8.「竜巫女の招き」
●【8.「竜巫女の招き」】
目の前がすべて真っ白で何も見えない。
ホロヌカヤが目の前に迫ってきた。
目の前を覆い隠す巨大な山体。
山というには巨大すぎた。
それはフィンにとって壁にしかみえなかった。
荒れ狂う雪で息もできないほどの悪天候。ともすればふさがれそうになる視界の中にやっと見えてきた景色だ。
もちろん山肌など全く見えない。真っ白い雪と氷でできた巨大な氷壁にしか見えない。
『あれがホロヌカヤの永久氷壁。有史以来一度も溶けたことのない氷の壁』
クー・ククルはそう言った。
氷壁と名がついてはいるが、それは透明度がない。表面に雪が張り付いているのだろう。ホロヌカヤはいまだかつて雪が一度も止んだことがない聖地。
「竜巫女様はあの中にいらっしゃるのですよね?」
ピリポがそう言うと、クー・ククルはそうだと答えた。
「あの壁の中に住んでいるの?」
フィンは少し驚いた様子だった。
どう見ても人が出入りできそうには見えなかった。
『氷壁の奥に広い空洞が一箇所だけある。そこに竜巫女の館はある』
クー・ククルはそう言った。
確かに、竜巫女の館は人が容易く近づける場所ではないけれど。
おそらくここの竜巫女の館は氷の中に閉じ込められている形になっているのだろう。
『……そうか……サネ様はご存知だったのか……』
突然、クー・ククルが呟いた。
「なにを?」
聞き返したのはピリポだった。
『我々がここを通ることをサネ様はどうやらご存知のようだ』
「え?サネ様が?なぜ……」
ピリポは驚いた声を上げる。
『白鳩がいる……』
クー・ククルが見つめている方向には一羽の白鳩がいた。
生き物がとても住めそうにないこんな雪と氷に閉ざされた場所にいる白鳩は、竜巫女の使いの鳩ぐらいのものだ。
「サネ様って……竜王ユズリの竜巫女?」
フィンの言葉にピリポは軽く頷いた。
「サネ・トカベシ。ユズリ様の竜巫女……今回のことは、サネ様にご迷惑をかけないようにと思って知られないようにしていたのに……結局、ご迷惑をかけることになるのかな」
ピリポはしょんぼりしたようにそう言った。
『サネ様に知られたからにはサネ様にご挨拶なしにはここを通れまい』
クー・ククルはそう言って、方向を変えた。
『竜巫女の館へ寄ることにする……サネ様。それでよろしいか?』
クー・ククルが白鳩の方に向かって叫ぶと、白鳩はクー・ククルの目の前まで飛んできた。そして、まるでフィンたちを先導するように優雅に雪の中を飛び始めた。
クー・ククルはその後をついてゆく。あれだけひどかった雪は少しだけ小止みになってきた。
ホロヌカヤの氷壁が近づいてきた。
「入り口もないのにどうやって入るんだろう?」
ピリポがフィンの耳元で囁いた。
「何か特別な方法があるのかも……僕たち、滅多に見られないものを見られるかもしれないよ」
「うん」
白鳩は氷壁の間際まで来ると、ふいに姿を消し、その代わりに眩しい虹色の光でできた道が現れた。
光の道はまるで薄い氷の中を通り抜ける一筋の光のように、分厚い氷壁を容易く貫いていた。
『光の路がかかった。この中を通れば竜巫女の館へ行ける。一気に通り抜けるからしっかりつかまれ』
クー・ククルはそう言うと、光の路の中に飛び込んでゆく。
フィンとピリポはクー・ククルにしっかりとつかまる。
スピードを上げたクー・ククルの翼の音が、激しく耳を打ち、頬に当たる風は切れそうで、飛び込んでくる雪の礫が目をふさぎ、二人はぎゅっと目を閉じるしかなかった。
ほんの数秒もしないうちに、あたりは急に暖かくなる。
クー・ククルはスピードを落とし、フィンとピリポはそっと目を開ける。
「……ここは……」
眼前に広がる光景を見て、二人は絶句する。
永遠に溶けぬ永久氷壁のまんなかに、花園があった。
柔らかで暖かな光が降り注ぎ、色とりどりの美しい花が咲いている。
クー・ククルの背から降りたそこには、緑の柔らかな草が生えていた。
そういえばもう随分長い間、花や緑の草木を見ていなかったとフィンは気付く。
ピリポはもっと驚いていた。
生まれて初めて目にするものばかりだからだ。
ネッカラの里で生まれ育ち、里を出たことがないピリポが知っている花は、雪や寒さに強く、北国のホロに唯一咲くことの出来る花、『クルッペノンノ』だけだった。
奉納祭に使う花冠等はすべてこの花で作られる。
クルッペノンノは亜種が多いので、いろんな色や花弁の形が豊富だが、ここにある花は殆どがピリポにとって見たことのない花ばかりだった。
