第十五話 伯爵家の執事と侍女
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「既に荷は積んでおります。さぁどうぞ。このトランクだけはキャリッジの中で大切に保持して下さいますよう。中には教授の診察道具が一式入っております。馬で運んでも大丈夫そうなものだけはご自分で持っていかれましたし、あちらでも同じものを使えるように手配はしておきましたが、手術となると愛用の品が一番ですから」
案内された先にあったのは、今朝ここまで乗せて来て貰ったあの箱馬車とは別のもっと頑丈そうな馬車であった。繋いでいる馬の身体も大きく四頭立てだ。
長距離用の馬車であることがひと目で分る作りになっている。
「はい。お預かり致します。必ず教授に届けます」
すでに座面へ頑丈に固定されている鞄に視線を向けて、サリはしっかりと頷いた。
「王都の西門からは王宮から護衛も付けて戴けるそうです。無事ヴォーン准男爵の下へ辿り着けますように。御武運をお祈りしております」
どこか慇懃無礼なトーマスの言葉をまったく気にすることなく、ミルクティ色の頭が深く下がった。
「何から何まで、ありがとうございます。いってきます」
「っ」
遠くなっていく馬車に、頭を下げることすら忘れてトーマスは経ち続けた。
「なぜ……」
笑顔で告げられたサリからの感謝の言葉には、どこにも嘘や欺瞞の色を見つけることができなかった。
陰湿な嫌がらせでアーベル=シーラン伯爵家を爪弾きにしている元凶である令嬢が、その相手の屋敷であれほど自然に笑えるのは何故だろう。
「シーラン伯爵家へ嫌がらせをしているのがヴォーン商会じゃないからですよ」
屋敷へ戻ろうとしないトーマスに、侍女のニーナがそれを告げた。
ゆっくりと振り返るトーマスへ向けて、最近採用したばかりで真面目に仕事を熟す素振りすらみせない生意気な新入り侍女が続ける。
他に仕事のできる使用人が入ってきたら即刻クビにしてやろうと思っているその侍女が、生意気にも冷たく蔑んだ色を乗せて決めつけてきた。
「王都内で生まれ育ってると、田舎の暮らしがどれほど大変なものかなんて文字でしか知らないでしょう」
トーマスは代々アーベル侯爵家へ勤めている譜代の生まれだ。
王都以外の暮らしを知らない訳ではない。だが裕福なアーベル侯爵家の領地での暮らしは王都と遜色なかったし、ニーナの言葉を否定するには弱い事を知っている。
「村全体で保持してる塩がひと匙を切った時の心細さがどれほどのものかわかります? 塩をとらないでいるとね、最初はものすごく怠くなる。体のあちこちでこむら返りが起こって、最後には心臓が止まってしまうんですよ」
突然、普段は無口な侍女の口から語られ始めた恐ろしい死に方を話されて、トーマスはどう反応していいのか判らなかった。
そんな田舎での恐怖話がどうサリ嬢が呑気に笑える理由に繋がるのかも理解できなかった。
しかし、切り捨てて立ち去る気にもなれずに耳を傾ける。
「塩不足だけじゃない。病に罹った時に医者もいなければ薬もなく、ただ神に祈ることしかできない家族の苦しみ。勿論、いつ自分に同じ症状が出るかもわからないんです。それを救ってくれるのは役人やお貴族様なんかじゃない。ヴォーン商会の行商人たちなんです」
「!!」
「国じゃないんです。どんな山奥でも、なんにもないような辺境の奥地にだってヴォーン商会の行商人は来てくれるんです。ヴォーン商会だけが来てくれるんですよ。この意味が、わかりますか?」
「……し、仕事熱心だな。金儲けの為ならどんな苦難も乗り越える。商人の鑑だ」
褒めるべきなのはわかっていた。だが、主と敵対している商会を素直に褒める気になれなかっただけだ。
しかし、そんなトーマスの心情を一切斟酌することなく、侍女はばっさりと切って捨てた。
「バッカじゃないんですか? 金儲けに直結してる訳ないでしょ。僻地の人間が、高級品を買う金なんて持ってる訳がないでしょ」
吐き捨てられて、気が付いた。
当然だ。儲けを得る為だけならば、王都で高級品を1個売った方が早いということくらい、簡単に想像がつく。
