人間以上、機械未満
現在の計算機と脳の接続は、直接的ではない。しかし、知覚系を通して、すでに接続している。それを全体としての大きな脳と考えるなら、現在の計算機とは、身体の中での腸のようなものである。
――養老孟司「唯脳論」より
一
「クビって、どういうことですか」
北岡航犀は入室するなり待ち受けていた店長に抗議した。
「どういうこともなにも、そのままの意味だよ」
店長は煙草を口から離して紫煙まじり言い返した言葉はただそれだけだった。
手に持った煙草の先からは煙がくるくると廻りながら昇っている。
「座ったら?」
北岡は会釈すると、鼻を押さえながら座った。北岡は煙草が苦手だ。店長はそれを知っているはずだった。
顔を上げると、元の色がうかがえないほど薄汚れた天井材には店長の息が靄のようにかかっていた。
まだ空気清浄機が設置されていない。
「健康法違反ですよ」
「僕は肺を義体化しているし、このタバコは健康基準をクリアしたやつだから」
だとしても違法は違法だ。文句を言いかけたとき、店長が口を開いた。
「航犀くんさ、いくら文句を言われても困るんだよね。もう決まったことなんだから」
「でも、店長、社員にしてくれるって言ったじゃないですか。忘れたんですか」
店長は顔をしかめた。声を震わせながら北岡は続けた。
「バイト始めて一年たったとき、約束してくれましたよね。高校卒業したら社員にしてやる、うちでいつまでも働きな、って……」
店長は大きな溜息をはいて膝に肘をついた。錆びたパイプ椅子が軋みを上げる。
店長は蛇のような目つきで北岡を睨みつけた。
彼の目に親しみはなかった。バイト二年目でやらかした大失敗のときでも、店長はこんな目をしなかった。北岡は絶句した。
事務室の薄い扉の向こうからは喧騒が聞こえている。時刻はちょうど正午ごろ、定食屋が忙しくなる時間帯だった。昼下がりの太陽も窓のないこの部屋には届かない。時代遅れの蛍光灯が二人の頭上で明滅している。
「替えどきかな」
「なんですって?」
「そういう時期なんだろうさ」
「どういう意味ですか」
「どういう意味って、そのままの意味だよ」
北岡は押し黙った。
煙草の先端がちりちり燃えていった。もう小指の先ほどの長さだった。店長は胸ポケットから携帯灰皿を取り出すとそれを放り込んだ。
ただ時間だけが過ぎていく。
北岡は懐中時計を取り出した。
渇、渇、……と呻く歯車。小さな円の中に閉じ込められた芸術。ガラス板により臓腑を晒された骨董品。
先祖の一人が戯れに作った懐中時計。母の遺品だった。
掌の中の完璧な秩序を意識して、動揺した心を落ち着けようと試みる。
深淵で振り子が動き、特性の異なる大小様々の歯車によるフラクタルが駆動する。
幾百もの駆動の結論が、三本の針。回転回転、変転流転。輾転する機構、回る針。
ふう、と北岡は息を吐いた。体の奥で、心臓が穏やかに拍動するのを感じた。針の示す時刻を見れば、事務室に来てからまだ時間は殆ど経っていない。
北岡は時計を仕舞うと額に浮いた汗を拭った。
「航犀くんさ、ニュース見たりする?」
不意打ちだった。北岡は当惑した。意図が読めなかった。
顔色をうかがいながら、彼は慎重に答えた。
「夕方のニュースと、深夜の経済ニュースくらいですけど」
「経済ニュース? なんか意外だな」
「親父からの影響です。といっても、最近は低所得者の失踪事件ばかり調べてますけど……」
「あ、そう」
北岡は額の汗を拭った。余計なことを言ったと後悔した。店長を見ると、彼は糸の切れた人形のように微動だにせず、沈黙を続けた。
耐えかねて、北岡は立ち上がった。
「話を逸らさないでくださいよ。なんでクビなんですか。状況ってなんですか」
「ユートピア法、聞いたことない?」
ひどく冷静な声に勢いを削がれた北岡は、ひどくもやもやした気持ちのまま腰を下ろして、目線をさまよわせた。
「そりゃ、ありますけど」
「五年前の理想郷宣言を下敷きにして、こないだやっと法案が可決されたって散々報道されたでしょ。当然知ってるでしょうが。経済ニュース見てるんじゃないの」
