第六話 嫌われた檸檬水
ちょっと長めですが、気分の悪い回なので一回で終わらせたいなぁ、と。
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「すみません。相席させて頂いて宜しいでしょうか」
王都で最も人気のあるカフェは満席だった。
だが、この店で相席なるものを頼まれたことは克て一度も無かった。
至福の時間を邪魔された事に不快な気持ちが湧きあがったものの、それでも、その声に聞き覚えがあったフリッツは、鷹揚に頷いてみせた。
ただし、視線を上げる事すらしない。
フリッツの視界には、ただ小さくなっていく至高のケーキがあるのみだ。
もうほとんど残っていないそれは、頂上を飾る赤い苺がのった部分を残すばかりだ。
フリッツは、好きなものは最後に食べるのが好きだった。
だからもちろん、苺が残されたこの部分が一番好きだ。
苺の載せられているケーキというだけで好きだが、不本意ではあるが、王都で一番美味しい苺のケーキを提供しているのが、このカフェだ。
ヴォーン商会の経営でなければ、もっと美味しく感じられたに違いない。
だが、それでも。口に運ぶクリームはどこの店よりさらりと蕩けていくし、スポンジはどこまでも軽く味わい深く、ほんのり感じるリキュールが卵の臭みを消してくれていた。
なにより苺の瑞々しさが違うのだ。
赤い色艶も、果汁も、香りも、満点だ。
但し、ひと切れがケーキだとは思えないほど高い。
その価値があると分かってはいる。
余所の店では出せない味である以上、高い値段を付けるのはカフェの自由だ。
厭ならば食べに来なければいいだけなのだ。
そうしてこの店は、いつ来ても満席だ。
つまりはそういうことだと、フリッツも理解していた。
「ご安心なさい。もうすぐ食べ終わります」
最後のひと口を口に入れる前に、嫌味の一つも言わねば気が済まなかった。
なのに。
震える声が、意外な事を提案してきた。
「……宜しければ、席を譲って頂いたお礼に、もうひとつ如何ですか?」
「ははっ。商会長の娘さんは商売上手だ。席を譲らせた上に押し売りまでする」
嫌味など口にして関わり合いを持とうとするのではなかったとフリッツは自分の判断を後悔した。
相手は業突く張りの悪徳商人の家族なのだ。
「勿論、私が支払います。ヴォーン商会持ちですらありませんので誤解されませんよう」
視線を上げると、挑戦的な瞳が射貫くように見つめていた。
下品にならない程度に花が咲く上品な会話がさざめいていた店内の音が、一切遠くなった気がした。
目の前の女生徒は、どれだけ幼い少女の様な背の低い身体をしていようとも、この顔はある種の覚悟を持った者にしかできない顔だと、フリッツは内心で舌を巻いた。
けれど、年下の少女に視線だけで気圧される訳にもいかない。
「……御父上は娘に過剰なまでの小遣いを渡しているようだ」
「いいえ。私は先々月に受けた資格試験に合格したことで、給金を上げて戴いたのです。それでも、先週寮で一緒に暮らす友人達へのお土産としてこの店のパウンドケーキを購入してしまったばかりですので、正直、今、教授に苺のケーキを奢っったら、私は檸檬水しか頼めませんわ」
その言葉の意味を、フリッツは眉を顰めて考えた。
先週この店に来ていたのは、自分の給金で寮生である友人への土産を購入する為であって店内の物を強奪していく為ではなく、今日、ここにいるのも自分がケーキを食べる為ではないと言いたいのだろうか。
「つまり君は、君がケーキを食べる為に、僕への相席を願い出たのではない?」
言葉で確認したところで、目の前の女生徒の耳が赤くなった。
俯けていた視線を戻して、再びキッと睨まれる。
「檸檬水だって、飲みたくて頼むわけじゃないです。お金は大切だもの。でも、使うべきところは理解しているつもりです。席を占領するなら商品を頼みます。そして私は、今日ここに、教授から受けた事実無根の中傷に対して正当な反論をする為にここには来ましたし、その為のお時間を戴く為の報酬としてケーキを提示させて戴いたにすぎませんから!」
そこまで一気に伝えると、はあはあと目の前に置かれたコップの水を一気に飲み干した。
赤い唇の端から垂れた水に気が付いて、赤くなっていた顔を更に赤く染めながら、口元をハンカチで押さえる。
話している言葉の大人らしさと、仕草の子供っぽさの落差に自然と笑みが出た。
「それで? 何が事実無根の中傷なのかな。あぁ、先週、君はここに自分が働いて得た金で友人へ土産を買う為に来たんだったね。それかな? でも、実際のところ僕は君が何を買ったのかも知らないし、財布から支払いをしたのかも確認していないのでね。ここの支払いだって、本当に君がするのかもわからないな。とりあえず君の財布から出されても、それが本当に君に支払われた報酬なのかも、僕には分からないじゃないか。口で言われたからと納得できる訳がない」
