『ノイス』北部の大市③
「シーアさん。入るよー」
返事がないです。アリスさんと顔を見合わせて、中に入ります。
「シーアさん?」
昨日見た時よりは、少しだけ整頓された形跡があります。でも殆ど進んでません。
「……」
パラパラと、すごいスピードで本を捲るシーアさんがいました。速読、というものでしょうか。要点だけをすばやく選択して読む力です。ただ読むのではなく、理解まで含めての速読は無理とまで言われています。シーアさんは、それが出来るみたいです。
でも、今気になるのはそれではありません。掃除の際、昔読んだ物とか懐かしい物を見つけて読み耽る事があるというのは、知っています。母がそうだったはずです。昔のアルバムとか見つけては、祖母と懐かしんでいました。終ぞ私に中身を見せてくれなかったのですけど、何だったのでしょう。
「集中しきってるし、今日は無理っぽいかな」
「そうですね……。こちらに固めた本は大丈夫なのかもしれませんけど、勝手に運ぶのも……」
「仕方ないね。今日は諦めよっか」
ノイスまでに整頓したかったですけど、シーアさんにとって必要な物みたいですから、捨てる物はないのでしょう。倉庫に空きがあるか、後で確認しておきますか。
とりあえず、一旦甲板に上がります。レイメイさんに任せっきりという事ですから、異変がなかったかの確認だけしないと。
「何かありましたか」
「何もねぇ――――って、何だその頭」
「え?」
ゴミでもついていたのでしょうか。アリスさんを見ても、にこりと微笑むだけなので、ゴミがついているという訳ではなさそうです。何で急に、眉間に皺を寄せた表情で見られたのでしょう。
「レイメイさん」
「あ? あぁ……」
「察しが良くなって助かります」
「その為に訓練してる訳じゃねぇ」
首を傾げる私の頭を、アリスさんが撫でます。気にしなくても良いようです。
マリスタザリアも、困っている人も居なかったとの事です。しかし、問題ですね。レイメイさんの実戦経験が全然稼げていません。王国侵攻戦争と、メルクでの戦闘くらいですか。当初の予定では、北部では沢山のマリスタザリアが居ると思っていました。しかし実際はこれです。こんなにも居ないとは、困りました。
「これからは、マリスタザリアにはレイメイさんが対応してください」
「どういう風の吹き回しだ」
「もちろん、人命がかかっていればその限りではないです」
数少ない機会を大切に扱って貰わないといけません。対人と対マリスタザリアでは動きに差がありすぎます。どんなに人と戦っても、力はつきません。もしもこのまま戦う機会に恵まれなければ……十分くらいを目安に、私が……マクゼルトの代わりを務めましょう。
アリスさんは首を横に振るでしょうけど、最終的な着地点を考えると必要な事です。マクゼルトをレイメイさんに任せる。これを念頭に動いているのですから、戦える力が足りないのは問題外となります。
「戦う機会に恵まれなかったら私と本気で戦ってもらいます」
「いつもの奴か」
「いいえ。アレを使った私と戦ってもらいます」
「……」
やはり、アリスさんは良い顔をしてくれません。でも、止める事はしませんでした。ありがとう、アリスさん。私の我侭を聞いてくれて。
「アレ?」
「その時になったら分かります」
レイメイさんを、対マクゼルトの切り札とします。”風”には”風”です。私が、あの……憎き影の幹部と戦う為に、レイメイさんはマクゼルトと絶対に戦ってもらいます。
「安心して叩きのめされてください」
「……あぁ」
その時は容赦しません。
「そろそろ窪みが見えてきますよ」
アリスさんが船の外に視線を向けます。私も一緒の方向を見ました。少し山になっている向こう側が凹んでいるのでしょうか。
「少し止めましょう」
「あぁ」
船を止めて、どれくらいの大きさか確認するようです。いきなり飛び込んで、落ちでもしたら事ですからね。
「チビは」
「本を読んでます」
「……掃除は」
「してません」
船が動いてなかったら、シーアさんも顔を出すでしょう。集中の切れ間があればの話ですけど。徹夜で研究し続けられるシーアさんですから、人よりもずっと集中力があるのは確かです。窪みに興味があるみたいですし、余りにも出て来なかったら再び声をかけましょう。
