9.「導かれた者」
●【9.「導かれた者」】
体が動かない。
寒さと、恐怖で。
必死で『雪の障壁』のスペルを思い出す。
━━━━━━━ 視界惑わすつぶての雪よ。白き守りの壁となれ。
たったこれだけの簡単な詠唱だった。
だが、その僅かな詠唱さえ、今のフィンには困難だった。
毒気の影響が出始めている。
頭がぼんやりしてきて、考えることさえままならない。
眷属はゆっくりと近づいてくる。
フィンのユクルはその毒気に当てられ、気を失って倒れている。
この場から逃げることはどう考えても無理そうだった。
さりとて、フィンに倒せる相手ではないということも明らかだった。
近づいてきたその眷属はとても大きかったのだ。
じっと獲物を視界に捕らえたまま近づいてくる眷属。
無謀なことをしたとフィンは後悔する。
眷属を倒せればなんて考えは甘かった。
もし、自分が一人前のマスターなら、ここでひるまず何か攻撃か、もしくは防御術を駆使してこの災厄を逃れたかもしれない。
でも、今の自分はどうだ?恐怖にガタガタと震えているだけではないか。
ああ、だから自分はできそこないと言われるのだ。
イズニー先生がいつも溜息をつくのも、シャーロッテが馬鹿にするのも、母がいつも困ったような顔をするのも、すべて自分のせいだというのに。
だけど、今ごろ後悔したってもう遅い。
中途半端なスペルマスターのまま、この眷属の腹の中に収まってみじめな生涯を終えるのだろうか?
そんなのは嫌だ。
絶対に嫌だ。
フィンは体に力を込める。
恐怖を振り払い、逃げようとする自分を叱り付け、奮い立たせようとする。
何のためにこんなところまで来たのか?
みじめなままでいたくないからじゃないのか?
すぐ近くにまで眷属は迫っている。ほんのひと飛びでフィンに飛びかかれる距離まで近づいてきた。
フィンは最後の覚悟を決める。
もう、逃げられない。
ならば、最後まで抗ってみせる。
「……視界惑わす……つぶて……の……雪よ……」
掠れた声がやっと出た。
だけど、思うようにその続きが出ない。
頭の中には完璧に雪の障壁を発動させる呪文があるのに。
その先が口から出ない。
後少し……あと少しがんばれば……。
眷属が近づくほどに意識が薄れてくる。
これ以上近づかれたら意識はなくなるだろう。そうなったらおしまいだ。
眷属はじりじり近づきながら、フィンが弱るのを待っているのかもしれない。
「白き……護りの……壁……と……なれ」
詠唱が終わったのと眷属がフィンに飛び掛ったのはほぼ同時だった。
突然、激しい吹雪がフィンの周囲に巻き起こる。
それが、フィンの回りに漂った毒気を振り払い、フィンの頭は冴えてくる。
しかし、もう間に合わなかった。
雪の障壁は毒気から身を守るための術で、直接攻撃からは守ってくれない。
「もうだめだ……」
フィンは体を硬くして眼をきゅっと閉じた。
━━━━━━━ 衝撃と、体を引き裂く激痛。
……は、いつまでたっても起こらなかった。
フィンはうっすらと眼を開ける。
眷属はフィンの目の前で倒れていた。
眉間から青い血を流して。
「……えっ?……」
何が起こったかフィンにはわからなかった。
フィンを狙って飛びかかったはずの眷属は、その急所である眉間から血を流して倒れている。眉間に深く突き刺さった一本の矢によって。
フィンは全身から力が抜けるのを自覚した。
「……助かった……」
フィンはその場に座り込んでしまう。
腰が抜けてしまったのだ。
「ラヤーシク」
「えっ?」
耳慣れない言葉がフィンの背後で聞こえた。
思わず、振り返ったフィンは言葉を失った。
吹雪の中に佇む白い影。
それは、雪で作った美しいひとがた。
風になびく長い髪は雪に溶け込むような純白。
そして、真っ白な雪の中に映える真紅の瞳。
「……戦乙女……」
眷属からフィンを救ったのは彼女だろう。
その手には弓が握られている。
「ラヤーシク?」
「何?」
「アバラサテマト。ヘシ、タボーレ?」
彼女は聞きなれぬ言葉を話した。