滔々と論破してやった。
お涙頂戴で女生徒にこんな場所で泣かれたとしても、それを簡単に信じる訳にはいかない。
何故だか猛烈に止めを刺してやりたかった。
だがその前に。とっておきの最後のひと口をゆっくりと味わうことにする。
赤く瑞々しい苺が載ったケーキを頬張って、口の中で味わいを確かめる。
滑らかに溶けて口いっぱいに広がっていく甘い幸せ。
生クリームの軽くてコクのある味わいも。
卵を贅沢に使って丁寧に焼かれたスポンジも。
選び抜かれた完璧な赤い苺も。
これほど素晴らしい苺のクリームケーキは他にはない。
この美味しさだけは認めざるを得ない。だが、暫らくは味わうことは出来ないだろうと、フリッツは少しだけ寂しく思った。
しかし、こんな風に小煩い悪徳商人の娘に付き纏われて、美味しさの余韻を毎度毎度壊されるような事になったら元も子もない。極めて不愉快だ。
悪徳商人の懐を肥やしてやるのも今回限りにしておくとしようとフリッツは心に決めた。
「僕を口先だけで騙せると思ったら大間違いだよ。納得させたいなら、証拠も一緒に提出してくれ給えよ」
ポロポロと涙を溢し始めた小娘の小芝居に、一瞬ぎょっとしたものの、食べるべきものはもう食べたのだしと席を立つ。
いや、立とうとしたところで、ドスンとぶ厚い台帳が華奢なテーブルへと載せられた。
それも、一冊や二冊ではなかった。
古びた表紙の年季の入った物まである。
どう見ても、洒落たカフェで開くには不似合いな物ばかりだ。
「どうぞ、御存分にご確認下さい。こちらが、サリの出勤記録簿で、我が商会の基本給金算出表がこちらになります。そこから計算して頂く事位、教授であり、偉大なる魔法使い様であれば、簡単でしょう? そしてこちらが先週、サリがこの店で購入した商品の価格と購入記録です。我が商会には社員割引が存在します。但し、全グループ内において月に1つだけという取り決めがあるので、全店で記録を残しておるのですよ」
「とうさま!」
面倒臭いことになってしまった。
ダル・ヴォーン准男爵。ヴォーン商会の諸悪の根源の御登場だ。
もっと早い段階で、店を抜け出すべきであった。むしろ相席を断るべきだったと、今更後悔しても遅いとフリッツは天を仰ぐ気持ちだった。
馬鹿らしい。表に出す帳簿など、腹黒い商人ならば前もって用意しているものなのだろう。
そこまでして白を切りたいのかと、フリッツは余計に胡乱な目つきになった。
年季が入って見えるその帳簿をパラパラと捲って眺めれば、どうやら娘が働き始めたのは十にも満たない年からだという記録が出てきて、思わず苦笑する。
「捏造するにしても、これは酷い」
思わず、ここは敵地のど真ん中なのだと忘れて声に出してしまった。
その瞬間、それまででも十分悪かった空気が更に険悪なそれへと変わった。
「お代は結構です。これ以上ウチのサリお嬢様を侮辱するならば、もう二度とウチに出入りができると思わないで下さいね!」
何故だか、このカフェの店長が息巻いていた。
その後ろでは白い帽子を被ったパティシエや、ホール担当の愛らしいエプロンを付けた給仕係までが目を吊り上げて並んでいた。
このカフェが開店してからずっと常連として通い詰めてきたフリッツが、克て一度も見た事の無い形相をしていた。
超一流の代金を取るだけの、美味しいケーキと紅茶、盛り付けは勿論、その接客や給仕技術も最高レベルで、どんなことがあっても常に笑顔を崩さない完璧な態度であった。
その彼等が、ひとり残らず怒っていた。
「お嬢様は、いつだって私達にお優しく、自分に厳しい方です! 真面目で。真面目過ぎて! 契約書類についてだって、も、文字の読めないわたしに、ひとつひとつ説明してくれてぇぇぇ」
一番若い給仕の女の子がぽろぽろと泣きながら叫んだ。
少女が受けたその説明自体が虚偽かもしれないと伝えても、ここまで信じ込んでいてはこの場でいくら説明しても無駄だろう。
「なるほどね。これは僕の分が悪いようだ。自分で注文して食べたケーキ代はきっちり払うさ。常連と言われるほど食べてきているのだから金額も覚えている」
テーブルにきっちりと代金をのせると、フリッツはそのまま店を出て行く。
「待って。待ってください、教授! 私は、このヴォーン商会を愛しています。決して私物化も、穢すような真似もしていません」
その言葉ですら、フリッツを振り向かせることはできない。
けれど、その場にいた他の客や従業員にはいいパフォーマンスになったのだろう。
「どこまでも、計算高い小娘だ」
フリッツは、苦い物を飲み込まされた気分で、王都の雑踏へ紛れた。