5.「禁断の秘法」
●【5.「禁断の秘法」】
「……私、なんだか眠いわ……ピリポ……とても眠いの……」
祖母が出かけた後、ぼんやりと椅子に座っていたピリカが不意にそう言った。
ピリポは少し不安になる。
ピリカが眠ってしまうと、また目が醒めなくなるのではないかと。
だけど、ピリカは本当につらそうな様子で、目が半分うつろになっていた。
「少し、眠る?」
「……そうね……その前に、着替えをしなきゃ……顔も洗わなきゃ……だけど、それをしたくないぐらい、今は眠いわ……」
今のピリカの声には抑揚がない。
表情も殆ど無表情のままだ。
誰よりも表情豊かだったピリカ。
クルクルとよく表情が変わり、喜怒哀楽がすぐにわかるほどだった。
愛想のないピリポとは対照的で、いくらそっくりでも人はその表情を見るだけでピリポかピリカかを見分けることができたくらいだ。
「ああだめ……もう、眠くてたまらないわ」
ピリカは、殆ど表情を変えず、椅子の上でこくりこくりと眠り始めた。
「姉さん」
「なあに?」
うたたねしていたピリカはふと顔をあげる。
目をうっすら開いて眠そうだが、あまり表情に変化がない。まるで人形と話をしているようだ。
その表情は少し青ざめている。
目にもいきいきとした光がない。
「ちゃんとベッドで寝たほうがいいよ」
「ええ……そうするわ」
ピリカはのろのろとベッドに向かい、倒れこむようにベッドに入る。
そして、すぐに静かな寝息をたてはじめた。
ピリポの不安がまた、首をもたげる。
やはり姉はこのまま、目覚めないのではないか?
ピリポはそっと姉の側に近づき、その頬に触れる。
真っ白で滑らかな肌はやはり冷たい。
その冷たさにピリポは少し恐ろしくなる。
「……なあに?」
ピリカは目を醒ましてゆっくり目を開ける。
生きている。
姉はちゃんと生きている。
ピリポはほっと息をつく。それを見て、ピリカはうっすら微笑む。
「大丈夫。生きているわ……」
「うん……」
そしてピリカはまたゆっくり目を閉じる。
ピリポはそっと姉の側から離れた。
やはり、少しの違和感が残る。
微笑んだ姉の目には力がない。微笑んでいるのに、それは微笑みに見えないのだ。
笑いの表情を作られた精巧な人形のようだとピリポは思う。
観察力の鋭い者が見れば、ピリカの様子がおかしなことに気づくだろう。
ピリカは生きているのに生気がない。
いや、正確にはもう死んでいるのだが。
彼女は生ける屍。
知っているのはピリポとカムラ・カユルの二人だけ。
禁断の法により、自然の摂理に逆らう生を生きる姉。
だけど、それでも生きていて欲しかった。
まだ施術を受けたばかりでぼんやりしているだけだ。
もうじき、姉はいつもの姉に戻る。
ピリポはそう信じていた。
「……姉さん……」
ピリポは複雑な表情でベッドで眠るピリカを見ている。
本当にこれで、よかったのか?
ピリポは思い返す。
少し前の出来事を。
━━━━━━━ 助けてやろうか?
カムラ・カユルは言った。
生き返らせる方法がひとつだけあると。
「反魂の法を使えばいい」
カムラ・カユルはそう言った。
呪術師の彼女なら言い出しそうなことだった。
呪術は嫌だとピリポは即座にその申し出を拒んだ。
邪道とされる呪術を用い、姉を蘇らせることは敬虔な竜王教の信者であるピリポには耐えられなかった。
禁忌とされる術でたとえ蘇っても、姉の魂を汚すだけだ。
しかし、カムラ・カユルは言った。
「心配しなくていいさ。ピリポサヌ・クリカ。あたしは確かに呪術師だ。しかし、これは呪術なんかじゃない……昔からネッカラに伝わってる反魂の法さ。ただ、ちょっとばかり、維持が大変で、いつしか使われなくなって、皆に忘れられてたものだけどね」
「反魂の法……?」
「そう。『冷たい血』と呼ばれる死者に偽りの命を与える法……かつて西の大陸で、竜の魔法の鱗たちによってもたらされ、ネッカラの長老たちが受け継いできた法だ」
「竜の魔法の鱗……ソーナ族?」
「そうさ。あたしたちと同じく竜王に近いソーナ族たちが、創竜の地より受け継いだ古の法さ」
「どんな法?」
興味を持ったピリポの表情を見て、カムラ・カユルはにやりと笑った。
「興味があるかい?」
ピリポは戸惑っていた。
もしも、姉を蘇らせることができるなら、その方法をどうしても知りたかった。しかし、その唯一の方法を知っているのは彼女自身が嫌悪する呪術師。
ピリポはしばらく黙って考え込んでいたが、念を押すようにカムラ・カユルに聞いた。
「もう一度聞くわ。それは呪術ではないんでしょう?」
「ああ。呪術じゃないよ。大昔は普通に使われていた法だ……」
「普通に使われていたのなら、なぜ、今は伝わっていない?」
ピリポは用心深かった。
昔から伝わるまじないや儀式の類ならピリポだって知ってるし、なによりも反魂の法などが普通に存在していれば、死の悲しみなどありえない。
「面倒な方法だからさ。恐らく長老……つまりお前の祖母なら聞けば名前くらいは知ってるだろうさ。この法は『冷たい血』と言って、本当に生かしておきたい者だけを蘇らせることができる」
「本当に生かしておきたい者……」