これは、おそらくネッカラ族の言葉。
デーデジア共通語は彼女に通じないようだ。
「ええっと……」
まずは言葉の壁をどうにかしなければならない。
「……あまたの言葉、聞き分ける耳、あまたの言葉、綴る声よ……」
フィンは自分の耳に右手を当て、自分の喉に左手を当てた。
翻訳術は初歩の魔道。
「大丈夫か?どこか怪我をしたりはしていない?」
彼女の言葉が判るようになった。
「助けてくれてありがとう……平気だよ」
フィンは彼を助けてくれたネッカラ族の少女に深くお辞儀をした。
彼女がいなかったら今ごろは、ばらばらに引き裂かれて先ほどの眷属の腹の中だったはずだ。
「そうか……無事でよかった」
物言いは少しぶっきらぼうな感じだったが、魅力的な雰囲気を持つ少女だった。
彼女は落ち着いた物腰で、フィンより少し年上のように見えた。
もしも、見た目を信じていいなら十五〜十六歳ぐらいのようにみえる。
もっとも、ソーナ族同様、人間より多少寿命の長いネッカラ族も、実年齢よりは見た目が若く見えるのでもっと年上なのかもしれないが。
「あんたソーナ族だね。なんで、こんなところにいる?」
「トラピネップへ行こうと思って……」
それを聞いた彼女は不審そうな顔でフィンを見た。
「あ……僕、単なる観光客じゃないから……」
「じゃあ、何を目的にトラピネップへ?」
「……目的……と言われても困るけど……とりあえず……修行……かな?」
「修行?」
彼女はますます妙な顔をした。
「……えっと……どう、説明すればいいのかな……」
フィンがもたもたしていると、彼女がいきなり大声をあげた。
「いけない!こんなことしてる場合じゃなかった!眷属が雪に溶けてしまう」
彼女はフィンそっちのけで、眷属の傍らにしゃがみ込み、ナイフを取り出すと額の角を抉り取った。
「竜石を取るんだね?」
「そうだ」
彼女はフィンの方を見向きもせず、黙々と作業を続けた。
フィンは彼女がいきなり眷属の胸を裂き、青い血にまみれた心臓を取り出したのをみて思わず顔をそむける。
獣の臓物を見ることなど、ソーナに居た頃にはなかったから、気持ち悪さと嫌悪感で眼を背けてしまったのだ。
見目麗しいネッカラ族の少女が、その美しい白い手に血まみれの臓物をがっちりと握っているのを見るのは、フィンにとって軽い衝撃でもあった。
「な……なんで心臓を取り出すの?竜石を取るだけじゃないの?」
しかし、彼女は答えようとしなかった。
「もしかして……食べるの?」
「馬鹿な」
彼女は振り返るとフィンを睨みつけた。
「人に害をなす眷属といえど、竜王ユズリ様の鱗だよ。そんな恐ろしいことできるわけないじゃないか」
「……ごめん。ちょっとびっくりしちゃったんで……じゃあ、なんで心臓なんか?」
「これは訳あり。理由は教えられない」
彼女は角を小さな小瓶に、心臓を皮袋に納めた。
眷属はじわじわと雪に溶け始めた。
別に理由なんか聞いてはいないんだけど……そう考えながら、フィンがぼんやりとその光景を眺めていると、彼女がフィンに声をかけた。
「さあ、行くよ」
「え?行くってどこへ」
驚いているフィンに彼女は言った。
「トラピネップ行くんでしょ?私の村に案内したげるよ」
「……いいの?」
「いくらソーナ族が魔道を使えるといっても、さっきのようなこともあるし、こんなところに一人でほっとくわけにいかないからね。でも、あんたがもしも私の村でおかしなことをしたら……」
彼女は腰に下げた剣に手をかけ、ちょっとだけ鞘から抜いてみせる。
「な……何もしないよ……」
フィンは慌てて首を横に振った。
「じゃあ、ついてきて」
彼女は自分が乗ってきたらしいユクルを引いてきた。フィンのユクルも正気を取り戻したらしく、フィンの側に近づいてきてフィンに甘えるように頭を摺り寄せてきた。
「あ……あの……」
フィンは彼女に向かって叫んだ。
「何?」
「僕の名前はフィン・リンド。君は?」
彼女は振り返ると面倒くさそうに答えた。
「ピリポサヌ・クリカ」