苛立った店長の口調に北岡は返す言葉がない。店長はため息を付きながら掌で額を擦る。
北岡は我々ならなし得ると叫ぶ、深く皺が刻まれていた口元を思い出していた。
人は有史以前から、社会において労働という歯車を背負わされることを要請されてきた。だが人間に代替できる機械は年々数と種類を増やしてきた。……もはや人は労働する必要はない。社会を駆動する歯車を、機械たちに担わせよう。そして我々は自らの手で再建した機械仕掛けの楽園において自由に、そして幸福に暮らそうではないか。
某国の元大統領だった黒人の現国連代表の言葉だ。
「スローガン、言える?」
「……人間に休息を、機械に労働を……」
「そうそう。よく知ってるじゃない」
明るい口調で店長は笑ったが、目がきゅっと細まり丸くなる様子は、なんだか蛙に似ていた。北岡はまったく笑えなかった。
「飲食業は人を減らせとお上から発せられたんだよ。そろそろ新年度だし、替えるならちょうどいいだろう、ってさ」
「ちょうどいいだろう、って……」
「例の先行試用型が巷でけっこう評判いいから、オーナーも導入を決めたみたいなんだ。ほら、この間からうちに来たあの――」
扉がノックされ、店長は言葉を止めた。
「どうぞ」
「失礼します」
音もなく扉が開いた。それで北岡は、やつが来たんだとすぐにわかった。北岡は振り向き、その丸みを帯びた輪郭を捉えた。
座った北岡と大差ない高さ。人間そっくりの輪郭をしたそれは、店員用の制服を着せられていた。その頭部はヘルメットのような形状で、前面がディスプレイだ。
オレンジのドットで笑顔が表示されている。
「お茶をお持ちしました」
若い女の合成音声。左手で器用に持ったお盆にはカップが二つ載っていた。
店長は顔をほころばせた。
「おぉ、ありがとうキューちゃん。ちょっとそこで待ってくれ」
「承知致しました」
「きゅ、キューちゃん?」
思わず北岡は問い返していた。
「労働用機械G型9号、なんて名前じゃ味気ないだろ? あだ名だよ、あだ名。名前は大切だ」
二人の側にG-9号は待機した。北岡はG‐9号を交互に見やった。蛍光灯の光を反射するボディは病んだように白かった。
北岡は店長を見やった。黄ばんだ瞳が彼を見つめていた。様々な言葉が湧き上がるも、どれも途中で弾けていった。
「まさか、こいつが……俺の代わりなんですか?」
絞り出せた言葉はそれだけだった。
店長の瞳に呆然とした顔が映り込んでいる。答えがわかっていても否定したい、信じたくない男の表情だった。それが自分だと、北岡は思いたくなかった。
「調理は君より上手い人がいるんだよ。勿論、僕も反対はしたんだよ? 口約束でも約束は約束、僕は義理を果たさにゃいけません、って」
「じゃあどうして」
「雇われ店長にはどうしようもなかったんだ。オーナーからはね、生身の人より機械のほうが上出来な歯車だろうって、言われちゃったよ」
北岡はなにも言えなかった。左手を痛む腹部に当てた。店長はタバコを咥えた。
そのままずっと吸ってればいい。
だが店長はタバコを口から離すと、北岡を見て息を吸った。ぐ、と喉仏が上がって止まる。言葉が産まれようとしている。唾が口腔に糸を引いており、歯はどれも黄ばんでいた。
「悪いけど、明日からもう来なくていいよ」
それがトドメだ。北岡の体じゅうから力が抜けた。
自分は職を得るはずだった。だから進学もしなかった。しかし歯車失格の烙印を押されて、もといた社会の位置から外される。それは彼が、何者でもなくなることを意味していた。
身の振り方を考えなくてはならない。なにをすればいい? どうすればいい。わからない。
様々な思いが一斉に襲いかかり、北岡はなにかにすがらないと立ってさえいられなかった。
視界の隅にG-9号が変わらず佇んでいる。北岡はそれを睨みつけて気を保った。
こんなものが、俺を蹴落としたのか? こんな人間の出来損ないみたいなものが?
