元の世界
リツカは自分の腕を掻き抱き、血が滲む寸前まで唇を噛んでいた。それでも、体の震えが止まらないのだ。でもそれは、寒さからではない。
(アリスさんが、離れて……)
薄っすらと感じるアルレスィアの気配に、リツカは瞳を揺らす。
「分かってる……。風邪、引くもんね……」
リツカは、アルレスィアの想いを全て理解している。何故こうなったのかも、何もかも。
「また、来るね」
(”巫女”は辞めてないもん。ここに来るのは、止められないですよ……。神さま……)
リツカは無理矢理力を入れて立ち上がり、”神の森”の出口へと向かって行く。
(魔力、封じられてる。こんなに体、重かったっけ……。体重、変わってないのに……)
水を吸った巫女の服は重い。魔力による補助に慣れてしまったリツカには、こちらの生活での慣れが必要となってしまっている。
「手は、戻ったけど……まだ体、浮いてるみたい」
(とにかく、家に……、アリスさん感じない……辛い……)
色々と考えるが、行き着くのはアルレスィアが居ないという現実だった。
「贈り物とかも、置いてきちゃった。イヤリングとブレスレット、服は残してくれたのは、嬉しいかも」
独り言がどんどんと大きくなっていく。あんなにも大好きで、この森に居れば孤独を感じないとまで言っていたリツカだが、今はその孤独感に苛まれている。
「ん……あれ、私の」
帰り道、リツカのバッグが落ちていた。それは約二ヶ月前、リツカが花見の為に持ってきた物だった。
「……流石に、腐ってるんじゃないかな」
(甘酒ってアルコールないんだっけ。でも今は、酔いたいかも……)
柄にも無い事を考えながら、リツカは荷物を持って”神の森”を後にした。”神の森”はリツカの帰郷を喜んだ。絶望したリツカにも、その喜びが届いている。
それは嬉しい歓迎であった。だけどそれを――昔の様に楽しむ事が、リツカには出来なかったのだった。
「あら……十花さん? その格好は」
商店街前を通りかかった時、リツカは声をかけられた。
(お母さんと、間違われるのは、初めてかも)
瓜二つな二人だが、見間違われた事はない。この町で二人は有名人だ。美人だし、”巫女”という特異な役職についている。年齢が上になればなるほど、知名度は高まっていく。
「今日も、行くんですか?」
(ああ、そっか。流石に二ヶ月も行方不明だと、流石に……もう、諦めてるよね。でもお母さんは今も、森に通ってるんだ)
リツカが帰ってくると信じている十花は、今も森に入り浸っていた。だからリツカと十花を間違えたのだ。もう帰る事はないと思われていたリツカと十花を間違えるのも仕方ないのかもしれない。
「私は――」
「立花……?」
「あ」
十花ではないと否定しようとしたリツカに、懐かしい声が届く。
「椿、久しぶり」
「久しぶりじゃない!! 何処行ってたの!? それにその格好……誘拐犯の趣味か何か!?」
こちらの世界では、派手目のドレスにしか見えない巫女の服だ。椿の反応は何もおかしいところは無い。だけどリツカは、宝物を変質者の趣味と言われてしまった事に落ち込んでいる。
「誘拐じゃないよ。ちょっとだけ――」
旅に行っていた。と言おうとして、リツカは言いよどむ。
「誘拐じゃないなら、何よ……二ヶ月も何処に」
「夢、見てたの」
「はぁ? あんた何冗談言って」
椿はそこで改めて、リツカの顔を見た。そして、眉間に皺を寄せて言葉を詰まらせる。
リツカもまた、アルレスィアのように力の無い笑みを浮かべた。本当に力のないものだ。ちょっとでも目を離したら、消えてなくなりそうな程に。
「……とにかく、警察行きましょ」
「んーん。そのまま家に帰るよ」
(警察よりも、帰って来たのを伝えないといけない場所があるし)
”巫女”関係は警察では処理できない。最初から祖母を通じて連絡した方が手っ取り早い。
