第四十一話 フリッツ・アーベル=シーランは愛を乞う
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「君に、直接それを告げて、暴言や誤解についても謝罪できれば良かったのだが、とても僕には実行できる気になれなかった。だから……手紙を書こうと、手紙を書いて、別れと謝罪を、告げようとしたのだが……手が震えて、文字が書けなくて。情けなくも何度も書き直しては失敗を繰り返しているところに、王太后陛下から、使者が着いたんだ」
ぐっと瞳に力を戻したフリッツが、サリを見つめる。
「オレンジの花の、ブーケを携えて」
誰も入るなと申し付けて籠った書斎へ、トーマスが駆け込んで来た時には振り向きもせず反射的に『入るなと言っておいた筈だぞ』と、フリッツは怒鳴り散らしてしまった。
だが『王太后からの使者の方が待望の物をお持ち下さったのに。要らないならそうお伝えしますね』と厭味ったらしくドアを閉めて出て行ってしまった執事の、なんと冷たい対応だったのか。
けれども強引にでも押し入って貰えたからこそ受け取れたし、サリの屋敷に自分の手で届けられたのである。あそこは感謝すべきだったな、とフリッツは今更ながら思い返し、なんと自分は些事に関して配慮に欠けているのかと嘆息した。
「僕は、そのまま君の家に向かった。使者殿にはそのまま我が家で休んで戴くことにして、碌に感謝の言葉も伝えないまま、君の家に向かったのだが。当然だが、着いた時にはまだ夜が明ける前。朝というより夜だった。とても婚約者の女性に合わせて欲しいと願い出れる時間でもないし、そもそも式の前に新婦に会う訳にもいかない。出てきた使用人に渡して、帰るしかなかった」
しょんぼりと肩を下げるフリッツへ、『当たり前だろう』と周囲が残念そうな視線を向けている。
だがフリッツはそんな周囲からの評価などまったく気にしていなかった。気が付きもしていない。
彼には、目の前のサリしか見えていなかった。
「受け取って貰えて、嬉しい。だから、できることなら、此れも受け取って貰えないだろうか」
そういって、フリッツは再びサリの前に跪いた。
上着のポケットから天鵞絨張りのちいさな箱を取り出し、蓋を開けるとサリへ差し出す。
ちいさな箱に収められていたのは、美しい菫青色の石が嵌った指輪だった。
「灰簾石……いや、その偏光と赤系の色合いは、菫青石か?」
横に立つダルが娘より先に呟いた。
そこに教授がこれまでの気難しい顔からは想像もつかない柔らかな笑みを浮かべて賛辞を贈る。
「さすがですね、准男爵。これは確かに菫青石です。青と菫色の瞳を持つ、彼女の瞳の色そのものだと思い買い求めたものです」
どきんとサリの胸が高鳴る。
「それだけ色が濃く、内包物のない大粒の菫青石は私も初めて見たよ」
菫青石。その青みを帯びた菫色からウォーターサファイアとも言われるこの石は、船乗りのコンパスとも呼ばれている。どんな曇り空であってもこの石を通して太陽を探せばたちどころに見つけることができ方位を間違えることなく航行できる魔力を秘めた守り石とされる。
だが宝石内部に傷を持っていることが多く、宝石と呼べる基準に満たない場合も多いのだ。
「娘の瞳が菫色に変わる事を知っているのですな。……それも当然か。一応言っておきますが、我が家系の女性は普段は大人しくとも本当に怒った時には、それはもう怖いですぞ。それでも伯爵はいいのですな」
「勿論です。むしろ怒っている彼女はとても美しいと思います」
食い気味に答えたフリッツに、ダルは諦めたように肩を竦めた。
ダルは、その言葉を克て一度も見せた事がないほど晴れやかな表情で、妻にしようという女性の父親に対して告げるのはどうかと思ったが、それ以上はもう何も言わないことにした。
何か言いたげにしている息子にも、視線で駄目だと送り首を横に振る。
ついでにくしゃっと頭を雑に撫でると、ロイドから「やめてよ」と手を払われた。
悔しそうな顔をしているがそれ以上何も言わないロイドに、たぶんきっと、姉の求婚者について息子なりに納得したのだろうと目を眇めた。
ここから先は、サリ自身が決めるべきことだ。
家族であろうとも足を踏み入れるべきではない。
「サリ・ヴォーン嬢。これは、あなたの成人の誕生祝いに贈るつもりで用意した指輪だ。アーベル侯爵家のパリュールとは少し色味が違ってしまいはするが、同じ工房に加工を依頼したのでそれほど浮かないと思う。だからその……君に、受け取って貰って、今日の式で、着けて欲しかった」
「…………」
震える手でサリはぎゅっとオレンジの花のブーケを握りしめた。
そのまま、指輪の入った箱をじぃっと見つめるばかりで、受け取ろうとしないサリに、教授はそれを理解した。
はらはらと。サリに向かって冷たい視線を投げつけてばかりいた灰色の瞳から、涙が流れ落ちていく。
「すまない。すまない、サリ・ヴォーン嬢。こんな酷い男に結婚を迫られて、これまで厭な思いを沢山してきただろうということは自分でもわかっていたんだ。申し訳ない」
自分が涙を流していることに気が付いて、フリッツは慌ててぐいっと袖口で粗雑に涙をふき取る。普段の教授ならば絶対にしない不作法さだ。
そのまま焦った様子で箱の蓋を閉めポケットに戻そうとするフリッツに、サリは慌てた。
「あ、あのっ」
「あぁ、そうだった。大丈夫だ。婚姻は、無理に受ける必要はない。いや、もう大丈夫だ。諦める。君を諦めることはできないかもしれないが、安心していい。もう君の前には現れない」
すぐにでもこの場から逃げ出したいのか立ち上がり掛けたフリッツだったが、サリの不安を払拭する事の方が自分が逃げるより大切なことだと思い直し、上擦った早口でそれを告げる。
痛ましく揺れる瞳には、まだサリへの愛が灯っている。
「教授!」
「だが、やはりこれだけ。これだけは、受け取って貰えないだろうか。君の為に作った指輪だ。君に受け取って貰えねば、海にでも投げ込みにいかなくてはならない。そうだな。僕への憎しみと一緒に捨てて貰うのはいいかもしれない。もしくは生活に困った時にでも、売り払ってくれたら」
「おとうさま、これを受け取ってください」
サリは、ようやく思いついてそれをすぐ後ろに立つ父へと押し付けた。
生花のブーケは重いのだ。
萎れさせない為にたっぷりの水を含ませた綿を根元に巻き付け、蝋引きの紙を巻き、その上から防水の皮袋を被せて更に美しい布やリボンを巻き付けてあるのだ。当然である。
そして、フリッツは仮病だと信じていたようだが、サリは正真正銘病み上がりだ。
普段のフリッツならばすぐに気が付いたかもしれないが、学園では化粧をしていない姿しか見た事がなかったサリが、ヴォーン家の精鋭部隊ともいえる侍女達の手により完璧な化粧を施されて美しく装っている事もあり、まったく気が付いていなかった。
つまり、サリはすでにブーケを片手では持てなくなっているほど体力を消耗させていた。今も、結構ギリギリだ。
だが、今ここで気力を奮わねばどうするというのだ。
「教授!!」
バッと、サリが、跪いたフリッツの首元へ、抱き着いた。




