第三十六話 マリアンヌ・ピアリー
※ちょっと時間を遡ります。フリッツ君視点です。
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話は少し遡る。
「どうやって入ってきた」
大聖堂の新郎控室に滑り込むように入ってきたその女性を、フリッツは睨みつけた。
サリ・ヴォーンとの婚約が公表されると同時に、何故か振った筈のフリッツに纏わりつきだしたのが、元婚約者マリアンヌだった。
「酷い。婚約者である私と会ってくれようとしなかったのはフリッツ、あなたじゃない。挙句、勝手に平民なんかと婚姻を結ぼうとするなんて。許せる訳がないじゃないの」
着付け終わった真っ白い式服姿のフリッツへ、しなだれかかってこようとするマリアンヌから身を躱した。
「あん。つれないわねぇ」
うふふ、と真っ赤な口紅を塗った唇が、その口角を上げる。
厭な笑い方だ。そう思ったが、同じこの笑顔を好ましく思っていたこともある筈なのだ。だが今は不快だとしか思えなくなっていた。
とにかく一刻も早く追い出すしかないと腹を括る。
「今日は金髪なのだな。あの焦げ茶の斑の髪を、どうするとその綺麗な色になるんだい」
「これからはずっとこの髪色だから。いいのよっ」
残念ながら前回この厚顔な女性を撃退した言葉はもう効かないらしい。あの時のように本気で疑問に思って口にした時とは何かが違っていたのだろう。
つん、と顔を横に背けはしたが立ち去ろうとはしないどころか、控室の内鍵を勝手に閉めようとしたので、急いでドアを大きく開く。
「いい加減にしないか。誰が僕の婚約者だ。僕の婚約者はサリ・ヴォーン唯一人。君ではないよ、マリアンヌ・ピアリー侯爵令嬢。今すぐここから出ていくんだ」
あの日。マリアンヌから婚約の破棄を告げられた朝、フリッツは学園へ向かう馬車に乗り込む前にピアリー侯爵家へマリアンヌ嬢から婚約の破棄を告げられた件について問い合わせる手紙を送っていた。
それに対する回答は、走り書きの『我がピアリー侯爵家はアーベル=シーラン伯爵家との婚約破棄を受け入れる』とたった一行書かれていた手紙のみ。
そうしてその手紙は、サリの件で屋敷へと戻ってきていたフリッツに即届けられていた。
あまりに素っ気ない文面と、往復の時間を考えると熟考するまでもなく即応じられたであろうその応対に、フリッツはあれほど強く親子で婚約を望んでいたピアリー侯爵のてのひら返しに鼻白んだものだった。
「それに、なにが『勝手に』だ。忘れたとは言わせない。あの婚約を一方的に破棄したのは、マリアンヌ嬢、君からだ。君の御父上からも婚約破棄に同意する回答を戴いて正式に婚約は破棄された。……それと、サリ嬢は平民ではない。この国で正式に貴族籍と認められている貴族令嬢だ」
「だから! あんな一時の勢いで告げた言葉を本気に取るなんて。私が貴方の事を何年待っていたと思いますの? まるでこちらが破棄を告げるのを待っていたみたい」
慰謝料に関しては何も書かれていなかったが、フリッツからマリアンヌに対し『これまでの友好に感謝』して、幾ばくかの金銭を支払う手続きをとり、すべて白紙とすることで話はついている。
つまりは手切れ金まで受け取っておきながら婚約者を名乗り続けるマリアンヌに、フリッツは辟易としていた。
だから会いたいと言われても頑として受け入れなかったのだが、三日前は特に酷く、実家の使用人達を引き連れてシーラン伯爵邸へ強引に入り込み、勝手に部屋の模様替えを行おうとして大騒ぎになった。
なんとかピアリー侯爵に迎えに来て貰った時にはとっぷりと日が暮れており、到底令嬢の家に押し掛ける時間ではなくなっており、誕生日を口実にサリ嬢の下へ押し掛けることすら叶わなくなったのだ。