辺境まで商品を届ける為の労力だって馬鹿にならない。ある程度の商取引が見込める程度には栄えていない限り、遠路はるばる訪れるだけの利益が見込める筈はないのだから。
考えれば考えるほど割に合わない、それが僻地への行商廻りだ。
「ヴォーン商会は物を売りに来るだけじゃない。各地で作った品物も買い取ってくれるんです。時には増産する手立てを一緒に考えてくれたり、タッグを組めそうな他の地域の産業を紹介してくれさえするんです。興味があって永住してくれそうな若い人を連れて来てくれたりもするんです。買い叩いたりもしません。ヴォーン商会で取り扱っているのを見て他の商会が取引にくることがあっても大抵は話にならないほど安い金額を提示されるんですよ。『ここまでの往復する為の費用だって馬鹿にならないから』と言ってね」
いつも怠そうにしていてやる気の薄い新米侍女が、するどい視線を送って語り続ける敵への称賛の言葉を、トーマスはそれでもなにか突けやしないかと苦心した。
「そう、なのか。だが、王都では仕入れ値に対して更にふっかけるような値段を設定して儲けているんだろう?」
「当たり前じゃないですか。仕入れ値に運営に足りるだけの色を付けて売り捌くのが悪徳商法だっていったら、悪徳じゃない商人なんてゼロですよ! というか人件費と商会の運営費は地から湧いて出てくるとでも思っているんですか? 仕入れ値より安く売るなんて、どんな慈善事業ですか」
思わず出てしまった言葉ではあるが、あっさりとニーナから論破されてしまったトーマスは顔が赤くなった。
確かに批難どころか当て擦りにすらならない言葉であったと恥じ入る。
「そんな風にですね、ちゃんとした取引相手として仕入れてくれるヴォーン商会がいたから、私みたいに、辺境からでてきて学校へ入って生活できるようになれた人間も出てくるんです。誰かひとりに責任を負わせて、村で出来たものを街まで運んで売った金で塩と薬を買ってこいとか言わなくて済むようになったのだって、ヴォーン商会のお陰なんですよ。この王都にはね、そういうヴォーン商会のお陰で生きてこれたんだって感謝を捧げている人間が、いーっぱい住んでいるんですよ」
実際に、ニーナとその家族もそのひとつだ。
とはいっても、話はまるで昔話並みに遡る。まだニーナの父も生まれていない頃の話だ。
ヴォーン商会の行商先として認知されていなかったその小さな村では、年に数回、山で採れた薬草から作った薬や陽が沈んでから作った織物を街まで運んで売り捌き、その金で塩や酒などを買って帰ってくる役目を、若い衆が順繰り行ってきた。
しかし、ある時お役目が回ってきたニーナの曾祖父の兄であったというその人は、村の代表として向かった街の娼婦に嵌って売上金を全て注ぎ込んでしまったのだ。
当然だが、何時まで経っても塩は届かず、様子を見に行った村人は事実を知って怒り狂った。
村の者の怒りは大伯父だけではなく、村に残されたその家人に対しても向けられた。ニーナはその家の子供として、村八分とまではいかないが、折に触れては話題にされて辟易として生きてきた。
けれど、この件で街へと探しに向かった村の人間がヴォーン商会の当時の行商人と知り合うことができたのだ。行商先としてルートに組み入れて貰えるようになり、村から街まで商品を売りに行くこともしないで済むようになったし、街で売るより高額で買取して貰えたので生活はむしろ楽になったという。
多分きっと、ヴォーン商会が行商先にしてくれなかったら、ニーナの家は本当の村八分にされていただろう。
「……」
トーマスの真正面に立ったニーナは、どこか挑戦的な笑顔を向けて、それを伝えた。
普段の無気力な仕事っぷりとは、まるで別人のようだ。
多分ずっと、彼女はこれを、トーマスだけでなく、フリッツにも言いたかったのだろう。
もしくはこれを言う為に、使用人がぽろぽろと辞めていくこの屋敷で職を求めたのだ。
「そういう人間がね、大恩ある家のお嬢さんを誹謗中傷して傷つけたような相手と商いをしようなんて、思う筈ないじゃないですか」