1.「灰色のスペルマスター」
●【1.「灰色のスペルマスター」】
「フィン・リンド。君はいつになったら私に小言を言わせなくなるのかね?」
黒衣のスペルマスターは不機嫌そうに明るい藍色の髪をかきあげ、同色の瞳を伏せた。
「すみません。イズニー先生……予習はしてきたつもりなんですけど……」
フィン・リンドと呼ばれた少年はしょんぼりと項垂れている。
「予習をしてきたつもり?……ほう……君は勉強のなんたるかを全くわかっていないようだな」
フィンの担当教授であるモーガン・イズニー教授は、いつも不機嫌そうな顔をしていることで有名だが、フィンを叱るときは更に不機嫌そうな顔になり、フィンはそのたびに嫌な気持ちになってしまう。
「そ……そんなことは……」
「つもりで予習をするから覚えないのだ。ちゃんと覚えてきたのなら、水を酢に変えてしまうなどという馬鹿な間違いはしないはずだと思わないかね?」
「……はい」
フィンはうなだれる。
教授が怒るのは無理もなかった。
フィンは今日の実習で「水を酒に変化させる」というのを間違え、水を大量の酢に変えてしまったからだ。
しかも、目の前に用意された自分のボトルの中の水だけでなく、講義室にいた全ての生徒と教授の分まで全て酢に変えてしまったのだから始末が悪い。
「いいかね?ヴィジエが酒、ヴィネーは酢だ。あれだけ間違えてはいけないと前日の講義で言ったはずだ。しかも、なぜそこで『トータリス』など入れたんだ?トータリスは『全て』をあらわす。あの部屋にいた全員の水が酢に置き換わったのはヴィネーに加えてご丁寧にもトータリスまでつけたからだ」
「水の入った瓶『全体』が変わるようにと思って……前、箱に入った三つの林檎を金塊に変える実習をやったときに、トータリスを使わなかったせいで全部が置き換わらずにひとつだけしか変わらなかったから……」
フィンはおずおずと説明をする。
イズニー教授はそれを聞いて溜息をつき、こめかみに手を当てた。
「林檎は一個の個体だ。だから、箱の中『全体』をさすトータリスで制御する。しかし、今回は水で、瓶の中に満ちた水は瓶の中に隙間なく詰まっているから『全体』と解釈するのだ。だから、この場合トータリスは使わない。」
「先生……そこがよく、わからないんですが……」
イズニー教授の説明は回りくどくて、フィンは理解するのに苦労する。
彼らが使う魔道には幾つかの系統がある。
古代ソーナ語を現代の言葉に訳して詩のようにまとめた長文詠唱系。大掛かりな術に多く、体力を必要とするが、発動させる詠唱は覚えやすい。
この長文系をさらに短くした短文詠唱系。これは初心者向き。ソーナの子供達が最初に覚える魔道だ。
そして古代語をそのまま組み合わせ、応用して様々な魔道術式を組みあげる構築系。これがもっとも難しく、習得が困難だ。これはスペルマスターにしか使えない。
フィンはこの構築系が最も苦手で、よく失敗をしてしまう。
「ふむ……確かに、難しいな。この『全体の解釈』という理論は今のセクションでは一番理解しにくいからな……」
イズニー教授はもっともだという顔をしてうなづく。
「いいかねフィン?林檎の変化の実習の時は、林檎という一個の個体は『箱』に入っていた。だから、その場合は『箱の中の個体全部を変化させる』ということで、「トータリス・ミュータティオ」を使ったのだ。ゆえに、箱の中の林檎をすべて金に変化させる場合は「オーラーム・トータリス・ミュータティオ・マームス」で良い」
「はい」
フィンはこくりと頷く。
「今、言った例が『全体』という考え方だが、今回の場合は瓶に入った水だ。瓶はそれひとつで水が『全体』に入っていた……ここまではわかるかね?」
「はい」
「もし、この瓶が木箱などに何本か入っていたなら、それはトータリスで制御するので、「アクゥア・トータリス・ミュータティオ・ヴィジエ」が正解だ。しかし、この瓶は箱には入っていなかった。つまり、中の『水』にとっては瓶は全体なのだ。ところが、そこでトータリスなど使ったら、講義室という巨大な箱の中に瓶が入っているという解釈になる……これがどういうことかわかるか?」
「あ……」
フィンはようやく、教授が言いたいことを理解できた。
「わかったようだね。つまり、この場合トータリスを使うと他の者の水まで置き換わってしまうのだ」
「そうだったんだ……」
フィンは目から鱗が落ちたように晴れやかな顔を見せた。
どうして、自分が失敗したのかどう考えてもわからなかったからだ。
「フィン……これは先週くどいぐらい講義した筈だ。君は聞いていなかったのかね?」
「すみません……聞いてましたが……よくわかりませんでした」