気がつくと北岡は、G-9号を蹴り飛ばしていた。
コップが割れる。コーヒーが破片とともに飛び散る。続いてG-9号の倒れる鈍い音。
突然の行為に店長は呆気にとられていた。
姿勢を崩されたG-9号は、手をついて立ち上がろうとする。人間そっくりの所作が余計に北岡を苛立たせた。
「人間の真似なんかしやがって」
頭部を何度も踏みつけられたG-9号のディスプレイにひびが入った。
圧力センサーから受け取った刺激を総合的に判断し、行為を暴力だとG-9号は判断した。 対人用自衛プログラムが作動してG-9号に録音された女の悲鳴が上がる。
「やめて、やめて、やめて……」
G-9号は顔を腕でかばう。
北岡は横に倒れていたG-9号を蹴って転がし仰向けにすると、のしかかってひび割れた顔面を殴りつけた。何度も殴るうち、彼の拳が裂ける。血がG-9号の銀白色の首筋に付着した。ひびが広がり、表情の表示が消えた。
「深刻な破損です。深刻な破損です。深刻な……」
ひび割れが広がり表示されていた笑顔が消えた。
そうしてようやく、北岡の顔面に革靴が叩き込まれた。
「なにしてくれんだ!」
店長は仰向けに倒れた北岡の無防備な腹部をなんども蹴りつけた。北岡のくすんだ青いシャツの汚れが増えるたび、その口から低い音が漏れた。
朦朧とする視界の中心、組んだ腕の間から顔を真っ赤にした蛙が唾を撒き散らしながら喚いているのが見えた。
「おまえの値段とこいつの値段と、どっちが高いと思ってんだ!」
腕から力が抜けた瞬間、店長の爪先が北岡の顎を捉えた。北岡は気絶した。
二
北岡は朦朧とする中、視界の真ん中で明滅する蛍光灯をぼんやり見つめていた。不規則に点いたり消えたりする光は躁鬱症めいている。
意識がはっきりしてくると、北岡は慌てて胸ポケットをまさぐる。そして目当てのものを見つけて落胆した。
懐中時計は動いていたが、何箇所かへこんでおり、文字盤がいくつかなかった。
当たり前のようにあるはずのものが欠けている。それだけで自分の周りのなにもかもが安定を失ったように感じられる。
北岡は痛む体を起こし立ち上がった。
扉近くの事務机の上には退職金と書かれた封筒が置いてある。北岡は迷わず手に取った。
裏口から店を出ると、野良猫が彼を出迎えた。北岡はチェーン店で牛丼を食べると、とぼとぼと家に帰り、風呂に入らぬまま寝た。
翌日から、時間はあっという間に過ぎていった。
社員・アルバイト募集の広告を出している企業を町中やネットで見つけては履歴書を出した。そうしてその殆どに失敗した。たまに見つける日雇いは修理中の労働用機械の代理ばかりで、安い給料しか貰えなかった。
ほどなくして食事は日に一度、多くて二度に減った。
部屋に積もる埃を掃く気力もないまま寝る日々が続いていたある日母の夢を見るようになった。
やけに鮮やかな色彩のせいで、起きているときでも思い出せる。
真っ白な空の下、卒塔婆のように乱立する摩天楼。荒廃し所々崩壊したその間隙を血管のように通る高速道路に北岡は立っている。
どこを見ても文字盤の欠けた懐中時計が溶けている。宙に浮いているものは鴉にたかられ、地に横たわったものは野良犬にたかられ、壁の表面に着いたものには蛆が湧いていた。
ひび割れた道路を道なりに進むと、視界に紅い海が飛び込んでくる。道路を覆って一面に咲く彼岸花だ。
見惚れていると、ふと正面に蓋の閉じた懐中時計があることに気づく。それは人と変わらぬ大きさで、支えもないのに地面に垂直に立っている。
鏡のように磨かれた蓋には死体のように顔色の悪い北岡自身が映っているが、見つめていると薄らいでゆき、入れ替わるようにして裸の女の後姿が浮かび上がってくる。卍のように四肢を投げ出した、白い背中が真鍮の表面に生々しく映っている。
そうして、気がついたら走りだしている。
花は踏み潰されると、弾けて紅い血飛沫が飛んだ。北岡は返り血まみれになりながら走りきり、息を切らして蓋に手をかける。
力を込めようとすると、蓋が内側から開いて生白い手が北岡を迎える。
細い指先が首を包み、ぐっと力が込められて、体の中で硝子をぐしゃぐしゃに砕く音が響く。全身が脱力して、女に導かれるまま暗闇に潜る。
