第十二話 交渉
※サリ視点に戻ります。
■
「なんでも。私にできる事でしたら、何でも仰って下さい」
誤解している相手へ、その誤解を解く事すらできずに和解すらままならない状態で助けを求めるなど無謀にもほどがあると、母は教授への申し出を最初から諦めていた。
しかし、どうしてもサリには諦めきれなかった。
あれだけ美味しそうにケーキを食べる人が、悪人だとは思えなかった。
丁寧な手付きで美しくケーキを切り分け、愛しそうに苺の乗ったケーキを見つめ、頬張る人。
あの手なら、きっと父を助けてくれる。
夜が明けきる前に駆け込んできた使用人が持ってきた手紙を読んで、母は卒倒してしまった。
すぐに気を取り直したのか起き上がったものの、その後もオロオロとするばかりだった。
『新しい織物の技法が編みだされたんだよ。すぐにでも行ってこの目で確かめたい』
楽しそうに、素材として映えそうな糸各種と人気の図案と競合になりそうな布地の見本帳、ついでに売り物にできそうな商品を荷台に詰め込んで、父が出掛けて行ったのはつい一昨日のことだった。
サリと教授の事で気に病んでいたようだったが、見本の端切れを受け取った父がそわそわしている背中を押したのはサリだった。
『アーベル侯爵様にお願いしたのですもの。これ以上、私達からできることは無いもの。それに、こういった諍いは、焦ってもいい事はないでしょう?』
どれだけ、そういって送り出したことを後悔しても、遅いのだ。
すでに父は左の腕を切られてしまった。
どんな状態なのか。どんな治療を受けているのか、サリには想像しかできない。
だが、手紙にあった「なんとか近隣の村まで移動したが、発熱と出血がひどく、これ以上の移動は難しい。ご家族にはここまで来て欲しい」という文字がどれだけ緊急事態なのかを表わしている。
つまり、今生の別れに来いと言われているのだ。それを覚悟するようにという通達。それがあの手紙だ。
――もしかしたら、もう既に父は旅立ってしまっているのかもしれない。
そう考えるだけで、サリは頭が真っ白になって動けなくなりそうになる。
けれど、まだ幼い弟と、手紙を読んだだけで倒れてしまった母を守れるのは自分だけなのだと自らを奮い立たせた。
母と弟には先に父の下へ行って貰った。
「姉さまも一緒にいきましょう」弟に縋られ、母にも一緒にいこうと言われたが、そこに可能性がほんの少しでもあるならば、サリは教授に賭けてみたかったのだ。
そうしてサリは、教授の御屋敷へ向かって、取るものもとりあえず駆け出したのだ。
ヴォーン准男爵家で持っている馬車は一台だけだ。
そのたった一台の馬車は母と弟に乗って行って貰った。だからサリは自分の足で走るしかない。しかし、商会の仕事を手伝ってはいるが所詮書類仕事でしかないサリの体力は一般的な令嬢よりちょっぴりだけ上だというだけだ。すぐに息が上がり足も重くなっていった。
従業員にお願いして、商会の馬車を使わせて貰うべきだっただろうか。
それとも貸し馬車をお願いするべきだったろうかとサリは泣きそうになりながらも、懸命に足を動かした。
だから、もう少しで教授の御屋敷だと思ったところで、角から出てきた馬車の小窓から気難しい顔をした教授の顔が見えた時には、まさに天の助けだと思ってしまったのだ。
普段なら決してしない、走り出している馬車に駆け寄るような真似をしてしまった。
更に、自分が汗と涙でべとべとになっている自覚はあったにも関わらず、いつものようにピシッと完璧な着こなしをしている教授の足元へと縋りつき、理路整然とはあまりにも言い難い言葉で順序だてることすらせずに願い事を口にしてしまった。
令嬢として恥ずかしい行為としか言えない。
蔑みの視線をたっぷり浴びせられて当然の行為だ。
なのに。
教授はサリを馬車に載せて屋敷へと連れて帰ってくれただけでなく、身繕いをさせてくれた。
本当は、すぐに話を聞いて欲しいと願ってしまったが、自身が混乱したままでは説明もままならなかった。
あのままのサリが相手では埒が明かなかっただろう。一旦、気持ちを落ち着かせることが出来たお陰で、この後の交渉もスムーズに進めることができる、筈だった。
それなのに。金銭での交渉をあっさりと拒否されてしまったサリは途方に暮れた。
商人の娘であるサリには、金銭の授受以外に交渉の術を持っていないからだ。
想定外すぎる教授との交渉。けれど、これを成す為に、サリは王都に残ったのだ。
目の前の教授は、サリからの提案ともいえない提案をどう受け止めようか思案しているようだった。
サリの覚悟を確かめようとでもいうのか、じぃっとサリの瞳を覗き込んでいる。
教授の灰色の瞳に見つめられると、自分でも知らない自分を見透かされそうというか、隠しておきたい何かまで全てが見通されそうな気がして、視線を逸らしたくなる。
けれど、ここで逸らしたら、負けなのだ。
絶対に逸らしたりするものですか。
教授からの協力を得る為にも絶対に退かないのだと、サリは決意を新たに両の拳を握りしめた。