「わからなかったら、なぜその場で質問しなかったのだね」
「すみません……」
「わからないだけならまだしも、理解できぬまま適当に使用すればどういう失敗をするか君は考えていなかったのか?」
「……そこまで考えてませんでした」
そう言われてフィンはしょんぼりと肩を落とす。
「もういい。明日までに古代ソーナ語の術式構築用基本単語の百種全てを百回づつ書き写して私に提出すること。わかったね?」
「はい」
「それから」
イズニー教授はフィンの額に人差し指を当て、軽くグイと押しながら言った。
「自動筆記などというずるいことをしてもばれるからやらないように」
「はい」
イズニー教授は覚えていた。フィンが以前、自動筆記の術を使って書き取りの宿題をさぼったことを。
「では、下がってよろしい」
教授室を出て、フィンはほっと小さな溜息をついた。
「やあね。また叱られたの?フィン」
振り返ってみると白いローブを着た、フィンと同じくらいの年の少女がそこにいた。
晴れ渡った海の色のような深い青色の腰までの巻き毛と、子猫を思わせる丸くて大きな水色の瞳。可愛い顔立ちだが、鼻の上には少しそばかすが目立つ。
彼女の白いローブを止めているブローチは黄金の木の葉。スペルマスターの証だ。
「シャーロッテ……」
フィンは露骨に嫌な顔をした。
よりにもよってこの瞬間、一番逢いたくない人物がそこに居たからだ。
幼馴染のシャーロッテ・グランはなにかとおせっかい焼きで、幼い頃からいつもフィンに絡んでくる。
彼女に悪気は全くないのだが、フィンはそれが少しうっとおしい。
しかも彼女はフィンと同じスペルマスターだが、成績優秀で将来は魔道術士団の幹部候補とも噂される将来有望な娘だ。
「母さんには言わないで。シャーロッテ」
「えー?どうしよっかな」
シャーロッテはいたずらっぽい笑みを浮かべる。
フィンは彼女が何を要求しているのか長年の付き合いでよくわかっていたので、半ば諦めたような表情で言った。
「フレイ・ルーの木苺のタルトをおごるからさ。頼むよ」
「リュウオウボクの実のジュースと苔桃のパイもつけてくれるなら考えてもいいわ」
フレイ・ルーはソーナ国の首都、ゾーラで一番有名な菓子店だ。
少女たちに絶大な人気を誇る菓子の数々は、店舗の中にあるティールームで食べることができる。
「なんでかしらねえ……フィンみたいな不器用な子がスペルマスターとして生まれてきたなんてどうしても信じられない」
木苺のタルトを満足そうに食べながら、シャーロッテはそう言った。
「しかも、王の資質を持った『紫紺の後継者』だなんて、絶対に何かの間違いとしか思えないわ」
「そこまで言うかよ……」
フィンはむっとしながら木苺のジュースを一口啜る。
木苺のジュースは甘すぎるのでフィンはあまり好きじゃない。
でも、この店ではこのジュースが一番値段が安い。
シャーロッテに『口止め料』としてご馳走した分の残りでフィンが買えるものはこれしかなかった。
「不公平だわ」
シャーロッテは不機嫌そうだ。
「なんで?」
「だってそうじゃない。菫色の色彩を体に持って生まれてくる子は王の後継者の資質があるのよ?今のラドリアス陛下だって、フィンほど綺麗な菫色の瞳じゃないわ。そればかりか、フィンの髪は魔力が強い群青色……羨ましいぐらい素材がいいのに、なんでそんなに不器用なのよ!」
シャーロッテは悔しそうな顔をする。
ソーナ族は濃い青から薄い青まで様々な青い色の色彩を体に宿して生まれてくる。
体に宿した色彩が、濃い青色であればあるほど潜在的な魔力は強い。
中でも殆ど黒に近いぐらい濃い群青色は、最強の魔力を秘めているとされる。
青い色は竜の血の色。
『竜の魔法の鱗』と呼ばれるソーナ族は竜王と同じ血の色を持っているのだ。
そして、中でも紫がかった青や赤味の強い菫色など、紫に近い色彩を持つ者は特別な魔力を持つとされ、『紫紺の後継者』と呼ばれ、将来の国王候補となる。
ゆえに、ソーナ王は世襲制ではない。
フィンの髪はとても濃い群青色で、瞳は赤味の強い菫色だ。
さらに攻撃系、防御治癒系の両方を使えるスペルマスターでもある。国王の後継者として申し分ない条件を兼ね備えていた。
しかし、そんな素晴らしい資質を持ちつつも、なぜかフィンは失敗が多く、教授たちや同級生は彼を落ちこぼれだと感じていた。
負けず嫌いのシャーロッテはなんだかそれが悔しくてたまらない。
自分より恵まれた資質を持っているというだけでフィンが羨ましいのに、それを有効に利用しないフィンを見ているとなんだかイライラしてくるのだ。
