第九話 怒涛の様な婚約破棄
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「よくもヴォーン商会に告げ口をしてくれたわね! お陰で我が家まで爪弾きよ! 高級品が、なにひとつ手に入らない生活をする羽目になったわ。どうしてくれるのよ」
いつも綺麗に整えられていた髪をぐちゃぐちゃを掻き回しながらマリアンヌが大きな声で批難する様を、フリッツは呆然として見ていた。
輝くような黄金色の髪をしていた筈なのに、混ぜられる度に見え隠れする内側の髪は焦げ茶色だ。色がまばらになっていて、みっともない。
ついそう考えて、なにかの病気かもしれないとフリッツは医師としての顔に戻る。
「どうしたんだい、マリアンヌ。おかしなものでも食べたとか?」
我ながら間抜けな質問をしている。そう思うものの、髪の色が斑になるような疾患を思いつくことができないのだから仕方がない。
「お父様からも、お兄さまからも叱られたわ。お母様には泣かれてしまったし。ユージーンのお店も仕入れに苦慮して立ち行かなくなってしまったわ! どうしてくれるの。全部全部、貴方のせいよ、フリッツ・アーベル=シーラン伯爵! あることないことヴォーン商会でぶちかました挙句、アーベル侯爵家で吹聴してきたそうね。全部撤回してきなさいよ! 私は関係ないって今すぐ言ってきて!! ユージーンも無関係だって説明してきて! 今すぐよ! それと、この婚約は破棄します。貴方の有責でね! いい? 二度と連絡してこないで下さいな」
途中で出てきたユージーンという聞きなれない名前にフリッツが首を傾げると、横にいたトーマスがこっそりと「マリアンヌ様お勧めのドレス工房のオーナーでございます」と教えてくれた。なるほど。
言いたいことだけ言い切って、一切の質問を受け付けないままマリアンヌは朝食室から出て行った。
正に、嵐のようだった。
「僕は今、婚約を破棄されたのか?」
「そのようでございますね」
呆けたフリッツの呟きに、トーマスがあっさりと了と答えた。
「何故だ?! 五年も黙って僕が研究を続けるのを待っていてくれた、健気な婚約者が。ようやくその献身に答えようと彼女の求めるままに豪華な婚姻のお披露目準備をしている最中だというのに! 大聖堂で式を挙げたいというから王太子殿下の御口添えまで戴いてようやく日程を抑えたんだぞ? おかしいじゃあないか」
フリッツの言葉に、トーマスは「大聖堂を、ですか。あの毒婦の為に……」と呆然とした様子で呟いたのだが、トーマスに問い掛ける形を取ってはいたが実際は自分へのものだったのだろう。その呟きをフリッツが拾い上げることはなかった。
コホンと小さく咳ばらいをして仕切り直したトーマスは、けれども自らの所見を正しくフリッツへと届けることにしたらしい。
「大聖堂はともかく……それ以外の部分でもう旦那様には、マリアンヌ様が求められているような誰もが羨むような豪華な婚姻式を用意することも、その後の生活において以前の様な何ひとつ不自由も不満も出ないような素晴らしいレベルを維持することもできないと判断されたのでしょうね」
姿勢を正し、トーマスが一気に伝えたその言葉の内容に、フリッツは目を見開いて驚いた。
「何故だ? 僕に金はある!」
「左様です。お金はありますね」
「なら、なんで何ひとつ用意できないんだ? おかしいだろう!」
思わずといった態でフリッツがテーブルを叩いた。
ガチャン、と大きな音を立ててまだ珈琲の入っていたカップが弾みで床に落ちた。
お気に入りの金彩のカップであったのに。真っ二つになったそれを呆然と見下げるフリッツの前にトーマスは跪いて割れた茶器を片付け、持っていた布巾で緞通を押さえた。
「旦那様、少し移動して頂けると作業がし易いのですが」
「あぁ、すまん」
着替えたばかりのスーツの裾にも珈琲が掛かってしまっていることに気が付いたフリッツは眉を顰めた。
どうも、やる事なす事すべてが上手くいかない。
「朝食はもういい。スーツを着替えねば。それが終わったら出掛ける」
「はい、旦那様」
テーブルの下から頭を上げようともしない執事の態度に不満が募る。
しかしフリッツ自身が仕出かした失態である。ここで更に怒るのも気が引けて、フリッツは黙って朝食室から出て、自室へと戻った。
ズボンの裾が濡れていることが気に掛り、つい視線が下へと下がる。
階段に敷き詰められた緞通の、模様が常よりぼやけて見える。
そういえば手摺もどこかザラッとした不快な手触りがして、思わずフリッツはそこから手を離してパッパと手を叩いた。
見回してみると、この屋敷を手に入れた時に全て蝋燭の燭台から入れ替えた自慢のオイルランプの傘も、実家から贈られてきたアーベル侯爵家の家族全員をおさめた肖像画のフレームも、どこか煤けて見える。
全体が、妙にくすんで鈍色染みているのだ。
「なんということだ。料理長だけでなく統括であるトーマス自身がサボっているのか!」
フリッツはどこか腑に落ちたような、けれどもまったくもって納得できないような落ち着かない気分になりながらも自室へと急いだ。
そうして、トーマス自身から説明の続きもフリッツの疑惑に対する申し開きも聞くことができないままに、やる気の無さそうな新米侍女に梃子摺りながらなんとか着替えを済ませると、もう屋敷を出て学園へと向かわねばならない時間になっていた。
「帰ってきたら、ゆっくり話をしよう。料理長にもそう言っておいてくれ」
玄関先まで見送りに来たトーマスへそう告げて、返事も待たずに足早に馬車へと乗り込んだ。