「船を固定したら俺も降りる」
「分かりました」
「よろしくお願いします」
先に降りて、窪みに近づいていきます。柵もなければ、注意書きもありません。山なりになっていて、見つけ難いというのに……これは危険です。
「わぁ……すご……」
スペリオル湖やバイカル湖から水を全部抜いたような……それは誇張表現ですけど、それを連想してしまいそうな程の衝撃的な光景です。
「人為的に作ろうと思っても、無理そうですね」
「魔法じゃ、無理そう」
これを作ろうと思うと、特大の爆弾でも不可能ではないでしょうか。それも、周囲に気付かせずにです。いつの間にか出来ていたという大落窪です。こんなもの、自然に出来るのでしょうか。
「降りて、みますか?」
「そうだね。中央に、何かあるかも」
お椀のような窪みですから、降りれない事もないです。
「それじゃあ、しっかり摑まってて」
「はい」
お姫様抱っこでアリスさんを抱えて降ります。途中、帰る時に使えそうな足場を確認しながら行ったので、ちょっと時間がかかりました。中心付近は思ったよりも、凹凸が少ないです。
それでも足場が悪いので、アリスさんを抱えたまま探索をします。
「何か、体の奥がざわざわする、かな」
悪意とか関係なく、大きくて壮大な何かを前にすると胸の奥がざわつきます。”神の森”や”神林”の時は、生まれた時から私の中にあったような安心感がありましたけど、ここは何もありません。もし一人で降りていたら不安で押し潰されていたかも。
「この光景こそが、世界の死なのかもしれません」
「だから、ざわつくんだ……」
神さまの調整が出来なくなった世界。”神林”がなくなり、神さまの干渉が出来なくなると、世界が死にます。それが、この景色なのかもしれません。
「こ――――リッ――――………?」
「え?」
目の前に居るはずのアリスさんの声が遠のいていきます。何、これ……。待って、私まだ――――。
「リッカさま……? いっ……」
目が虚ろになったリツカの手が、アルレスィアを強く抱き締める。アルレスィアは少しの痛みを感じたけれど、傷が付かない程度なのでそのまま抱かれている。振り解こうと思えば解けるが、今のリツカから離れる事をアルレスィアが選択するはずがなかった。リツカは今にも……消えてしまいそうだったから。
「どうしたんでス?」
「リッカさま、が……!」
少し苦しげに、それ以上に困惑と焦燥を浮かべてアルレスィアが答える。尋常ではない状況に、レティシアとウィンツェッツが戦闘態勢を取った。
「巫女さン。悪意ハ」
「ありません……。まるで、リッカさまの魂が何かに引っ張られるように……!!」
「敵襲じゃねぇのか……? 魔王の魔法って可能性は」
「魔力色が見えませン。あの時メルクで見タ、黒色がありませんかラ」
状況を一つずつ確認しながら、リツカとアルレスィアを守るように立つ。チラと見たリツカの瞳に光はなく、アルレスィアを離さないようにか、それとも離れないようにか、手に力が篭っていた。
「この場から離れるのハ、どうでス」
「状況が分からない以上、下手に動くのは……!」
「敵が居る訳じゃねぇんだ。このまま様子見が一番か」
「そのようですネ。大丈夫、なんですよネ」
「分かりません……こんな事、何で…………」
瞼は閉じていないけれど、リツカの瞳が揺れ始めた。それはまるで……夢を見ているようだった。
(何、ここ……)
リツカは、真っ白な空間に居た。安心感がある白なのに、リツカの不安は増す一方だ。
(声が、出ない? それとも……体が……ない?)
視線しか動かせないリツカは、その不安を表す様に瞳を揺らし、涙を溜める。
「どうして、きみが……?」
困惑の声に、リツカが勢い良く視線を向ける。その声しか、縋る者がないのもさることながら、声に聞き覚えがあったからだ。
(神……さま……!)
「あぁ……リツカ。今はここに来てはいけないよ」
悲しさと、少しの嬉しさを携えたアルツィアが、リツカの前に立っていた。
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