だから、フィンのことを嫌いではないのに、つい憎まれ口を叩いてしまう。
「まあね、『紫紺の後継者』はフィン以外にも何人もいるから、中には落ちこぼれさんだっているわよね……そうだわ。きっとそうよ」
しかし、この言葉はフィンの神経を逆なでしたようだ。
「はいはい。将来のホワイトマスター様にとっては僕なんかできそこないだろうよ」
「ちょっとフィン。それ本気で言ってるの?」
シャーロッテは眉をひそめる。
「ああそうだよ。どうせ僕はいつまでたっても半人前の灰色のローブしか着れないよ」
ソーナ族は、自分の魔道特性を他人に認識させるために、外出時は必ず使用魔道のシンボルカラーのローブを着ることが義務付けられている。
一般的には防御系、治療系を使う者は白、攻撃系を使う者は黒のローブを着る。
スペルマスター以外の者は、生まれつき使える能力が決まっているので幼い頃から自分の着るローブの色は決まっている。
しかし、両方を使えるスペルマスターは、修行中は未熟で、どちらも使えるかわりにどちらも中途半端な状態だ。
彼らは教育を受け、より得意な魔道能力を見出され、その能力のエキスパートとして育てられる。
シャーロッテの場合は治療術系が長けていたため、十歳の時に既に白のローブを与えられている。
しかし、攻撃術も、防御や治療術も、まだ一定レベルに達していないフィンは、未熟なスペルマスターの証である灰色のローブしか着ることが許されていないのだ。
「フィン……茶化した私も悪いけど、そういう風に自分を貶めるのはやめなさいよ」
シャーロッテは少し悲しそうな顔をする。
「貶めてなんかいないさ。本当のことだからな」
わけのわからない意地を張っている自分に気づき、フィンはいらいらしていた。
「フィン……ごめんなさい。さっきのは冗談だったのよ。冗談にしては酷すぎたって自分でも反省してるわ」
シャーロッテは慌てて謝る。
しかし、フィンのいらいらはおさまるどころかエスカレートしていた。
「謝るぐらいなら最初から言うなよ」
「だから、悪かったわよ……ごめんなさい」
「謝んなくていいよ。どうせ、本気で謝ってないだろ?僕自身落ちこぼれだってことぐらいわかってるし」
シャーロッテの表情が暗くなる。
「フィン……私、そんなこと思ってな……」
しかし、シャーロッテが言い終わらぬうちに、フィンは早口でまくし立てる。
「僕が先生やみんなからどういう風に言われてるかぐらい知ってるよ。『スペルマスターの恥』だの、『何かの間違いで生まれてきたんじゃないか』だの陰で言ってるのぐらい知ってる」
「何を言ってるのフィン?先生やみんなはそんなこと言っちゃいないわよ」
シャーロッテは慌てる。
実際、教授たちや彼の同級生たちの中にはそういう心無い事を言う者もいるが、本当に一部だ。
特にイズニー教授などは、普段はフィンに厳しく接しているが、誰よりもフィンの将来を案じていることをシャーロッテは知っている。
「取り繕わなくてもいいよシャーロッテ。君だって心の中では出来そこないの僕を馬鹿にしてるんだろ?」
その一言は本気ではなかった。
しかし、不用意に出てしまった心にもない一言はシャーロッテを激しく傷つけた。
フィンが心の中でまずいと思った時には遅く、シャーロッテの表情は怒りの表情に変わっていた。
「……何ですって?もう一度言ってみなさいよ!」
「ああ何度でもいってやるよ。シャーロッテも僕を馬鹿にしてるんだ!」
売り言葉に買い言葉。
しかし、一度発した言葉は取り消せない。
フィンは心の中で激しく焦っていた。
自分でもこんな言葉が口から出てくるなんて思っていなかった。
だが、どうしても止まらなかった。
「フィンの馬鹿!」
「ああ、どうせ僕は馬鹿だよ!」
フィンは心と裏腹に、さらに酷い言葉を投げてしまう。
「シャーロッテは治療術にかけては天才的才能があるんだろ?だから、もう白いローブを着てるんじゃないか。来年行われるホワイトマスターの試験にもどうせ楽々受かっちゃうんだろ?シャーロッテに落ちこぼれの僕の気持ちなんかわかるもんか」
「最っ低!」
シャーロッテは席を立ち、そのまま帰ってしまった。
「なんだよ。勝手なことばっかり言って」
フィンは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
少し、言い過ぎたことは自覚していた。
でも、どうしていいかわからなかった。
目の前にはシャーロッテの食べかけの菓子の皿が放置されたままだ。
しかし、木苺のタルトも、苔桃のパイも、殆ど欠片ぐらいしか残っていない。
フィンは苦笑しながら言った。
「……しっかり全部食べてってるじゃん」