意識がぼんやりしていく最中、甘い花の香りと冷たい体温、それから囁き声を聞く。
「――――」
なんと言っているか判らない。だが声色で、母だと判る。
背後で蓋が閉じる音がして、世界が真っ暗になる。抱きしめられた北岡の全身に、大きな、規則正しい音が響く。そうして深淵の奥に光を感じて――
そして、いつもそこで目が覚めた。起きてからしばらく、鼻腔には甘い残り香を感じられた。
夢は毎晩続いた。そのうち北岡は、時間が空くと母のことを考えるようになった。
母は研究者だった。北岡がまだ幼いころに国家プロジェクトへの参加が決定し、月に一度しか帰らなくなった。
一度だけ仕事場に遊びに行ったことがあるらしいが、思い出せない。そのせいもあってか、母は北岡にとって遠い存在だった。
母は必ず、午後九時ちょうどに家に戻った。仕事の話をすることもなく、ただ静かに夜を過ごし、翌日誰よりも早く家を出た。
十三歳の誕生日を北岡は忘れない。その月はすでに一度母は帰宅していた。けれどその夜、母は帰ってきた。父が仕掛けたサプライズだった。
母は父とハッピーバースデーを歌って、息子を抱きしめた。背中に回された腕は、はじめは力強かったのに、だんだんと弱々しくなっていった。戸惑う北岡に、疲れちゃった、と呟くと、安楽椅子に座って眠った。
そうして、朝になっても目覚めなかった。
いまも母は収容されたT大学病院の一室で眠り続けている。脳も、心臓も、なにひとつ問題なく機能しているにも関わらず。
母との僅かな記憶を思い返すうち、北岡は母のことをなにも知らないことに気がついた。母とは則ち、北岡に微笑みかける思い出だった。倒れてから五年、見舞い行ったこともない。その遺言を忘れたことはなかったが、ひどく後ろめたかった。
北岡は仕事を探す合間に様々な手で母のことを調べた。最後の仕事はわからなかったが、母がロボット工学の権威だったということ、母の症状は類例が存在しないことを知った。
毎晩夢で母に会う僅かな間に、北岡はその日知ったことを話した。話を聞く母の微笑みを見ると、五年という時間が引き離した距離が縮まっているような気がした。
しかし、二週間が過ぎようとする頃になってそれは起きた。その時北岡は、公園で配給品のパケットの流動食を吸いながら、花壇の向こうの日常を眺めていた。
ホログラフ広告の海。ポケットティッシュを配るロボット嬢。義体化したが、ソフトウェアエラーでびっこを引いて歩く低所得者。
老朽化したマンションが爆破解体される音が、その日もどこかから響いていた。
ひときわ大きな爆発音。その直後、北岡の頭の中いっぱいに夢で聞いたあの大きな音が広がり、意識が遠のく感覚に襲われる。
「航犀」
名を呼ばれて顔を上げると、そこには真鍮の時計がある。閉じられた蓋には、男が写っている。その肩に母が手を置いていた。
男の頬は剥げており、その下から、無数の歯車が露わになっている。
「これが本当のあなたよ」
母の声だと気づいて、北岡は思わず立ち上がった。しかしもう、母も時計も消えていた。
夢が現実を侵しているのだ。文字盤をもとに戻さないといけない。
北岡はそう直感した。
だが修理屋に行けず、仕事も見つからず、夢で母との逢瀬を繰り返してひと月が経った。
三
新月の晩、北岡は面接からの帰路で猿彦と再会した。
猿彦は北岡の高校時代の友人でで、学業よりも専ら人付き合いに精を出していた男だ。進学しても気風は変わらず、ボサボサの黒髪にいつ見ても長さが一定の無精髭といった顔立ちも変わらなかった。
居酒屋に入ろうとした猿彦に今は金に困っている、申し訳ないが安く済ませようと告げたところ、猿彦は声色から何かを察知したのだろう、
「訳ありだな。宅飲みしよう」
と言うなり近所のコンビニに行って缶ビールを数本購入した。猿彦は奢ると言ったのでありがたく好意に甘えた。
支払いの時、猿彦は虹彩認証による引き落としを申し出た。スキャナに目を近づけると軽快な音がレジから響いた。北岡は驚いた。
「義体化したのか」
「ああ、まあ、な」
