6.「北への旅」
●【6.「北への旅」】
フィンは雪の中を一人歩いていた。
首都ゾーラから北上し、半日かけてミヅキ国に入った。
ミヅキの北の国境の街トトで一泊し、防寒具と食料を買った。
朝早くにトトを出てからソラリア地方へ向けて街道をホロ方面に向かって歩き始める。
季節は春。
芽吹いたばかりの新緑が鮮やかなソーナや、春の盛りであるミヅキのアヴェリアには花が咲いていたのに、トトに入る頃には残雪がちらほら見かけられるようになった。
さらに北に進むと雪景色が増えてくる。
季節は春から初夏に向かおうかというのに、まるで季節を逆行しているようだとフィンは思った。
ソーナを出た時は薄いローブ一枚で歩いていたが、ホロ領に入るとマントをつけなければ寒くて凍えそうだった。
トトで買った純白の雪狼の毛皮の手袋と皮のブーツ、そして雪避けのフードを被ってもまだ寒い。
ミヅキの国境は既に越え、見渡す限りの雪の原野が続く。人家もまばらで旅人の助けとなる竜王堂もこのあたりは少ない。
ようやくたどり着いたのはソラリア連山の麓の町ベカンベー。
ホロ国境の街でもある。
ホロの首都、ユズリカムサへ行くにはソラリア連山の最高峰、サマクイルを超えなければならない。
昔はこの山を越えるのは命がけだったが、最近は安全な登山道が整備されている。
ただし、冬季に限りこの道は完全に閉鎖され、一部のルートを除いては冬季のユズリカムサへ行くには一旦ホムルへ行き、ホムルの南部、ベベールの港から出ている船に乗り、海路で行く以外の交通手段はない。
遠回りになる海路をいけばホロまで軽く一ヶ月半はかかってしまう。
しかし、今は春。冬季閉鎖は解除され、サマクイルの登山道を通ることができる。
登山道はサマクイルの中腹を回り込むように平坦で落石や雪崩の少ないルートが用意され、登山道を外れない限り安全にユズリカムサへたどり着ける。
ベカンベーの街で少しの金を支払えば、山を降りるまで、道案内がついてくれる。
国を出るとき、父母はフィンに結構な額のお金を持たせてくれたので、フィンは道案内を雇うことにした。
ベカンベーの街で一泊し、フィンは翌朝早く、ホロ人の道案内の男と共にサマクイルに向かった。
道案内の男はチニと名乗った。
チニは一頭の立派なユクルを連れていた。
ユクルは雪深いホロでの主な交通手段だ。
都市部なら馬で充分だが、馬では走れない雪深い山間部や、道の整備されていない辺境の街道や集落の近辺を移動するならユクルを使うしかない。
ユクルは馬よりも大きな巨大鹿で、全身分厚い脂肪とふかふかの暖かい被毛に覆われている。背の部分は黒と茶の混じった美しい色で、所々に白い斑がある。
そして、ねじれた三本の角が両耳の側と額の中央に生えている。雄は大きな角で、雌は小さな角で耳の両側の二本しかなく、中央の角がないので性別の見分けはすぐにつく。
「ユクルが珍しいかい?坊ちゃん」
初めてユクルを見たフィンが物珍しそうにしていると、チニは笑ってそう言った。
「はい……図鑑で絵を見たことはあるけど、本物を見るのは初めてです」
「そうかい。ユクルは大人しいから怖くねえよ。触ってごらんなせえな」
フィンは言われるがままおそるおそるユクルに触ってみた。
羊毛のような目の詰まった被毛はとてもいい手触りだった。
「こいつの名前はノカってんだ」
「ノカ……」
ノカと呼ばれたユクルは、大人二人が楽に乗れそうな大きさの立派な雄だった。
「坊ちゃん。ノカにお乗りなせえ。楽に山の向こうまで運んでくれる」
「これに……?」
「そう。歩いてもいいけど、坊ちゃんの足じゃ今日中に山は越えらんねえからな」
それでもフィンが戸惑っていると、チニは「失礼」と言ってフィンを軽々と抱き上げ、ノカの背にひょいと乗せた。
馬にも乗ったことがないフィンは、初めて乗る動物の背に困惑していた。
ノカの背はふかふかで温かく、その毛皮はよく手入れされていて艶がよく、とても触りごこちがよかった。
「坊ちゃん。ユクルに乗るの初めてかい?」
「ユクルどころか、馬にも乗ったことないんです」
チニは立派な髭の中に埋もれた口を笑いの形にゆがめ、にかっと笑った。
ホロの民は熊によく似た亜人。
その顔立ちは鼻づらが長く、口も大きい。男も女も体毛は濃いが顔にはあまり体毛は生えていない。
ホロの成人男性は必ず髭を生やす習慣があり、その髭が濃く、多いほど立派な男と見られる。
