第二十一話 縒れたラッピングリボン
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時間は短かったものの満足のいく仕上がりに折れた紙を提出したサリは、慌てて鞄から用意しておいたレジュメとひとつの包みを取り出し席を立った。
医科大学とは棟が違うのだ。迷っている時間はない。
しかし久しぶりの登校だった上に、朝の校門での教授との遣り取りを見ていたクラスメイト達が周りに集まってきて「心配したのよ」「お父様の御病状は如何なの?」といった声掛けに足を止めたのが拙かった。
次第にそれは「教授の活躍について聞かせて!」「普段の教授はどんな服装なの?」などといった若い女性ならではの興味津々な熱を帯びた質問へと変わっていき、逃げられない雰囲気になってしまった。
教授との約束もあり、気もそぞろになりながらも懸命に答えていたサリを救い出したのはエブリンだった。
ただし、彼女らしい遣り方で。
「ねぇ、サリ。その手に持っている物からいい匂いがするんだけど、それってやっぱり、いつものアレって事? 嬉しい、ありがとう!」
バッとサリが手に持っていた包みをその小さな手から奪った。
重さといい、そこから立ち昇る芳醇なバターの香りと甘い果実の香りといい、間違いなくそれはヴァーン商会のあのカフェで作られた焼き菓子に違いないと、エブリンは興奮した。
「駄目っ! それは駄目!!」
いつもならば奪われることに何の頓着もしないサリの慌てた様子に、周囲が目を見張った。
エブリンも、「あ。ご、ごめんね?」と既に開封し掛けていた包みを差し出した。
返されはしたものの、綺麗にラッピングされていた筈のリボンは解けていた。乱暴にひっぱられたせいか、リボンにはくしゃりとした皺が付いて縒れていた。
「あぁ……」
サリが思わず上げた小さな落胆の声に、エブリンが顔を蒼褪めさせる。
「さ、サリを泣かせてしまった」
これまで、どれほどの無体を行おうともサリが怒ることは無かったし、「仕方がないなぁ」で済ませてくれた。
そのサリから、声を張り上げて拒否をされただけでなく、目に涙を浮かべているのだ。
それをさせたのは、エブリンだ。
しゅん、としてしまったエブリンへ、周囲から小言が浴びせ倒される。
「エブリンは、サリに甘えすぎ!」
「副団長さまだって、自分の娘の不行状さを知ったら悲しむわよ」
「悲しむというより恥ずかしくて死にそうになるでしょ」
「まずはちゃんと謝りなさい。話はそれからよ」
クラスメイト達から散々に叱られて、エブリンはサリに向かって深々と頭を下げた。
「ごめんね、ほら、前にヴォーン商会で買ってきてくれたパウンドケーキがあんまり美味しかったからさぁ。また食べたいなーってずっと思ってて……でも、ごめんなさい」
謝罪というには言い訳がましいが、普段の行状からすればかなりの進歩だ。
サリは、ぐしゃぐしゃになったリボンから視線を動かさずに呟いた。
「……これは、あのカフェで買ったモノじゃないの」
そっとリボンを指で辿る。
撚れて乱れたラッピングでは、きっともう彼に届けることはできない。
「え、でも。お店のと同じ位いい匂いするよ?」
「こら」ポカリ。鼻をすんすんと近付けたエブリンの頭が小突かれた。
「あいたっ」
なにすんのよーとエブリンは抗議したものの、自分が悪いと理解しているので強く出ることはしない。叩いた方も力任せに殴った訳でもない。サリの様子に無神経なエブリンを止めたかっただけだ。
ラッピングの中身は、サリが焼いたパウンドケーキだった。
商会の仕事を手伝って目が回るような日々ではあったが、休憩時間がない訳でもなかった。
特に今月に入り、父ダル・ヴォーンが静養地から帰ってきてからは、完全復帰する前の肩慣らしとばかりにベッドの上で出来る決裁処理をするようになったので、自分の時間というものを取れるようになっていた。
勿論、学園での遅れを取り戻す為に勉強もしていたが、そればかりというのも疲れてしまう――ということで、家の中でできる気分転換を、と考えてキッチンに立つことにしたのだ。
ただし勿論ヴォーン家にも料理人はいる。彼等の邪魔をしない範囲でできることをと考えた結果、毎日のお茶菓子を用意することにしたのだ。
マドレーヌ、ボックスクッキー。ジャムビスケット。
簡単で失敗しないモノから初めて、最近はついにパウンドケーキが綺麗に焼けるようになったのだった。
「ふふ。そうね、私が焼いたケーキなんて、どうせ喜んで貰える訳がないのよ」
サリは、呟くように自嘲した。
『お嬢様、ライジングフラワー使っちゃいませんか? ヴォーン商会のライジングフラワーなら何でも作れちゃいますよ! あれなら全卵とサラダオイルを混ぜればパウンドケーキだって綺麗に膨らみますよ!』
余りに失敗を続けるサリに、指導してくれていた料理長から勧められた。
ヴォーン商会でも売れ筋商品のひとつ、ライジングフラワーは、膨らし粉入りの小麦粉だ。なんなら隠し味となる塩味も入っている。溶かしバターと卵を加えるだけでマドレーヌ。生クリームで混ぜればホットビスケット。水とサラダオイルで平パンができる優れモノだが、正直、専門店の味とは比べ物にならない。
家で安価にできることを目指して調整してあるからだ。
「ちゃんと美味しいケーキが焼きたいの。自分で」
けれども、何度特別に教えて貰ったカフェのレシピでパウンドケーキに挑戦しても、バターと卵が分離して全く混ざらず撃沈し、オーブンの中で膨らまずに型の中が溶けだしたバターの海に沈んだ硬い何かにしかならなかった。
5回連続でケーキではない硬い何かを錬成した時、サリはようやくカフェのレシピを諦めて初心者向けの失敗しにくいレシピを教えて貰うことにした。それでも生焼けや焦がしたりと、懸命に教えてくれた料理長と無駄にした材料たちに申し訳ない結果を繰り返した。
だが、こちらなら硬かったり少し味が寝ぼけているだけで、一応は食べられるものができた。
それを心の支えにサリは何度も挑戦し続けた。
そうして、ついに誰かに食べさせても大丈夫だと合格を貰ったのは三日前のことだった。その後も沢山焼いて、母と弟と父に一杯食べさせた。勿論自分でも食べては、どこが駄目か研究を重ねた。
そうして改良を続けたサリ的最高傑作が今、サリの目の前にあるこれだ。
けれど、やっぱり素人が作ったケーキなんか、教授には似合わないのだ。
(きっとこれは、渡すな、という神の掲示なんだわ)
これまで焼いた中で一番きれいに焼けた気がしたけれど、所詮は素人作。
渡したら喜んでくれるだろうかとか、美味しいと言ってくれるだろうかと散々悩んでいたけれど、多分きっと、グルメな教授の口に合う訳がなかった。
(諦めるきっかけが出来て、良かったじゃないの、サリ)
そうして、サリはすっかりそれを彼に渡す事を、諦めた。
オロオロするクラスメイトに向かって笑顔を作ると明るい声で呼び掛けた。