花園には煉瓦で舗装された一本の道が通じており、その道は木々の向こうに見える、一軒の大きくて立派な屋敷に通じていた。
「あれが、竜巫女の館?」
「……そうかも」
フィンたちが驚きの目であたりを見回していると、館の方角から、一人の少女が小走りに駆けてきた。
フリルをふんだんに使った可愛いエプロンと、動きやすいデザインの紺色の服を着た十代の娘だった。
「いらっしゃいませ。ようこそおいでくださいました。こちらへどうぞ」
フィンたちの目の前にやってきた娘は少し異様な姿をしていた。
人の姿をしているが、髪も体も透き通っている。
空から降り注ぐ光を通す不思議な透明の体。透明度の高い硝子か、もしくは氷で作られた精巧な人形……そういう雰囲気だった。
しかし、彼女は小鳥の囀るような美しい声で話し、その動きは優雅で、人間とまったく変わりがない。
「あの……」
フィンたちがためらいがちに声をかけるより先に、少女がにこやかに言った。
「主が館でお待ちしております。私がご案内いたします」
少女は手招きをして、先に立って歩き始めた。
「……竜巫女の館って、竜巫女しか住んでいないんじゃなかった?」
フィンはピリポに小声で話し掛ける。
「さあ……でも、あれがサネ様でないことは確かだ……サネ様はかなりのご高齢と聞いているし」
「逢ったことないの?ピリポ」
「竜巫女様にはそうそう逢えるものじゃない。フィンの国でもそうじゃないのか?」
「それは、そうだけど……」
まるで、普段からよく知っているかのようにネッカラの里の人たちは竜巫女の名を口にしていたから、ネッカラ族は竜巫女に近しいのだとフィンはずっと思っていたのだ。
「私たちネッカラ族にとって、竜巫女様は特別な存在だもの。ユズリ様と私たちを繋ぐ大切な方だ。竜巫女様に会えるなんて、私はとても幸せかもしれない……」
ピリポは頬を紅潮させている。普段は滅多に見せない表情だ。
そうこうしている間に一行は花園を抜け、立派な館の前に立った。
「さあ、こちらへ……我が主がお待ちかねです」
少女は館の扉を開けると一行を中へ招き入れた。
竜巫女の館はとても美しい館だった。
隅々まで掃除が行き届き、床も窓も鏡のように磨き上げられ、各所には美しい花が飾られている。
長い廊下を少女について歩き、フィンたちは館の一番奥の広い部屋に通された。
「巫女様。お客様をお連れ致しました」
少女はうやうやしくお辞儀をしながら、部屋の奥にいる主に声をかけた。
「ありがとう。コンル」
竜巫女とおぼしき彼女の主は椅子から立ち上がろうとする。
コンルと呼ばれた少女が素早く駆け寄って主の手を取り、導くように彼女の手を引いて歩き始めた。
コンルに手を引かれ、竜巫女はゆっくりと歩いてくる。
「本来なら館の外までお出迎えに行ければよいのだけれど、わたくしはこんな体なので、ごめんなさいね……」
百五十歳はとうに超えているであろう、老齢の竜巫女は穏やかな声をしていた。
神秘なる銀灰の髪と同色の瞳。優雅な物腰、そして近寄りがたい神々しさ。
それはまさに幼い頃から誰もが聞かされた竜王に最も近い存在の竜巫女だった。
ピリポとフィンはサネの前に跪き、頭を下げた。
「かしこまることは何もないのよ。二人とも普段と同じにしていてね」
「ありがとうございます」
フィンとピリポは顔を上げた。そして、二人はあることに気付いた。
サネの美しい銀灰の瞳は殆ど動くことがなく、一点しか見つめていないことに。
「生まれつき目が不自由なの……だけど、気配でわかるわ……カイ・ホロケウ……事情をきかせてもらえないかしら……?今度のあなたの復活は、いつもと様子が違うようだから……」
『サネ様……』
クー・ククルはサネの足元に頭を擦り付けた。
サネはクー・ククルの頭をそっと撫でてやる。
『この二人が……剣と鞘です……』
すると、サネは一瞬、はっとしたような表情をした。
「……そうですか。ついに女神の手に戻るときが来ましたか……」
ピリポには竜巫女とクー・ククルの会話の意味がわからなかったが、フィンは黙って俯いている。
そういえばフィンは言っていた。
━━━━━━━ 自分が何者であるか、何をすべきかを知った……と。
「とりあえず、お話を聞きましょう。ユズリ様にはそう簡単には逢えませんよ。わたくしの導きがなくては、たとえ神域へ入っても、ユズリ様は誰にもお会いにならない……たとえ、カイ・ホロケウであっても……」
サネはそう言うと、フィンとピリポにその見えぬ瞳を向けた。




