15.「ピリカの闘い」
●【15.「ピリカの闘い」】
クー・ククルは灰色の雪雲の中を、フィンとピリポをその背に乗せて、約一昼夜、殆ど休み無しで飛びつづけた。
鈍色の空。
光は殆ど差さず、僅かに厚い雲の間から漏れる光を雪が反射して、ぼんやりとした薄明かりの世界が広がる。
ホロヌカヤから遠ざかるほどに雪は止み、風は凪ぎ、空は穏やかになってきた。
純白の大地のはるか彼方に、小さな集落が見える。
ネッカラの里だ。
「姉さん……もうじき楽にしてあげるからね……待ってて」
ピリポは純白の髪をなびかせ、体を打ち付ける冷たい風をものともせず、ようやく彼女の視界に入ってきたネッカラの里だけを見つめている。
やがて、優雅な身のこなしで、大きな翼を閉じて、クー・ククルはピリポの家の前に舞い降りた。
里の女たちは突然現れた翼を持つ雪狼に似た獣に驚き、しばらくざわざわと騒いでいたが、その声を聞きつけてイナウコタイが家の中から現れると、途端にあたりは水を打ったように静かになった。
「おかえり。ピリポ……ユズリ様には会えたんだね?」
「はい」
「ピリカが待っている……お入り」
「はい」
ピリポは先に家の中に入って行く。
フィンがクー・ククルと共に後に続こうとすると、イナウコタイがフィンに言った。
「坊や」
「はい」
「ピリポの力になってくれてありがとう」
イナウコタイはフィンに頭を下げた。
「僕は……」
フィンが何か言いかけたのをイナウコタイは押し留めた。
「とにかく、中へ」
全身に護符を張られたピリカは、ベッドの上に静かに横たわっている。
ピリポと寸分違わぬ姿。
胸前で祈るように手を組み、安らかな顔をして静かな寝息を立てている。
「大人しく眠っているように見えるが、実際はとても苦しい筈だよ……呪いの力はとても大きくて、護符の力が弱まればまた、狂ったように暴れ始めるのさ……だけど、ピリカはあれからずっと眠りつづけたままだ。ピリカ自身ががんばっているから、この程度ですんでいるんだとあたしは思う……」
イナウコタイはいたたまれぬような表情を眠るピリカに向ける。
「姉さん。すぐに助けてあげるからね」
ピリポは上着のポケットから清潔な布に包んだユズリのたてがみを取り出した。
「右腕の護符を外して。おばあちゃん」
「わかった」
イナウコタイがピリカの右腕に貼られた護符をそっと剥がすと、ピリカの右腕がピクリと動く。しかし、その瞬間、ピリポはピリカの右腕を掴み、素早くユズリのたてがみを巻き付けた。
「次は左腕」
同じ要領で、左腕にもたてがみが巻きつけられる。
続いて右足、そして左足。
ピリカの体からは頭を除いて全ての護符が剥がされた。
そして、ピリカは両手と両足を純白の絹糸のようなユズリのたてがみで繋がれるような姿になった。
「これで最後……」
ピリポは残ったユズリのたてがみをピリカの首にそっと巻いた。
「……うぐ……」
突然、ピリカが酷く苦しみ始めた。
「姉さん?姉さん、どうしたの!」
ピリポは慌ててピリカに触れようとするが、イナウコタイはそれを押し留める。
「今触ってはいけない。呪いの力とユズリ様の力が戦っているのだから」
「でも!」
ピリポは唇を噛み締める。
「我慢しなさい。ピリカが一番苦しいのだから」
イナウコタイは険しい表情をしている。しかし、その目には大粒の涙が溢れていた。
ピリカは激しく身もだえをする。何かに激しく抵抗するように体をねじり、苦しげにのた打ち回る。
「ああーっ!」
ピリカは目を見開き、絶叫を上げる。
やがて、ピリカに巻きつけられたユズリのたてがみがぼんやり光りはじめ、その光はどんどん強さを増していった。
よく見るとユズリのたてがみはピリカの体をじわじわと締め付けている。
「ううっ」
ピリカはいっそう激しく体をよじり、苦しそうな吐息を吐き出す。
「ピリカは戦ってるんだ……。苦しいだろうに……でも、少しの辛抱だ……あと、少しの」
イナウコタイは搾り出すような声でつぶやく。
「……もう、見ていられない」
ピリポは思わず顔をそむけ、耳をふさごうとする。
しかし、イナウコタイはそんなピリポに向かって首を横に振る。
「しっかりおしピリポ……目をそむけてはいけない。最後まで見守っておやり……お前はピリカを見守らなければならない義務があるんだ」
イナウコタイが何を言おうとしているのか、ピリポには理解できた。
知らぬこととはいえ、カムラ・カユルの誘惑に負け、ピリカに呪いを施したのは他ならぬピリポ自身。そんなピリポがこの現実から目をそらすことは許されない。
「ああああああーっ!」
声が枯れるほどの絶叫をピリカはあげた。
全身をこわばらせ、体を弓のようにそらせ、ピリカは体をがくがくと震わせて苦しんでいる。
彼女の手足と首に食い込んだユズリのたてがみは、その柔らかな皮膚を締め付け、白い肌に血をにじませている。
「うああああっ!」
ひときわ大きな彼女の絶叫と共に、ブチリと鈍い音をたて、彼女を戒めていたユズリのたてがみが全てちぎれた。
そして、次の瞬間、ピリカはぐったりとして動かなくなった。
「姉さん!」
「……どうやら、終わったようだね」
イナウコタイはピリポと共に、ぐったりして動かないピリカの側に近づくと、ピリカの頬を優しく撫でた。
「いい子だ……よく我慢した……ピリカ……」
イナウコタイは肩を震わせ、涙を零す。
「ピリカや……つらかったろう……痛かったろう……でも、もう大丈夫だよ……ゆっくりとおやすみ……」
「姉さん!」
ピリポは我慢しきれなくなってその場で大声を上げて泣いた。
フィンはクー・ククルと共に二人の背後で、ずっとこの光景を見ていた。
声をかけることはできなかった。
何も言葉が浮かばないのだ。
今、何を話し掛けても無駄だとフィンは気付いていた。
部外者である自分はこうしてここで見ている以外ない。
妙な寂しさと、そして安堵。
部屋を出ることも、二人の側にいくこともできず、フィンはただ、その場に佇む以外何もできなかった。
暫くの間、泣き崩れる二人の嗚咽だけが部屋に響く。
そんな時だ。
「……か……ないで……」
微かな声がピリポとイナウコタイの耳に入った。
「な……かない……で」
閉じられたていたはずのピリカの目はうっすらと開かれている。
「……姉さん?」
「……ピリカ?」
驚いた二人は涙を拭き、信じられないという顔でピリカを見た。
「泣かないで……おばあちゃん……ピリポ……」
ピリカは微笑み、ゆっくりと起き上がると、祖母と双子の妹の肩をそっと抱いた。
━━━━━━━ 「私は……大丈夫だから」




