第十七話 偉大なる魔法使い・2
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結論としていえば、ヴォーン商会長は左腕を完全には失わずに済んだし、命を繋ぐことにも成功した。
これは元々ヴォーン准男爵家へ届けられた情報自体が間違っていたのだ。
開放骨折ではなく、開放脱臼。脱臼に伴う外傷により、関節の皮膚が破れ外れた骨が外へと飛び出してしまっていたのだ。
勿論、軟骨部分が砕け散り、太い血管を傷つけ、骨を繋いでいる靭帯や筋肉と繋ぐ腱が引き千切られているのである。
骨が折れていようがいまいが大怪我に違いはない。
だが、靭帯というものはふわふわの泡のようなものでできており、切れてから数日以内に縫い合わせれば元に戻ることのできる器官である。切れた腱はまだ繋がっていた腱を長く割るようにして分け、骨に穴を開けて引っ掛けることで、フリッツは再腱術とした。
傷ついてしまった血管も、少し歪にはなったが血液が漏れ出さないように縫い合わせることができたので、激しい運動は出来なくなったし、しばらくは動かしにくいだろうが、患者のリハビリによっては左肘関節の可動もできるようになるだろう。
サリの願いであった左腕に関する処置はそれでいいとして、最も心配されたのは破傷風に対する処置であった。破傷風の潜伏期間は3週間~半月以上と言われる。
碌に手入れもしていない野盗の揮う武器で切られたことにより傷口から入った雑菌の影響ですでに高熱が続いていたが、筋肉の痙攣や硬直といった症状は認められない為、発症を抑える為に破傷風の類毒素を慎重に接種することにした。
毒素を消す処理をしているとはいえ、元々は毒であった薬である。取り扱いには注意が必要で、投与する薬の分量は患者の容態に合わせて、豊富な知識と経験により細心の注意を払って決めなくてはならず、医師たちは緊張感を切らさないよう持ち回りで、患者を二十四時間体勢で観察した。
正に体力勝負だ。
だが、医療知識のない者に任せる訳にもいかず、この場に派遣された医師たちと共にフリッツは交代で見守り続けた。
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「そろそろ替わりましょう」
老医師に声を掛けれて、フリッツは注視していた患者の喉元から視線を外した。
声の主に顔を向けると一瞬視界がぼやける。どうやら視点を一点に集中し過ぎていたようだと頭を軽く振って眉間を揉んだ。
その時、視界に小机に置いておいた時計が目に入り、まだ約束していた時刻よりずっと早いのだと気が付いた。
「まだ朝の交代時間には早いのでは?」
朝六時の約束の筈にも拘らずまだ四時過ぎ。看護師も着いてきてはいなかった。
近隣の都市から速駆けでやってきた老医師がひとり、そこに立っている。
「年寄りの朝は早いですからな。それに、この歳になってようやく御恩を返せると思うと、こう……居てもたってもいられなくなりまして」
真っ白い髪を片手で掻き上げながら照れた様子で笑う老医師が使った、”御恩”の言葉に引っ掛かりを覚えてフリッツは老医師の言葉を待った。
「ここから遠くにある寒村に生まれた少年の話なのですが。その村は貧しく、医者どころか薬師すら碌にいないような土地でした。少年は、喰い詰めた家族に売りに出されたんです。人買いに、という訳ではありません。遠戚の商家へ奉公に送られるところでした。けれど、その送り迎えの労を『道中の手伝いをしてくれるなら』と引き受けてくれたヴォーン商会の行商隊の方から、少年は言葉と計算を教えて貰うのです。そして『なんて物覚えがいいんだ』と才を認めて貰いました。そこからあれよあれよと奉公先がヴォーン商会になっただけではなく、地域の学校で勉強を教わる事が出来た上に、その学校で教鞭を取っていた教師の伝手である家の養子となり、ついには医者の道を選ぶことができるようになったのです」
そうして。今現在も、連日のように村長宅の庭先では老医師が話していたとおりの光景が繰り広げられている。
棒切れを使って地面に文字を書くだけならば特別な教材も何もいらない。
