第三十四話 神の前で
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「ロイド! 止めなさい」
“マリアンヌ”――その名前に、サリは聞き覚えがあった。
『婚約者は、ピアリー侯爵家の長女マリアンヌ様と言われるとてもお美しい御方よ』
『お二人が並んで立ったところはまるで絵画の様に美しいといわれているわ』
エブリンの声がサリの頭の中で何度も繰り返し響く。
『社交界の華と言われるのも当然の美しさだったわ』
ぐるぐると四方から聞こえてくるようなその声に、サリは平衡感覚を失ってしゃがみ込みそうになる。
そのサリを、父ダルが動く右腕で、受け止めた。
「サリ、しっかりしなさい」
「お、とうさま」
昏い視界に、強い父の瞳が光る。
それは、今のサリにとって唯一の救いだった。
「このまま尻尾を巻いて逃げるか、それとも神の前で誓いを交わすのは自分だと相手を追い払うか。今すぐ、お前が決めなさい。私は、お前が選んだ選択を、全力で応援しよう」
「姉さん、僕が付いてる。絶対に守るから。一緒に逃げよう」
父ダルの心強い申し出と幼い弟の懸命な訴えに、サリの心は千々に乱れた。
そうして――
無慈悲な神の審判が下されるように、サリの目の前にある大きな扉が、修道士の手によって開かれた。
聖歌隊による婚姻式を寿ぐ歌が奏でられていく。
朗々たる清らかなその声が、婚姻式の始まりを、告げた。
最初に、サリの目に飛び込んできたのは、色とりどりの光の渦。
神話に残る神々が描かれた色とりどりのステンドグラス越しに差し込む光が、風に揺らめく。それはまさに神の具現を感じさせた。
まるで神々の住む花園のような聖なるその場所の、中央に敷かれたまっすぐ続く赤い絨毯の先に、その人が立っている。
真っ白な式服を着て、まっすぐ背筋を伸ばして。
その背後には、神を象った美しい彫刻と今日の式を取り仕切る教主様がいる。
嘘偽りの許されない神が坐わす厳かな空間の真ん中で、愛しい人が、サリを見つめていた。
赤い絨毯の両側には、両家の親族および招待された人々がこの婚姻が噂にあるような金で買われたものなのか、それとも年下の若い生徒の誘惑に負けた男の成れの果てなのか、はたまた純愛の末のモノなのかを確かめてやろうと興味津々で見つめていた筈だったが、サリには唯一人、その人の事しか目に入っていなかった。
ゆっくりと、サリの足が前へと進む。
それを見たダルは、諦めたようにひとつ大きなため息を天に向かって吐くと、サリの腕を魔法使いの奇跡により失わずに済んだ左腕へと取り直して、歩調を合わせて歩き始めた。
その後ろから、弟ロイドの叫んだ。
「おねえちゃん! 嘘じゃないんだ。ソイツは、ついさっきまで、他の女と、抱き合ってたんだ。ボク見たんだ! 本当なんだっ!」
静かすぎるその場所に、泣いて訴える子供の声が、こだました。
参列者の中から細い悲鳴や騒めきが怒る。
サリの足が止まり、思わずといった様子で振り返った。
聖堂の入口で、サリの大切な弟が、自分の未来を案じて泣いていた。
「サリ? どうした。どうしたい? 今からでも、お前の思う通りにしていいんだ」
一緒に足を止めた父が、サリの蒼褪めた顔を、優しく見つめていた。
「お、とう、さま」
サリの瞳が、潤む。
「お前が望むなら、爵位なんか幾らでも捨ててやる。全財産を投げ売ってでも、お前の人生を買い戻してやる。大丈夫。私を誰だと思っている、この国で最もやり手だと謳われているヴォーン商会の会長だぞ」
あの事件よりかなり細くなったお腹をかつて揺らしていたように揺すりながら、ダル・ヴォーン准男爵が、参列者の視線が集まる中、豪快に笑って宣言した。
その言葉の内容の不穏さに、参列者の息が止まり、一斉に顔意が悪くなった。
そうして、その中で誰よりも顔色を変えたのは、勿論、赤い絨毯の先で待っていた男。
その長い足を大股で馳せるように動かして、見上げるように背の高い大きな男が、サリのすぐ前まで迫ってくる。それを、サリは呆然と見ていた。
弟ロイドと父ダルが、サリの前に立ち塞がる。
自分を庇ってくれているふたりを置いて逃げることもできず、今日これからすぐにでも契約に従って婚姻を結ぶ筈であった愛しい人から『契約違反だ』と責められる覚悟をしたサリだったが、果たして教授は、父と弟、そしてサリのすぐ前で跪き、頭を垂れた。
「僕が馬鹿だった。世間知らずだった。恥知らずで、恩知らずで。なにより、間抜けな男だった。僕は君の、赦しが欲しい」




