第四十話 フリッツ・アーベル=シーランは想いを告げる
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「なのに。君は、婚姻式まであと一週間という時になって、婚約を取り止めたいといいだした。拒否すれば泣き出した。泣いて走って逃げて行って……その日からずっと学園を休み続けて……真面目過ぎるほど勤勉な君が、仮病で実家に帰ってしまう程……それほど、僕との婚姻が嫌なのかかと思うと、胸が苦しくなった。悲しくなった。切なくなった」
違う。勿論、サリは仮病など使った訳ではない。
だが確かにフリッツ自身はサリが泣いて走って逃げて行った後ろ姿を見たのが最後であり、次に会った時には(つまり今日、今この時だ)こうして綺麗に着飾っている。仮病だと判断しても仕方がないのかもしれない。
否定をしなくては、とは思うのだが言葉にできないサリは、ひたすらそれを否定するべく首を何度も横に振る。
そんなサリに、元々悲壮感で染まっていたフリッツは更に顔色を失くして眉を顰める。そうして息を詰めたまま、ゆっくりと足を動かした。
「それほど君が僕との婚姻を嫌だと思うならば、手を離すのが大人として正しい。何故なら君は罰すべき悪ではなく、単に汚名を着せられただけの被害者であり、父を助けたといっても私は医者だ。患者がいるなら助けるのが当然だ」
前へ。前へ。サリに向かって。
「つまり、君に僕への借りはない。むしろ、僕が君に贖罪と賠償の証として何かを差し出すことこそが正しい。君が僕との婚約の無効を申し入れてきたなら、それを受け入れることこそ、正しいのだと」
怖がらせないようにゆっくりと、というよりも、フリッツ自体がそれをすることを怖がっているかのように。
「なのに、何故かそれを考えるだけでも腹立たしくなる。ありえないと。……だから。そして……そうして僕は、自分が、君と、どうしても結婚したいのだと、理解したんだ」
ゆっくり。ゆっくり。
そうしてついにサリのすぐ目の前まで来る。
フリッツの灰色の瞳が、サリを、サリだけを映していた。
「サリ・ヴォーンという女性を、僕は、愛してしまったのだと」
ひゅっ。サリの喉奥が、鳴った。
「だから、僕は学園を休み続ける君の誕生日に押し掛け、それを告げようと思っていた。先触れを出して拒否されるのが怖くて、学園での仕事が終わったらそのままヴォーン邸へ向かおうと思っていた。だが、ちょっと邪魔が入ってしまって。それも叶わなくて」
勿論、サリだけでなくヴォーン家の家人は誰ひとり、この日にフリッツの元婚約者であるマリアンヌが仕出かした事については何も知らなかった。
もしこれが中途半端な情報でヴォーン家に伝わっていたならば、家族は、サリの同意も何も関係なくこの国を捨てていたであろう。
図らずもピアリー侯爵の方で王家に取り成しを申し出、王家がそれを受けて緘口令を敷いたことにより、図らずも功を奏した形となった。
「これも天の思し召し、無理なのだと言われているという事なのかとも考えた。だが、それなのに。もう一つ、天からの思し召しと思えることが、起きた」
皆の視線が、サリの手の中にあるそれに集中する。
今朝早く、ヴォーン准男爵家へと届いたオレンジの花のブーケ。
大商人ダル・ヴォーンですら唸るほど、まだ三月の終わりにこれだけの数のオレンジの花を手に入れる事が出来た奇跡。
「君からサムシングフォーについて教えて貰い、母にドレスを貸して貰えないかと相談した時、『でも、式が六月ではないのが残念だわ』と言われた。意味が分からなかった僕は説明を求め、呆れた様子の母から。六月の花嫁について教えて貰った。一緒にオレンジの花に関する言い伝えも。そして母に勧められるまま手に入れる方法を探した。その時は手に入らないといわれても、まぁ仕方がないなとしか思わなかった」
サリがアーベル侯爵家に出向き、侯爵夫人からウェディングドレスをお借りすることになったのは学園へ復帰して間もなく。今から三月程前の事になる。
真冬のさなかにオレンジの花を問い合わせられても『無理だ』と拒否されて当然だろう。安請け合いができる内容でもない。商売は信用が第一で賭けの対象ではない。
「けれど、もしそれを捧げることができたなら、君が嫌がる僕との式で、笑顔を見せてくれるんじゃないかと。そう思い直して。今度は本気で探させた。けれどやはり、季節からズレすぎていることと、式を挙げるのが王都であることによりどこに問い合わせても断られた」
当然だ。欲しいと言われた時期が丁度花の盛りの季節ならともかく時期が違いすぎるのだから。
「諦めかけたその時、母が『王家に頼んでみたらどうか』と言い出した。王族の婚姻には必ずそれらの吉祥とされる言い伝えを全て叶える事になっているのだから何処かで育てている筈だ、と。勿論、基本的には花の咲く時期に式の日程を調整するのだろうが、どうしてもそれができない時の為に何か対策があるかもしれない、とね。僕は王太子殿下に相談したが、いまいち理解してもらえず埒が明かなかった。だから今度は母方実家からの伝手を辿り、王太后陛下にも取次ぎを願い出た。やはり女性の方が理解して貰えるらしく、『今は丁度年頃の独身王族はいないから特別に』と直轄地で特別に育てているオレンジの花を譲ってくれるという返事が来た。僕は自分でも意味が分からないほど歓喜した」
現在、未婚の王族はいない。いや、いるにはいるが王太子夫妻の娘である幼い姫君と、弟王子夫妻の幼い王子がいるのみで、どちらもまだ七歳にもならない。王族の婚姻は政治的な判断により成年前に執り行われることもあるにはあるが、現況そのような超法規的措置を取らねばならないような国政にはない。
だから子孫繁栄の象徴であるオレンジの樹の花を譲ることも可能であるという判断になったのだろう。
「だがよく読めば、現況まだ青く硬い蕾しかなく庭師の手入れで咲く時期を早めるよう手配するが、準備期間が短すぎる故に本当に咲くかどうかも分からなければ、効果が出過ぎて早く咲き過ぎて散ってしまう可能性も咲かないまま萎れてしまう可能性もあると書いてあった。……僕が君にオレンジの花のブーケを贈れるかどうかは、完全に、賭けとなった」
その手紙によって齎されたと思った希望が、同じ手紙の中で絶望に塗り替えられたのだ。そのことを思い出しているのだろう。
フリッツの声が段々と苦し気になっていく。
「勿論、近隣諸国でも引き続き探させていた。地方領主に問い合わせもした。だが、結局他に目星も付けられず、王太后陛下からの連絡も昨日の夜になっても、来なかった」
「僕は、君に対する暴言や誤解についてきちんと謝罪もできないろくでなしだ。だから嫌われて当然だと自分でも思う。だから、元の婚約者に目を付けられて家に押し掛けられる羽目になり、それを撃退するのに手間取って君の誕生日に会いに行くこともできなかったし、用意した指輪も渡せず、あれだけ八方手を尽く下にもかかわらず前日になっても、オレンジの花も手に入らないのだから。
だから、君を、諦めようとした。直前だろうとなんだろうと、式が始まる前ならば、君の経歴に、不本意でしかない強制された婚姻による汚点を付けなくて済む。そう、決意しようと……」
教授の瞳が揺れていた。
いつもサリを冷たく蔑んでばかりいた灰色の瞳。
サリが、苺のクリームケーキを見つめている時の様な蕩けるような瞳を、自分に向けて欲しいと願うようになったのは、いつが最初の事だっただろう。