チニの目は細く、お世辞にも形がいいとはいえないだんごっ鼻の頭はちょっと赤くて、個性的な顔だが、笑顔はとても優しそうだ。
茶に近い柔らかい色合いの金色の体毛と薄い水色の瞳をしている。
「ユクルは大人しくて優しい生き物だから大丈夫だ。馬より安全だよ。特にこのノカは気性が優しいから」
「そうなの?」
「ああ。耳の両脇の角を両手でしっかり持って。おいらがノカの手綱を引くから落ちないように」
「はい」
「じゃあ、行くよ。順調にいけば日暮れまでには山を超えられっから」
「よろしくおねがいします」
ノカの背の上は快適だった。
心地よい揺れと、ノカとチニがサクサクと雪を踏む単調な音で、フィンは思わず眠くなりそうだった。
「坊ちゃん」
チニが話し掛けてきた。
「ノカの背は気持ちええかね?」
「はい」
「でも、眠ると落ちちまうでな。おいらが気づけばええけども、山をおりたら坊ちゃんが居なかったなんてことになったら困るでな」
「気をつけます」
初対面の他人にこんなに親しく話し掛けられることは滅多にないので、フィンは戸惑っていた。
ホロは他の国と同じくデーデジア共通語を話す国だが、それでも彼らの話し方は微妙にホロ固有の母国語の訛りを残す。
それは都市部から離れた僻地や山間部では特に色濃く、少し粗野な言葉遣いではあるが、温かみがあり、ホロ訛りを好む者は多い。
観光客向けに、わざときついホロ訛りで話す者すらいるという。
「坊ちゃん」
「はい?」
「坊ちゃんはソーナの子だろや?」
「そうです」
「年はいくつだい?」
「十四になったばかりです」
「十四だって?……すまん。おいら坊ちゃんのこと十歳ぐらいだと思ってた」
チニは申し訳なさそうに言った。
言わなきゃわからないことなのに、チニは見た目どおり朴訥な男のようだ。
「他の種族の人たちからはよくそう言われます」
フィンは照れくさそうにそう言った。
ソーナ族はその長い寿命のせいで成長が大変遅い。
二十代の終わりかけでも十代の少年少女のようにみえる。
フィンの年なら他の種族から見ればまだ十歳前後にしか見えないだろう。
「それでもたいしたもんだ。そんなに若いのに偉い魔道士さんなんだね?」
「そっ……それは違います!」
フィンは慌てて訂正した。
「そうなんかい?だって、坊ちゃんのローブにはピカピカの金色の木の葉のブローチがついてるよ?確かそのブローチをつけてるソーナ人はすごく偉いんじゃなかったっけね?……ええっとスパルモスター……いや、スポルだったっけな?」
「スペルマスター」
「ああ、そうだった。それだった。おいら、今までにもソーナ人のお客さんを何回か案内したことあるけど、みんなとても立派そうな人だったよ」
チニは笑いながらきまり悪そうに頭をボリボリと掻いた。
「黄金の木の葉のブローチ以外にどんな姿をしてました?」
「そうさな……黒や白のローブを着てた……坊ちゃんと同じデザインのだな」
「ローブの襟や裾に金色の縁取りがあったでしょ?」
「あったな。格好よかったんでよく覚えとるよ」
「それは……ちゃんとマスターになって魔道学院を卒業した人ですよ……僕は見習いだからローブに縁取りはないでしょ?」
フィンはチニにローブの襟元を見せる。
「おや……本当だ。気づかなかったな。そうだったんか……」
チニは興味深そうにフィンの話に相槌を打つ。
「この黄金の木の葉のブローチは生まれつき人より少し多くの魔道を使える者の印で、別に偉いというわけではないんです……僕はまだ見習いでマスター試験にも合格してないから……」
「うへえ……試験だって?おいら、馬鹿だから試験とか勉強とかは好きじゃねえな」
そう言ってチニは顔をしかめる。
「僕だって試験は好きじゃないですよ。試験なんてこの世からなくなればいいのにと思ってます」
「そりゃいいや」
チニは豪快にガハハと笑った。
「で、坊ちゃんはなんでホロに来なすった?」
「僕、来年マスター試験を受けるんです……でも、あんまり成績よくなくて……それで、先生が一年間、どこかの国を旅して経験を積んで来いって」
「ほう……なんでホロを選びなすったね?」
「本当はどこでもよかったんです。修行するとか、経験積むとか言われてもどうしていいかわからないし。なら、行ってみたかった場所にいってみようかなって……僕は前から一度、本物の戦乙女を見てみたかったから」
「じゃあ、坊ちゃんはトラピネップへ行くのかい?」
