第三十七話 抱き合い名前を呼び合うふたり
※今回もフリッツ君視点です
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「が、害虫ですって?! レディに対して失礼ではありませんの! 撤回なさい! 放しなさいよっ!」
腕を掴まれたままのマリアンヌは、その拘束から逃れようと藻掻く。
しかし掴んでいるのは王太子の専属近衛である。
見目麗しいだけである筈がなく、女性ひとり暴れた所でビクともしなかった。
それにしても、暴れる合間に害虫と呼ばれたことに対して抗議を口にしているが、その相手が王太子殿下であると判っているのかどうか。
あまりの口の悪さに、フリッツはこんな女性を妻にしようとしていたのかと頭が痛くなった。
そして確かに、マリアンヌという女性は、害虫そのものだった。
「離してっ。……このっ、離しなさい! 私を誰だと思っているの、ピアリー侯爵家の一女マリアンヌよ」
髪を振り乱し、暴言を吐き、暴れる。
とても社交界の華と呼ばれた令嬢と同じ人物だとは、この目で見なければ信じられない光景だ。
「ほう。ピアリー侯爵家では長女の躾もできないのか。しかし、おかしいな。ピアリー侯爵家に、娘は、いなかったように思うぞ」
「なっ」
「おっと。正確には、いなくなった、だな。愛する平民と婚儀を交わすことになったのだと侯爵より貴族籍から除籍する旨の届け出があったぞ。今朝のことだ」
「キィーーャアァァァアァァァーーー!!! 嘘よ嘘よ嘘よウソよぉぉおおぉ!!!!」
王太子の宣告を書き消そうとでもいうのか、マリアンヌがとても令嬢……いや、人の口から出たとは思えないほどの大音声で叫んだ。
三日前、フリッツがピアリー侯爵へ追加で渡した報告書には、すでにマリアンヌ嬢はユージーンというドレス工房を営む平民との間で、夜の営みまで交わしているという情報について事細やかに書き記されていた。
正直、フリッツですら読んでいる途中で気分が悪くなるほど令嬢として相応しくない不埒で奔放な行いだ。調べさせはしたものの、さすがに付き纏っていただけの頃はピアリー侯爵へ知らせる気にもなれなかった。
いつだったか、フリッツは医術書にて出血を伴わない破瓜についての報告を読んだことがある。幼い頃より栄養状態がとてもよい状態を保ったまま成長すると、筋肉が非常に柔軟性に富み、組織が破れることがなく済んでしまう事があるそうだ。
多分マリアンヌもその研究結果をどこかで知って、医学知識のあるフリッツだからこそ、その資料があれば押し切れると思ったのだろう。
手を掴んでいた近衛が口を塞ぎ直そうとしたのか、押さえつけていた片方の手を離したその途端、マリアンヌは左腕を掴んでいた近衛の手をガブリと噛みついた。
「うわぁっ」
令嬢からとは思えない反撃に面食らったのか、近衛がマリアンヌの手を離してしまった。
目を見開いて爛々と狂気の色を宿した瞳を輝かせたマリアンヌが、そのままの勢いで王太子に向かって襲い掛かった。
「マリアンヌ!」
噛まれた手を抑えて顔を顰めている近衛と、侯爵令嬢が近衛を振りほどいて反撃してきたというその異常さに驚き過ぎたのか、目を見開いたまま瞬きすらせずに棒立ちになった王太子。
そんな王太子に向かって今にも掴みかからんとしていたマリアンヌを、フリッツは横から抱え込むようにして、取り押さえた。
「フリッツ、フリッツ。離しなさいよっ」
「いいや。離さないぞ、マリアンヌ」
揉み合い圧し合いするブリッツとマリアンヌをすぐ目の前にして、ようやく正気に戻った近衛が王太子を後ろへ庇い、フリッツと揉み合うマリアンヌの腕を取り、今度は本気で後ろへと捩じり上げた。
ぎりりと音がするほど強く捻られ、マリアンヌは為す術もなく、その場に崩れ落ち膝を付いた。
「痛い痛い。いたいわ、フリッツ。助けて」
涙目で見上げられたとて、誰が今のマリアンヌにほだされるというのか。
押さえつけている近衛の掌には、赤い痕がくっきりと付いていた。
どうやらべっとりと口紅がついてしまっただけでなく、噛みつかれた歯形からは血が滲んでいるようだった。
「どれだけ躊躇なく噛みついたんだ」
フリッツが呆れた様子で呟くと、床に這いつくばらされていたマリアンヌが嘯いた。