翌日の話し合いでは腹立ちまぎれに渡すつもりの無かったモノまで突きつけて、かなり強くピアリー侯爵へ抗議し二度とさせないと誓わせたはずなのに。
婚姻式の当日に、こんな所まで入ってくるなどと誰が思うだろうか。
「帰ってくれ。会いたいと言われても、僕には君と話す事など何も無かったからね。お断りしただけだ。勿論今もない。ピアリー侯爵にもそうお伝えしておいたのだが、父上からお叱りなどは受けなかったのかね」
屋敷に押し掛けて来られて完全に辟易していたフリッツは、サリと婚約してから調べた事実『懇意にしているドレス工房のオーナーと愛人関係にあり、ヴォーン商会の成功を妬んでフリッツに嘘を吹き込み販路に割り込もうと画策した』という調査報告書を、ついに父であるピアリー侯爵へ送り付け、『二度とフリッツに近づかせない』と約束を取り付けた筈だった。
にも拘わらず、今日のこの状況である。
フリッツの眉間の皺が一段と深くなった。
「受けたわ、最悪よ! そうよ、その件についてだって……ねえ、今すぐアレを撤回してくださいな、フリッツ。あの調査は間違いだったって。そして、私と結婚しましょう? そうよ、今すぐ。今日にでも!」
「馬鹿な」
狂気の光を帯びたマリアンヌの瞳に、フリッツは恐怖を覚えた。
美しいと思っていた筈のその瞳に怖気を感じる。
今この瞬間にも、フリッツの表情に気づきもせず、妄想としかいいようのないこれから大聖堂で行われる式の主役である花嫁となって、人々に称賛される自分という妄想を語り続けるマリアンヌに、人としてフリッツと対話をするつもりがあるとは思えなかった。
マリアンヌという女性は、これほど会話が成立しないような相手だっただろうか。――ふとフリッツはそう考えて、自分から彼女と会話を試みた事など無かったことに気が付いた。
長い婚約期間も、その前の婚約者候補であった期間も、フリッツはいつだって、マリアンヌの語る話を聞かされているばかりだった。
彼女が話す要求を叶えられる時は受け入れ、無理そうなら「仕事があるんだ、友人と行ってくれないか。マリアンヌ」と遊びに行く足しにして欲しいと観劇チケットを手配したり新しくできたという店のディナーの予約をしてやるばかりだった。
この女性と自分は、会話をしたことなど無かったのかもしれないとついに理解したフリッツは、己の馬鹿さ加減に気が付いて思わず唇が歪んだ。
何故か、今、華奢で自分より頭ひとつより更に低い位置からガンガンと文句を言ってくる少女の姿が脳裏を過ぎる。
今すぐ、彼女の声が無性に聞きたかった。
罵られる声でも構わない。
できることならば、あの怒りで紫色となった瞳で見つめられたかった。
頼りなさげに見えて、有能で、でも大人であるフリッツに対して反論できる強く激しい一面も持っていて、家族の為にできることを泣きながらでも探し求めることができる。
弱くて強い少女。
「ね、名案でしょう! 今すぐ、私とあなたで式を挙げましょう」
するりと腕を取られて驚いたフリッツだったが、その腕に胸を押し当てるようにしてニンマリと醜悪な笑顔で見上げてくる元婚約者が、次の瞬間、ぐいっと後ろへ引き剥がされて驚いた。
「きゃあっ」
「駄目だぞ、フリッツ。弛んだ顔なんてしてる場合か。いくら愛しい婚約者との挙式当日とはいえ、こんな毒婦の前で油断するなど私の側近失格だ」
「……殿下。本日はお見えにならない予定では?」
「そのつもりだったが、父上からお遣いを頼まれたのだ。我が国の経済を司るもうひとつの中枢組織たるヴォーン商会に仇なす、害虫駆除をな」
愉快そうな表情をした王太子アンドリューが、視線だけでマリアンヌを示した。




