第十四話 アーベル=シーラン伯爵家の人々
■
そうして、そこから先の教授の働きは、サリの想像を遥かに超えていた。
王宮と連絡を取り、アーベル侯爵家や学園内の伝手すべてをフルに活用して、ダル・ヴォーン准男爵が運び込まれた村を探し、とにかく緊急処置を施せる医療知識のある人員を送り込み、できるならば設備の整った場所へ移動。無理ならその場で延命措置をと矢継ぎ早に命令を飛ばすと、自らも急ぎ向かう。
フリッツの選んだ移動方法は馬だった。
薬や機材などは既に手配してあったので、本人が向かうのに一番時間が短く済む方法をということらしい。
「君は、我が家の馬車に載って後から来るがいい。トーマス、新しい婚約者の事を頼んだ」
「承ります」
あっという間に馬上の人となり、その後姿すら小さくなっていく人を、サリは祈るような気持ちで見つめていた。
「さぁ。まずは腹ごしらえをなされませ。その間に、数日間は泊る為に必要そうな荷物を詰めておきます」
トーマスの提案に、サリは素直に頷いた。
サリは、今の自分にできることは教授の指示に従うことだと覚悟を決めた。
信じて任せるということは、そういうことだ。異を唱えるなど相手と自分の時間を無駄にする自己満足なだけの行為だ。
侍女の案内で朝食室へと入ると、すぐに温かなオムレツとドレッシングの掛けられた生野菜のサラダが届く。パンも温め直してあるのか表面がパリっとしていて美味しそうだ。
食欲はまったくなかったが、確かに最後に食事を取ったのは昨夜の夕食だ。
サリは優雅な手付きでカトラリーを手に取ると、黄金色のたまごにナイフを入れた。
オムレツの表面は美しい焼き色がつき、中はトロトロしていた。バターの香りを纏ったそれを、口へと運ぶ。
「このお屋敷の料理人の方は素晴らしい料理技術をお持ちなのですね」
覚悟を決めたとはいえ、始まりこそ食欲なさげにもそもそと食べ始めたサリだったが、ひと口そのオムレツを口に入れた途端、瞳が輝きだした。
次いで手に取ったパンにも目を見張る。
「パンも、この小麦粉の種類でこれだけの食感を生み出すのは相当大変なはず。湯ごねでしょうか。発酵時間もかなり長めに?」
ただ食べるだけでなく、目の前で千切ってはその音を確かめたり、クラムの裂け方や弾力を確認しては、その度に瞳をキラキラさせている。
そんなサリに、本当は文句の一つも言ってやろうと思っていた調理長もすっかり自慢げで気を許しているようだった。
「判るか! そうだ。酵母が死なないギリギリの温度まで温めたミルクを使って捏ねているんだ。もっちもちの生地になる。それと発酵は2回じゃなくて3回空気を抜いてはさせているんだ」
「3回?! それだけ手間暇と愛情を掛けて育てられているのですね」
サリは美しい。
作りだけ見れば平凡といえる。瞳が特段大きい訳でも、唇が蠱惑的なラインと描いている訳でもない。平素の時の瞳の色は落ち着いた青で、この国では珍しい訳でもなかった。
だが、新しい知識に触れた時や職人の技を見た時などの生き生きとした表情は誰もがまた会いたい見ていたいと思わずにはいられない。輝きがあるのだ。普段のぽやんとしたお人好しな性格との落差もあって、その表情に惹きつけられた職人たちは国内各地に存在していた。
「サリ様。準備が整いました。馬車までご案内いたします」
急いで準備を済ませたトーマスが、サリを送り出すべく朝食室へと足を踏み入れた時、サリと料理長はパンをよりおいしく作る為の改良点を話し合っているところだった。
「なるほどなぁ。バターミルクの方が重くなりすぎなくていいというのはあるな」
「えぇ。勿論モチモチとした食感を出したいならミルクの方がイイと思いますが、クロワッサンなどの軽さが欲しい生地にはバターミルクを使った方が合うと思います。香りもいいですし」
「使い分けが肝心って事だよな。一辺倒っていうのは確かに良くない」
「ただ、個人の好みの差というものはありますから、試してみて実際の味を確認なさってからにして下さると嬉しいです」
「おう、サンキューな。サリちゃん。おとうさん、助かるといいな」
「ありがとうございます。教授がついているのですもの。父は大丈夫だと、信じております」
和気あいあいと調理に関する情報交換をしていたらしいふたりの様子に、トーマスは一人憤慨していた。
「サリ様。どうぞお急ぎください」
重ねて急かせば、後ろにいた料理長へ頭を下げながら着いてきた。
「失礼しました」
先ほどまで、トーマスの主人に見せていた態度とは明らかに違う呑気な態度が腹立たしかった。
なによりも、侍女のニーナだけでなく一緒にヴォーン商会のやり方に憤慨していた筈の料理長までがあっさりと目の前の娘の手管に陥落したという事にも。
あれほど、「怒るのは当然だろうが、やり方がえげつない」「爵位への敬意が足りない」と一緒に怒っていた筈なのに。なぜこうもあっさり許してしまえるだろうのか。