「立花」
「ん?」
家に帰ろうとしたリツカに、椿が声を掛ける。
「いつかちゃんと、説明しなさいよ」
「……うん」
そして椿は、走り去って行った。リツカは「一緒に行けば良いのに」と思ったが、まだもう少し一人で居たい為丁度良いと、再び歩を進めた。
「……十花さんじゃなかったの? え、じゃあ立花ちゃん!?」
無視する形になってしまった商店街の者の声が後ろから聞こえたが、今のリツカに説明するだけの気力はなかった。
「……」
十花が今日も”神の森”へと出掛けようとしている。もはや壱花は止めようとはしない。気が済むまでやらせると、武人とも決めている。
「……?」
「あ……」
丁度扉を開けようとしたリツカと十花の視線が合う。リツカとしては気まずい出会い方だった。十花が毎日のように森に通っていたのは明白な為、心配をかけていたのだから。
「……」
「……?」
首を傾げるのが十花からリツカへと変わる。十花は虚ろな目で、リツカを見ているだけだ。
「どうして……」
リツカがハッとする。十花は目の前のリツカが、鏡に映った自分と思っているようだ。
明らかに格好が違う。身長もそうだし、十花とリツカは良く似ているが、本人達からすれば結構違いがある。
リツカがハッとしたのは、十花が鏡に映った自分などという、素っ頓狂な考えになってしまう程に追い込まれた事についてだ。
自分の格好すら知らないのだろう。目の下に隈がある事も、一切整えていない髪の事も。十花は身嗜みについては煩かった。リツカも良く怒られたものだ。なのにそんな十花が、こんなにも変わり果てている。
「お母、さん」
「立花なの……?」
「うん……」
「立花……立花ぁ!!」
声を出す事も殆どなかったのだろう。綺麗だったアルトボイスは今やざらつき、掠れている。
リツカを抱き締める力は、綿菓子を潰す事すら出来そうにない程に弱い。
「十花、どうしたの――」
玄関で大きな声を上げた十花の様子を見に、花を手に持ち壱花がやってくる。活花をしていたのだろう。しかし立花を見止めると、手に持っていた花を落として駆け寄ってきた。
「怪我はない!? 変な事とか……とにかく、大丈夫なの!?」
「……う、ん」
壱花も、見た事がない程に声を荒げ混乱している。
そこでリツカは、自身の考えがいかに甘かったかを悟った。
リツカは大切な子だ。そんな子が二ヶ月も何処かに行っていた。十花も壱花も、リツカを失う事が怖かった。
なのにリツカは、再び向こうに行く事を考えていた。十花と壱花も、大切な家族なのに、アルレスィアだけしか見えていなかった。
「立花……良かった……」
「ごめん、なさい」
「良いの……帰って来てくれて、良かった……」
十花はリツカを慈しむように撫でる。リツカはそんな時でも、アルレスィアに撫でられていた時を考えてしまう。
でも、再び向こうに行くかという考えについては――迷い始めていたのだった。
その後壱花の連絡により、リツカの帰還が告げられた。精密検査を何度も行い、未だに”巫女”である事だけは確認出来たので、家へと帰された。
詳しい結果は、後程届けるらしい。
その検査は行程が多く、何十にも及んだが迅速だった。夜には家へ帰る事が出来たのはそのお陰だろう。
家に帰ると父、武人も緊急帰宅していた。気丈に振る舞い、家庭の為に働いていた武人だが、やはり心配だったのだ。
思わずリツカを抱き上げてしまう。まだ精密検査の結果が届いていないのにと、十花に腕をキメられたが、武人は嬉しそうだった。
前の、抜け殻の様な十花から、元の十花に戻った事が嬉しいのだ。
この世界の、この家に帰って来た事をリツカは強く実感した。
実感するにつれ、涙ぐんでしまう。この温かい家族を大切という気持ちに偽りはない。こうやって笑顔を取り戻してくれたのは本当に嬉しいのだ。
だけどリツカはやっぱり――。