。しかし、それが出来上がってもウンモは寝ようとしなかった。
「ほら、早く寝て。そうしないと治らないよ?」
ウンモは何故か泣き始めた。そして、何かをボソボソと言っている。私は耳を近づけて聞いてみた。
「だって…ねたら、ケトクさん、いなくなっちゃう…」
私はウンモの頭をぽんぽんした。年齢的には一緒な筈なのに、一瞬ウンモが妹に見えた。
「居なくならないから、気にせず寝て」
ウンモは小さく微笑み、小さな寝息を立てながら眠り始めた。私は椅子に腰掛けながらウンモをじっと見ていた。そのいくらか後、静かにドアが開き、美しい蝶が1匹舞い込んで来た。それと共に入って来たのはシム君だった。
「ケトクさん。ウンモは寝たみたいだね。ちょっとした励ましのつもりでこの子を連れて来たんだけどな」
結局虫に落ち着く所が彼らしい。確かに、黒と光を反射して光る水色のコントラストが美しい蝶だ。
「ミヤマカラスアゲハって言う子なんだ。…ケトクさんって、鉄面皮だよね」
そうなのかもしれない。アルバムで自分の写真を見てみても、無表情で写っている事が多い。感情が表情に出にくいのかもしれない。蝶がウンモの周りを飛び回り、羽を休ませたくなったのか机に止まった。シム君はグイッと距離を詰めて来たかと思うと、私の口角を指で上げて来た。そして、何を思ったか微笑んで私から離れて行った。私が戸惑っていると、シム君は何処か遠くを見るような目で話し始めた。
「僕には、尊敬する人がいてさ、いくら僕が虫の長話をしてもけなしたり白い目で見たりせずにちゃんと聞いてくれるような人なんだ。さらに、どんな悪口を言われても笑顔を崩さないんだ。その人が教えてくれたんだ。『ずっと笑顔でいなさい。どんな時もね。そうしたら、あなたもみんなも、幸せでいられるわ』って。流石に無理だったけどね。ケトクさんは、あんまり感情を表に出さないけど、さっきの顔は確かにいい顔だったよ。安心した。どんな人でも、笑えば楽しそうに見えるんだって」
シム君は溢れんばかりの笑みを私に向けて来た。私も応えねばと思い、指で口角を上げて、目を細める事を意識しながらシム君を見た。なぜかシム君は吹き出した。
「ダメだよ、目が険しいもん。目尻を下げるようにしてみたら?」
その通りにしてみたが、やっぱり変と言われてしまった。私が考えあぐねていると、シム君が私をくすぐり始めた。
「ちょっ、何、しっ」
カシャっという音と共に、シム君がくすぐりをやめた。私が顔を上げるとカメラの画面があり、くすぐられ笑っている私がそこにいた。シム君は得意げに、
「ほら、いい顔でしょ?」
と言ってみせる。
「ちょっと意味合いが違うような気がするけど」
シム君は誤魔化すように違う所を見ていた。
「…でも、ありがとう。てっきり虫にしか興味ないのかと思ってたけど、案外私のこと見てくれてたんだね」
「それって褒めてる?」
そう言ったシム君もやはり笑っていて。本人は無理だったと言っていたけれど、十分すぎるくらいだと思う。ウンモがむにゃむにゃと寝言を言っていたのが聞こえた。
「うん、褒めてる」
シム君はそれを聞いてまた溢れんばかりの笑みとなり、部屋を静かに出て行った。ウンモを見ながら、笑顔の練習をし続けた。ウンモは本当に心地良さそうに眠っているので、私は嬉しくなった。その時口角が微かに上がったような気がした。成程、これが笑顔と言うものか。
私は、隣の部屋で一部始終を聞いていた。店はフェルクが上手く働けなかったので休みとなったのだ。
「あの子達にしておいて本当に良かった」
声は隣の部屋で聞こえないように小さかったが、これは強い思いがあった。ケトクは小さい頃からあんな調子だから、ずっと心配だったのだ。友達も出来なかったし、私ですら可愛らしい笑みを見たことがなかった。妙な敗北感がある。それに、ウンモちゃんの寝言も中々巧妙だった。
「ケトク…さんと、シム…さん…なかよし。ふたりとも、わらってる」