北岡の知る猿彦は、脳はともかく生身のまま一生を遂げるとうそぶくような男だった。ほとんどの生徒が休み時間にVRゲームに潜航するなか、猿彦は実世界で景色を見ながら飯をつつ北岡との言葉遊びめいた雑談に興じた。
「お前みたいな自然派が、どうして」
道すがら尋ねると、猿彦は少し悩んだ後言った。
「替えどきだったからかな」
北岡はそれ以上訊かなかった。
近かったので、二人は北岡の安アパートで卓袱台を囲んで乾杯した。
酒が二杯ほど入ったころ互いの近況の話になった。様子を聞いてみると、上機嫌に猿彦は話した。
「大学卒業したらうちにこいって言ってくれた会社があってな。ユートピア法成立後各地で生身の労働者が大量解雇された話、知ってるだろ。こりゃ逃す手はないと思ってな。で、話を受けたいって言ったら……」
猿彦は残り少なかった盃を空けて継ぎ足しながらもう片方の手で顔を指差し、
「交換条件として求められてな」
「それで目を?」
「舌もだ。特注の舌なんだぜ。品質管理のためらしい。将来の保証としては手術は安いリスクだったよ」
なみなみ注いでぐいっとあおる。一息で飲み干した猿彦は気持ちよさそうな笑顔だった。
裏切られた気分だった。自分は生身のまま身を持ち崩したというのに。だがそれは理不尽な感情だと彼自身判っていた。
北岡はなにも言わずに酒を呑んだ。喉がひりひりして眉をしかめる。ネクタイを緩め、シャツの第一ボタンを外そうと指をかける。
「あ」
ほつれていたのかボタンはぽろりと零れ落ち、とぽんと手元のお猪口に沈んだ。揺れる水面は夢で見た空によく似ている。酔いが回ってきたためか、どこかで大きな音がする。頭の天辺がぼうっとして、なにかが渦を巻いている。渇渇噛み合う歯車の音、揺れる視界に溶けた時計。
「大丈夫か」
北岡は胡乱な目を向けた。
「え、ああ、大丈夫だよ。うん」
「そうは見えん。嫌なことがあったんだろう、お前はいつも抱えこむ」
「どうしてわかる」
「友達だからさ」
「…………」
「話してくれ。なにがあった」
まっすぐな瞳になんと返せば良いものか、気まずくなって目を逸らす。気を紛らわせようとしてお猪口に手を伸ばしたら猿彦に手首を掴まれた。
「ボタン」
「あ……」
「しっかりしてくれよ、航犀。なあ、話してくれよ。友達だろう」
しばしの沈黙の後、ゆっくりと、けどはっきりと北岡は頷いた。
猿彦は手を離した。
北岡は卓上に、懐から出した懐中時計を置いて開いた。時計の欠けた文字盤を見て猿彦は目をむいた。
「おまえ、これ、……」
猿彦の言葉に、北岡は自嘲した。
「こいつがおかしくなってから、すっかりダメになっちまった」
北岡は今まで過ごしてきた日々を話した。時計が壊れたきっかけから旧友と再会するまでを猿彦は黙って聞いていた。
「……俺には、助けることができそうにない」
「仕方ないさ。お互い自分のことで手一杯。お前は立派な歯車になって、俺は噛み合わない不良品になっちまった。それだけのことさ」
「噛合せを良くすることはできるだろう」
「義体化する金なんて出せやしないよ。それに、親父には迷惑をかけたくないし……」
「お前がそういうなら……まあ、とにかく飲め」
猿彦はお猪口からボタンを取り除いて酒を注いだ。北岡は受け取るなり一気飲みする。
ぷはあ。酒気そのものの吐息とともに、ああそう言えばと北岡は付け足した。
「俺さ、機械仕掛けだったんだよ」
「……なんだって?」
「公園で飯食ってたら、目の前に夢に出てきた懐中時計があってな、そこに俺が映ってんだ。ほっぺの皮がなくってさ、その中に綺麗に組み合わさった歯車があった。懐中時計の内側、あんな感じでさ……」
猿彦は興味深そうに聞いていた。
「人体は自らゼンマイを巻く機械であり、永久運動の生きた見本である……とは違うか」
「なんだそれ」
「人間機械論。人のあらゆる活動は物理的作用によるもので本質は機械と変わらない、って話を偉い人が書きつけたんだ」
「へえ、人が機械と同じ。それじゃ、人が織りなす社会も機械なのかな。……まるで自律する懐中時計だ」
「どういうことだい、大先生」
北岡の赤らんだ頬が緩んだ。学生の頃、この揶揄が始めの合図だった。北岡は仰々しく話し始める。