「そうさ。死者は安易に蘇らせるもんじゃない。自然の摂理に反するんだ、それ相応の覚悟がいるのは当然だからね」
「覚悟……」
ピリポは拳をぎゅっと握る。
「そう。蘇らせた死者を維持するためにやらなければならないことがあるからね」
「どうするの?」
ピリポの問いに、カムラ・カユルは背中に背負った布袋から呪術に使うらしい札や石などを取り出しながら言った。
「方法は単純。『冷たい血』で蘇らせた死者は一月に一度、必ず全身の血を新たなものに入れ替えなければならない」
「入れ替えるって……」
「新鮮な血……氷のように冷たい、新鮮な血と入れ替えるのさ」
「それってまさか……」
ピリポは嫌な予感がした。
「そう。眷属の血……冷たい血の正体は眷属の血さ。眷属の血を死者に与えることによって、死者はその体を保っていられる……血が古くなれば蘇った死者は狂い、凶暴になって暴れ始めるからね」
「血を与えるって……」
「ピリカに眷属の心臓を食べさせるのさ。倒したばかりの、雪に還る前の眷属の新鮮な心臓をね。人に襲い掛かるとはいえ、もともと眷属は竜王の体の一部だ。その血には竜王の魔力がある」
皮肉な話だった。
姉の命を奪った眷属。その血をつかって姉は息を吹き返す。
「どうする?お前は姉のために一ヶ月に一度、五頭の眷属から心臓を集めなければならない。人一人ぶんで眷属五頭分の心臓だ……できるかね?」
ピリポは戸惑った。
一ヶ月で五頭の眷属を倒すのはいくら手馴れたピリポでもかなりきつい。
ずっと姉の体を維持することは不可能だ。
いずれは祖母やレナウにもばれてしまうだろう。
だけどせめて……せめて、半年後の姉の婚礼の日まで姉を生かしておくことができれば……。
愛する人と結ばれる日を楽しみにしていたピリカ。
せめて花嫁衣裳を着せてやりたい。
「冷たい血の法を使えるのは息をひきとってから一時間以内。もう時間はないぞ?」
「……わかった……カムラ・カユル……私はどうすればいい?」
カムラ・カユルは口の端だけを少し歪めて笑った。
カムラ・カユルはピリカに近づくとその口をこじ開け、喉の奥に何かを押し込んだ。
当然ピリカはそれを飲み込めない。カムラ・カユルはピリカの喉をさすり、喉に押し込んだものを無理に飲み込ませた。
「それは?姉さんに何を飲ませた?」
「竜石さ」
カムラ・カユルはこともなげに言った。
「竜石?そんなもの飲ませてどうするの?」
「竜石は人の胃の中に入れば砕け散り、全身に行き渡る。そして、そこに眷属の血が入れば力を持つのさ……それが、お前の姉の新たなる命ということになる」
そして、カムラ・カユルは先ほど倒した眷属に近づく。
「おっと……急がねばな。もう半分雪に還りかけておるわ」
カムラ・カユルは眷属の胸元をナイフで切り裂いた。
青い血が流れ出し、辺りの雪を真っ青に染めた。
カムラ・カユルはその青い血を、持っていた小さな杯に受け、それをこぼさぬように捧げもつと、ピリカの口を開けさせ、杯の中の血を流し込んだ。
そのあと、ピリカのうなじに小さな紙切れをあて、何か小声で唱えていた。
「最初はこれでいい……次からは眷属五頭分の心臓が必要になるがね」
「姉さんは本当に蘇るの?」
「まあ見てな」
カムラ・カユルはピリカの上体を抱き起こすとその背中をぐいっと押した。
「こほっ」
なんと、ピリカが小さな咳をしたのだ。そして、次の瞬間、ピリカの目がゆっくりと開いた。
「……私……どうしたのかしら……ピリポ……?」
ピリカはぼんやりしながらゆっくり起き上がった。
「姉さん!」
ピリポは驚きと嬉しさの入り混じった声をあげ、起き上がった姉に飛びついた。
「姉さん……姉さん……よかった!」
「ピリポ……私は大丈夫よ」
姉の声。
優しい、大好きなピリカの声。
生まれた時からずっと側にいた優しい声。
だけど、ピリポの髪を優しく撫でるピリカの手はぞっとするほど冷たかった。
半年後の姉の婚礼の日まで。
それまでなんとしても姉を生かしつづけたい。
しかし、それから後は?
ピリポはふと我に帰る。
残されるレナウの気持ちは?
ピリポは姉の死に動転し、自分のことだけしか考えていなかったことに気づく。
「……どうしよう……」
ピリポの心は急に暗くなる。
婚礼の日の翌日には最愛の人を失うことになるレナウの気持ちはどうなる?
それを思うとピリポの胸は苦しくなる。
やはりこのことはレナウにだけは話さなければならない。
レナウはどう思うだろう。
怒るだろうか?それとも嘆き悲しむだろうか?
眠る姉は安らかな寝息をたてている。
レナウがもし、望まないなら蘇った姉はどうなるのか?
眷族の心臓を与えなければ姉は再び死ぬ。
でも、今度は眷属に殺されるのではない。
━━━━━━━ 妹の手によって殺されるのだ。
いつかは必ず失われる命。
その摂理に反したとき、運命はどう歪んでしまうのだろう?
そして、それに直面した者の気持ちは……。
もしや自分はとんでもないことをしてしまったのではないだろうか?
ピリポは急に恐ろしくなった。
そして、ピリポは恐ろしさから自分を守るように両手で自分の体を抱きしめ、身を固くするしか術がなかった。