何度でも文字でも数字でも書けて、何度でも消せる。書き直すことができるのだから。
すぐ横で正しい文字や計算を教えてくれる教師役さえいれば十分だとばかりに、子供やかつて子供の頃に教えて貰って以来、遠くなっていく記憶となるばかりとなっていた自分の名前の書き方を教えて貰いにやってくる大人でにぎわっていることを、今のフリッツは知っていた。
「たくさん努力なさったのですね。勿論、素晴らしい才をお持ちになって生まれたのでしょう。天から授けられた才を伸ばす機会に恵まれて良かった」
まるで物語のような人生が始まる切っ掛けをくれた商会へ、今も忘れず一生の恩を感じることができる老医師の心根にフリッツは感心する。
人は不遇の時を過ごしていた頃の話を忘れたがるものだ。その時に受けた恩のことなど忘れてしまい、自分の力でのし上がったのだと信じる。
しかし老医師は、やわらかな視線を眠ったきりの商会長へ注いだまま、ゆるゆると首を横に振った。
「私のことではありません。私の、養子のことなのです。今は隣国へ留学しておりまして、あの子の替わりに私がここへ来ました」
「あの子の幸運の始まりは、下働きとして預かっただけの無学の子供に文字と計算を教えてくれただけでなく、短い時間で才を見出し、それを生かすべく伝手を辿って尽力をしてくれた大人の手があってこそ。あの子の笑顔を見る度に、私もそういった尊敬される存在でありたいと願い、努めてきたつもりです。しかし、これがなかなかどうして難しいものですよ」
ほっほっほ、と老医師は恥ずかしそうに笑った。
だが、とフリッツは思う。
医師の仕事は忙しい。常に新たな情報を仕入れ、それが本物かどうか、役に立つかどうか、役に立つならどんな場合なのかを把握しておかなければならないし、日々、新たな患者が詰め寄せてくる。
そんな日常を過ごしながら身内でもなんでもない相手の未来を探すなど簡単にできることではないだろう。医師という仕事自体が人々を救っているのだ。
更にこの老医師はその少年を養子に迎えている。それで十分ではないか。
「自分の生活の外へと目を向けるのは難しい。それを、商会という営利を追求する存在でありながら変わることなく綿々と続けているヴォーン商会は、あまりにも稀有だ。この国の誇りであると私は常々そう思っているのですよ」
真摯な瞳を、眠ったままの商会長へ注ぐ老医師の言葉のどこにも嘘偽りの響きなどなかった。
自分の知っているヴォーン商会の黒い噂との差に、フリッツは眉を顰めて病室を後にした。
廊下へ出ると、使用人がぱたぱたと近寄ってきた。
「商会長さんのご容体は如何ですか? って。あらやだ。私としたことが。お疲れの先生を労わる方が先でしたね。失礼しました。お茶かアルコールでも如何ですか? その間に、軽食を用意させますよ」
まだ下働きの使用人が数人しか動き出していない時刻だということもあり、フリッツは自室として与えられた客室でも居間でもなく、厨房近くの食事室へと案内された。
そこで温かな茶を貰いながら、その使用人が話す言葉を聴くともなく流し聞く。
「ヴォーン商会の、商会長さんに何かあったなんてことになって、行商中止なぁんてことになったら。私たち地方に住んでる人間はみぃんなオマンマ食い上げちまうからねぇ。ホントに。感謝しかないよ」
ザカザカ、ダンダン。
なにやら賑やかに包丁が何かを刻み、がしゃがしゃと鍋を揮う音がする。
その間も、使用人の口は止まることなく、ヴォーン商会長の命が助かりそうだと勝手に祝い、神と申し訳程度にフリッツ達医師団へ感謝を捧げる。
「はいよ。申し訳ないね、本職の料理人が起きるまでまだちょっと先なのさ。私の手料理だけど味はそう悪くない筈だよ」
用意されたのは具だくさんのスープとバターをたっぷり塗って焼かれたパン、そしてちょっと固焼きになったオムレツだった。
イマイチ滑らかさに欠けるオムレツをパンに乗せ口へ運ぶ。
パンにたっぷり塗られたバターの香りが鼻先をくすぐり、なかなかの味だった。
「ありがとう。おいしいよ」
そう口に出して言えば、使用人は嬉しそうに笑ったのだった。