「はい」
トラピネップと聞いた途端、チニはあからさまに心配そうな顔をした。
「坊ちゃん。トラピネップ地方はユズリカムサよりまだ北へ行かなきゃなんねえよ。戦乙女のいるところは眷属も多いから本気で気をつけにゃいかん」
「眷属……ああ、ホロにだけ出るという怪物ですね?」
「そうだよ。いくら坊ちゃんがソーナの魔道士でも眷属は絶対に倒せねえ。あれの相手ができるのはネッカラの戦乙女たちだけだ。だからもし、これから先の旅で眷属に出会ったら、すぐに逃げるんだよ」
「はい」
山を半分ばかり越えたところで、チニはフィンをノカの背から降ろした。
「坊ちゃん。昼にしましょうや。おいらもノカもはらぺこだ。坊ちゃんも腹へったでしょや?」
「はい」
「んじゃ坊ちゃんの分はこれな。うちのかみさんの手作りだ。形は悪いがうまいぞ」
チニは笑って弁当の入った包みをフィンに差し出した。
包みの中には野菜や山鳥の燻製をたっぷり挟んだとても大きなパンが二つはいっていた。
確かに形は凄く悪い。今にも崩れかけそうだ。だけど、とても心がこもっている感じがした。
ソーナに居る母親のことを思い出し、フィンは少し涙が出そうになった。
「坊ちゃんはネッカラ族のことはよく知ってるんかね?」
弁当を食べながらチニがふいにフィンにそう言った。
「いえ……それほどでも。本で読んだ程度です。でも、あんまりネッカラ族のことを書いた本はないんですね」
事実、ネッカラ族に関する資料は殆どない。
彼女たちは謎の多い種族だった。
「ネッカラ族は排他的で、あまり部外者と仲良くしないからな……おいらも、眷属を追って現れたネッカラ族を何度か見た程度だけんどもな」
「そうなんですか」
「でも、昔から語り継がれている話とか、村のおじいやおばあが昔話してくれたりとかで、ホロのもんならある程度ネッカラ族のことは知っとるがな」
「よかったら、教えてくれませんか?」
フィンは眼を輝かせる。
情報は多いほどいい。
「ほんじゃ、おいらが知っとることを少し話すか」
「ありがとうございます」
チニはどっこいしょと座りなおすと、懐から煙草入れを取り出し、火をつけた。
小さなパイプから薄荷のような香りと薄い煙が立ち昇り、チニはそれをうまそうに吸い込み、すーっと吐き出した。
「まあ、時間もあんまりないんで基本的なことだけな……」
「はい」
フィンの隣ではノカが足を折って座り込み、うとうとしている。
フィンはノカの腹にもたれかかってみたが、ノカは嫌がりもせず眠り始めた。
「昔な、おいらたち人間が竜の鱗から作られたとき、普通の人間はそれぞれの竜王たちの体のいろんな部分の鱗から作られたが、坊ちゃんたちソーナ族だけは、すべての竜王たちの眉間の鱗を集めて作られたんだそうだ」
「それなら僕も知ってます。竜の眉間の鱗は魔力の源である竜の目に近い。だから僕たちは「竜の魔法の鱗」と呼ばれるんですね。ソーナ族だけは全ての竜王の眉間の鱗を集めて作られているからどの竜王の支配にも属さず、また全ての竜王に関われるって」
チニはうんうんとうなづいた。そして続ける。
「でな、その時ユズリ様だけは自分の爪近くの鱗から別の人間を少しだけ作ったんだ。自分の身の回りの世話をさせ、自分の住処を守らせる者をな。それがネッカラ族だ。ネッカラというのはホロの古い言葉で「爪」という意味だ」
「へえ……それは初めて聞きました」
「ネッカラ族はユズリ様の爪の横の、特に真っ白な鱗から生まれているから、体に色を持たんのだ。女が殆どなのはユズリ様が女の竜王だから、身の回りの世話をする者の大半を女にしたからだと言われとるんだよ」
「そうなんだ……じゃあネッカラ族は、ユズリ様のためだけに生まれた種族ってこと?」
「そうなるな。だから、ネッカラ族はホロにしか住んでおらんだろ?」
チニはまた紫の煙を吐き出した。
煙草の煙は少し煙かったが、フィンはその薄荷の香りは少し好きだと思った。
「確かに……言われてみればそうです」
「まあ、最近はトラピネップの住処を出て旅に出るネッカラの娘もおるらしいが、基本的に暖かい場所では暮らせない種族だから、結局はホロに戻ってくるようだけんどな」
「……ますます本物を見てみたいです」
「逢えるとええな」
「はい」
チニはパイプに雪を詰めて煙草を消すと、立ち上がった。
「さて、そろそろ行くかね坊ちゃん。日が沈むまでには麓に着かねえとな」