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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

とある事務員さん達シリーズ。

とある事務員さん達の話その9。

作者: 琴鈴



「何か弾いて欲しいのか?」


背後から声をかけられて、ようやく我に返った。

大型の家電量販店。最近一人用の炊飯器ではどうにも容量が不足する事態に陥ることが増えてしまって、思い切って買い換えようとこうして休日にその元凶と一緒に買い物にきたのだけれど。

ふと、立ち止まってしまった電子ピアノのコーナー。いつか聴いた音が脳裏に流れて、ぼんやりとしてしまっていたらしい。

振り返った僕とその背後にあるピアノに先輩は視線を巡らせる。

「で、何弾きゃいいわけ?」

「……弾いて、くれるんですか?」

人前では弾きたがらないどころか、弾けることすら周りには隠していたのに。

信じられない、とは口に出さなかったけれど顔にはしっかり出てしまっていたらしい。先輩は苦笑いを浮かべながら、僕の隣に歩み寄る。

「意外だとか似合わないとか、うるせーから他人に聞かせたくないんだよ。……だから、別に今日は弾いてもいいんじゃね?」

「それって……」

僕が揶揄しないから?

それとも――

答えを問う前に先輩の指が鍵盤をすべって、指ならしなのであろう和音が響いた。

「一曲だけな。」

口元にうっすら笑みを浮かべて。

数ヶ月前。記憶の中の彼も確かそう言って弾いてくれた。でも、記憶の中の彼は面倒くさそうに眉間に皺を寄せていて、そんな優しい顔をしてはいなかったはずなのに。

「あ、えっと……」

言葉に詰まった僕を、先輩はじっと待ってくれている。

なんだ、これ。胸の奥にあるむず痒い気持ち。

「あの……また、一緒に弾きたいなって。」

思いきって告げてみても、先輩は表情を崩さなかった。

「この間一緒に弾いてもらったの凄く楽しくて。……まぁ、その、弾ける曲なんてほとんど無いんですけど、」

あの時、この人の隣でこの人と一緒に音を作ったわずかな時間。いまだに覚えている、あの高揚感。

またいつかそんな事ができたならと思っていた。弾きたがらない先輩に、こんな事絶対言えないだろうと諦めていたのだけれど。

「別にいいけど。お前何弾ける?」

まさかすんなりと承諾して貰えるとは思わずに、拍子抜けしてしまった。自分で言っておきながら返答に詰まってしまう。

「すみません、本気で小学校で弾いたくらいのレベルのものしか……」

記憶の中でピアノと触れ合った時のことを思い起こしてみるものの、やはりまともに弾いた経験などほぼ無いに等しい。

せっかくのチャンスなのに、なぜ今まで自分は音楽をやってこなかったんだろう。後悔しても遅いのだけど。

「チューリップとか、かえるの歌とか、きらきら星とか。そんなレベルです。」

「じゃ、それで。」

「へ?」

弾いてみろと促されてわけもわからず目の前の鍵盤にそろりと指を走らせる。


ド ド ソ ソ ラ ラ ソ


誰もが知ってる有名な旋律。ピアノですらない、鍵盤ハーモニカで幼いころに弾いた曲。ひとつひとつ確認するように指で押さえていけば、先輩が身を寄せてきて、拙い演奏を覗き込んできた。

そうして肩が触れ合ったと思った瞬間、オクターブ高い音が飛び跳ねるように空気を震るわせる。

「あ、」

自分の稚拙な音に重なって、澄んだ音が響く。

きらきら星変奏曲。そうだ、原曲は確かそんな名前だった。

先程弾いたフレーズを繰り返せば、隣で響く澄んだ音が稚拙な音を拾って、広げて、重なって。一つの音楽が広がっていく。

あの時と同じだ。駅の片隅で音を重ねたあの時と同じように、この人の隣で、この人と一緒に音を生み出している事実。胸におしよせてくる高揚感。

けれど、以前とはどこか違っていた。


「ほら、次速度上げろ。」

「はい。」

視線を向ければ、そこには見つめ返してくれる優しい瞳があって。楽しそうに弧を描くその口元に、こちらもつられて口角が上がって。

触れ合う肩の温かさとか、息遣いとか。この人が隣にいてくれる、その安心感。

以前と同じように、けれど以前にはなかった感情がぎゅっと胸の奥を締めつける。

お世辞にも上手いとは言えない演奏。めちゃくちゃなリズムで同じ旋律を繰り返しているだけなのに。隣にいる存在が、同じ事の繰り返しを全く違ったものに変えてくれる。

いや、変わっていたんだ。この人の隣にいて、少しずつ確実に自分の中の何かが。

音が、世界が変わっていく。


これで最後。互いに視線で合図して最後の一音を弾けば、それは綺麗な和音となって心地よく空気を震わせ消えていった。

鍵盤から指を離してふぅ、と息を吐けば、途端に店内の喧騒が戻ってくる。

もう少し余韻に浸っていたかったけれど、先輩は電子ピアノの電源を早々に落としてしまった。

「そろそろ行くか?」

こちらに向けられる優しい笑み。

ああそうか。この人は隣にいてくれて『次』はまたいつでもあるんだ。

当たり前の事に今さらながらに気がついた。

この人はもう、僕の中でそんな存在なんだ。


「やっぱり僕、恭一郎さんのピアノ好きです。」


素直にそう告げれば、先程まで鍵盤に触れていた手が、僕の髪を優しく撫ぜる。

「ピアノも、だろ?」

くすくす笑いながら耳元で囁かれたので、ぴんっ、と指でおでこを弾いてやった。

「ほら、いきますよ。」

「へいへい。」

照れ隠しに歩き出せば、恭一郎さんは隣に並んでついてきてくれる。

「……また、弾いて下さいね?」

「へいへい。お前も弾くならな。」

「ううっ、……練習します。」

この人の隣で、一緒に。

ちょっと本気でピアノを始めてみようと思った事は内緒にして。

チラリと振り返って沈黙した電子ピアノを一瞥してから、僕達はその場を後にした。







「……まぁ、置けないこともないか。」

つられて後ろを振り返った恭一郎さんが何やら呟いていたのだけれど、僕がそれを知るのはもう少し先の話。




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