第十三話 突然の婚約
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「では、結婚して貰おう」
「はい、わかりました……え?」
どんな条件であろうとも即受け入れようと思っていたベサリは、自分が了承したその内容に、あっけに取られた。
目の前の教授が皮肉気に哂っていた。
その表情に、燃えるように熱くなった頭がさっと冷えた。
「え……あのっ。け、ケッコンですか? どなたとどなたのものでしょうか。いえ、教授と婚約者であられるピアリー侯爵家の長女マリアンヌ様との婚姻式の準備ですね。そうですよね。ハイ。ヴォーン商会の名に懸けて最高の式とできるよう、全力全霊でお手伝いをさせて戴きます!」
サリは、ほんの一瞬、自分が教授と結婚するように言われたのかと誤解してしまったことが、目の前の人にバレたりしませんようにと天に祈った。
恥ずかしい勘違いをしたことを晒してしまうところだった。
口に出してしまう前に、婚約者のピアリー侯爵家の長女マリアンヌ様のことを思い出せて良かったと、心の中で情報通な友人エブリンへと感謝を捧げる。
社交界の華と名高い美しいマリアンヌ様と、偉大なる魔法使いフリッツ・アーベル=シーラン伯爵との婚姻式。
その式の準備を任せられたということは、きっと、ヴォーン商会との和解をして下さるという証だ。
商会長である父が、アーベル侯爵に相談に行ったのは半月ほど前の事だ。
「すぐに息子を諭しておこう」と返事を戴いたと帰ってきたけれど、その後は特に進展もなく、このままうやむやになってしまうのではないかとサリの家族は思っていた。
そもそも、誤解が解けたところで伯爵位にある教授が、准男爵家でしかないヴォーン家に対して頭を下げる訳がないのだ。
なんとなく避け合いながら。表立って対立することなくそれぞれ相手のテリトリーに立ち入らないことでやり過ごすことになるのだろうと、漠然と思っていたのだ。
それが、これほど華々しく正に和解の証とばかりに教授の婚姻式を取り扱えるならば、最高ではないだろうか。
勿論、式に掛かった費用は一切請求するつもりはない。父の命を助けるべく努めて貰えるならば安いくらいだ。
何故だかサリは、教授さえその気になってくれれば父は助かるのだと信じていた。
おふたりの婚姻式を一切合切取り仕切るとなれば莫大な額の大赤字となるが、宣伝効果だってある。
なによりそれで父の命が助かるならば万々歳だ。
サリは高速で頭を働かせながら、ひとり頷いていた。
あとは、この後どうやって父の待つ隣街へ教授と一緒に向かうかと、どれ程で準備ができるかの打ち合わせをすること、そうして、もしそういった段取りを組んでいる内に(考える事すら嫌ではあるが)父の訃報が届いたとしても、この婚姻式への協力はやり遂げることを伝えて……そんな風にひとつずつ頭の中で確認をしていたので、その教授の言葉をよく聞き取れなかった。
「何を言っているんだ。僕には婚約者などいない」
「はい? え、……え?」
思わず聞き返したサリの前で、教授の長い足がプラプラと揺れていた。
先ほどまで姿勢よく正しく座っていた筈の教授が、足を組んで姿勢を崩していた。
「え?」
重ねて聞き返してしまったサリに向けて、教授が鼻で哂った。
「お陰様でね、今朝早々に婚約を破棄されたばかりなんだ。君達、ヴォーン家のお陰でね」
「!!!!!!!!!」
思わず上げてしまいそうになった悲鳴を、両手で口を塞いだ。
「何故、我がヴォーン家のせいだと……」
サリは、震える声で問い掛けた。
とてもお似合いの婚約者であったと、エブリンが教えてくれたのは何時の事だったろうか。
麗しき社交界の華と呼ばれているピアリー様。侯爵家のご令嬢。
一代爵でしかない准男爵の付け焼刃なサリとは同じ貴族家の令嬢などと並べることすら不敬だ。まさに別格。格が違い過ぎる。
「彼女がそう言いに来た。僕が、君の家の闇に関する事実を指摘し、それを撤回しなかった事で彼女の家まで不利益を被ることになった、とね。僕の実家に圧力を掛けただけでは満足できなかったようだね。彼女の家にまで金でものを言わせるような真似を、よくもしてくれたものだ」
そう詰られたが、サリは、なにを言われているのか全くわからなかった。
父が何か手を廻したのだろうか。そう思った。
そうだ、今はサリ自身が納得するより先に考えなくてはいけない事がある。
父であるダル・ヴォーンの命を救う為にも、目の前のこの魔法使いの魔法の手が必要なのだ。
なんとしても、助力を得なければ。
「さぁ。『私にできる事でしたら、何でもする』んだろう? つまり、異論はないということだ。そうだろう?」
サリの大きく開かれた瞳が、教授の皮肉気な光を帯びた灰色の瞳を見返していた。
「式はあと半年後、卒業直後だ。君も高等部の最終学年であるのだし、その頃には十八歳になっているだろう? あぁよかった。おめでとう。婚姻可能になっていて嬉しいよ。式場は皆の憧れである大聖堂を抑えてある。王太子殿下の御口添えを頂いて叶えた日程だ。穴を開ける訳にはいかない」
途中、年齢について聞かれて頷いた動きを見せた以外は時が止まったように動けなくなったサリから、一瞬も視線を外すことなく言葉を続ける。
「君が、准男爵であろうと貴族家に籍のある令嬢で嬉しいよ。さすがに貴賤結婚を選ぶ訳にはいかないからね」
組んでいた足をこれみよがしに大きく振り上げて解くと、教授はおもむろに立ち上がり、サリの手を取った。
「今の私に、婚約者はいない。だから、安心して嫁に来てくれ給えよ。君」
サリの手へ、教授の冷たい唇が落ちる。
そうして彼は、にいっと哂った。
それは、苺の乗ったケーキを見つめる時の甘く蕩ける様なそれではなく、冷たい嘲りの笑みであった。