「そんなに強く噛んでなんかいないわ。侯爵令嬢である私が、そんな野蛮な真似をする訳がないでしょう。いたっ。痛いわ。なにするのよ、今すぐ離しなさい!」
暗に怪我をした方が軟弱だとでもいわれた気分になったのか、近衛が喚き散らすマリアンヌを強く押さえつけ直すと、慣れた手つきで頭の後ろで両手を組ませて紐で拘束していく。
その間もずっと「なにするのよ、離しなさい」と喚き散らすマリアンヌに、フリッツは驚きを通り越して冷静な態度を取れるようになった。
殊更冷たい表情と声を心掛けて、王太子の指示を仰ぐ。
「このまま牢に入れますか。それともピアリー侯爵を呼びますか?」
「フリッツ!」
庇うつもりは毛頭ないが、いつか夫婦となると思っていた女性、それもずっと健気な素晴らしい婚約者だと信じていた人の実態を見せつけられることは、フリッツにとって、なかなかの苦行であった。
最高の女性だと思っていたマリアンヌと、最低の女だと思っていたサリ。
あっさりと嘘を信じ込み、確かめる事すらせずにそれが動かさざる事実だと信じきっていたあの頃の自分に会えたなら、後ろから口を塞いで首を絞めてやりたいとさえ今のフリッツは思う。
ふたりの実体を知った今、自分には女性を見る目は皆無だったのだと思い知らされて、そのいつもは温度を感じさせない灰色の瞳を揺らした。
そんな自分の側近に、アンドリューは険しかった表情をふっと緩めた。
側近に召し上げたのは、勿論その恩義もあるがそれ以上に仕事に関しては優秀であることが気に入ってもいたからだ。だが、自分が信じた人の言葉以外を受け入れることができない融通の利かなさに頭の痛い思いを何度もしてきた。
しかも婚約者に選んだのが、マリアンヌ・ピアリー。
美しい女性ではあるが、その分派手好きで、数々の男性との浮名を流している彼女を本妻におくような側近でいいのかと悩んだ時期もあった。
だが、貴族の婚姻は政略であることがほとんどだ。見栄えのいい女性を正妻とし、愛は愛人と交わすことも半ば常識とさえされている。
実際にフリッツとマリアンヌも遠戚にあり、父親同士の仲が良い事から決まったらしい。
あくまで表に据えるお飾りの本妻として適切な振る舞いをさせることができるなら、美しい侯爵家の令嬢というのはありだろうと飲み込むことにした。
大聖堂で挙式を執り行いたいと言われた時には驚いたが、側近になってからは一度も私事での頼み事などした事のない学生時代からの友人から初めてされた頼みごとを受け入れるのはそれほど難しい事ではなかった。
しかし、そんな彼が結婚まで秒読みになってから突然マリアンヌ嬢との婚約を白紙に戻し、父親の怪我を治した事で知り合ったであろうヴォーン商会のサリ嬢と新たに婚約を結んだと報告を受けた時には、ついに目を覚ましたのかと見直したものだったが。
まぁいい。それでもどうやら今度こそ本当に真実が見えるようになり、フリッツ・アーベル=シーランという男が、生まれ変わる瞬間に出会えたのだから。
そうしてそれを為したのは、皮肉にも今床に這いつくばらされている社交界の徒花マリアンヌ・ピアリーが吐いた嘘であるのが、面白くもあった。
「牢でいい。マリアンヌ嬢はすでに貴族籍を失い、ピアリー家からも除籍されている。今朝会った時のピアリー侯爵は一回り老けたように見えたぞ」
アンドリューの言葉に、フリッツは諦めた様子でため息を吐いた。
確かに、何度言い渡そうともピアリー侯爵には娘の行動を制限することすらできていない。王太子の側近であるフリッツを騙し、純潔も平民相手に失ってしまったとあっては、平民に落とすしかないのだろう。
「社交界の華とも呼ばれた令嬢が……いや、元令嬢か。凄まじい執着だな、色男」
「いいえ、彼女が執着しているのは貴族位。そして僕の財産だけですよ」
王太子の皮肉に対して、悟りきった様子でフリッツが返す。
その顔はどこかスッキリしていて、幼くさえ見えた。
「なんだ、分かっていたのか」
わっはっはと愉快そうに笑うアンドリューに、フリッツもマリアンヌを抑えていた近衛も胡乱な目を向けていたが、笑い続ける王太子はそれに気づいているのかいないのか。
しばらく笑い続けたのだった。