「懐中時計は一つの世界だ。整然と歯車が噛み合い連動して時計の針を回している。針の変化量を俺たちは時間と呼んでるわけで、こいつが社会が共有する時間の根幹だ」
「フムン」
「人の肉体は生理的時計をもっているから一つの懐中時計だといえるだろう。だが、俺たちは社会に所属することで生きていくから、生理的時計は社会の時間に規定される」
「社会の時間は個人の時間を支配する……確かにそうだ」
「社会は大きな懐中時計で、人はそれを駆動させる歯車、そして同時に小さな懐中時計である。そう言えると思わないか」
「だけど、懐中時計は自律できない。誰かがゼンマイを巻かなければそもそも動き出しもしない。社会のゼンマイは誰が巻くんだ」
「社会は自らゼンマイを巻く機構をもっている。何か判るか? ……人だよ。人が社会の時間に従うことで、社会の時間もつつがなく進行する。
ある見方をすれば、人が社会を動かしているとも言えて、社会が人を動かしているとも言える」
「……卵が先か、鶏が先か」
「面白いのは社会と人との関連だ。影響は社会から個人へと常に一方向に伝導するのではなくしばしば双方向に伝達する。社会から人へ、人から社会へ、その繰り返し。秩序ある混沌だよ、まるで」
「それ、矛盾って言わないか……」
「理性と感情は対立している。人はそもそも矛盾しているのさ。人から社会が生み出されたんだから、社会も矛盾していて当然さ」
「そんなものかね」
「そんなものだよ。ああ、それにしても、文字盤を戻さなくちゃな。綺麗な歯車にならなくちゃ。金がほしい。金もゼンマイの動力源――」
北岡はしばらく酔ったままぼそぼそと呟いていたが、猿彦がさっきからなにも返事しないのに気づいた。見ると、猿彦はうつむいたまま、先ほどから一滴も呑んでいないらしい。北岡は卓袱台に身を乗り出して友をじっと見つめた。
「どうしたよ」
「いや……」
「なんだよ、話してみろよ。友達だろう」
猿彦は驚いたように目を見開いた後、「そうだよな、友達だもんな」と少し笑った。
猿彦は手元の酒をぐいっと飲み干し、嘆息ひとつ。いい飲みっぷりと囃し立てる北岡にはにかんだ。
ためらいがちに、なんども首筋の辺りを掻きながら、猿彦は切り出した。
「話すかどうかは迷っていたんだ。かなりうさんくさかったから。けど、そんなに困ってるなら、一つだけ紹介できる仕事があるかもしれない」
「なんだ、日雇いか?」
「いや、……その……」
「なんだよ、そんなに怪しいのか」
「……履歴書不要、申し込んだら即面接で、受かればそのまま正規雇用」
北岡は、気まずそうな猿彦の顔を穴が開くまで見つめた。
首筋を忙しく掻きつつ、瞳は俯きがちで、だから言いたくなかったんだとぼやく口元。義体化しても表情筋は生身らしい、不自然なところはない。目元に残る手術痕を除けば、北岡の知る猿彦その人だった。
「冗談じゃ、ないんだよな」
北岡の酔いはすっかり覚めてしまった。居住まいを正して猿彦に向かい合う。
「当たり前だ」
「話してくれ」
「いや、でもな……働く場所がな」
「俺はこのままじゃ宿無し草の根無し草、年を越す頃には浮浪者だろうよ。それはいやだ。いやなんだ。働けるならなんでもいい。俺は自分が、この社会で、何者でもないっていうことに耐えられないんだ」
震える声に、猿彦は観念したように両手を上げた。そうして、怒らないでくれよと前置きした。
「労働用機械の製作工場なんだ」
「……なんだって?」
今度こそ北岡は絶句した。
「政府主導で始めたはいいが人手が足りてないらしい。例の会社に遊びに行ったとき役員さんから聞かされたんだ。面接さえ受ければまず間違いなく受かるだろうって。……ただ、なにするかよく判ってないらしくて……」
続いていく猿彦の言葉も上の空で、北岡は、自分が労働用機械を作る側に回る様子を想像していた。きっと彼が作った機械が、誰かの職を奪うだろう。だがその後居場所を与えるのも機械だ。
まるで、機械も人も、同じものだと示しているかのような気がする。
それの何が悪い。
「猿彦」
「な、なんだよ」
友人の言葉を遮って、北岡は頭を下げた。
「面接、どうすれば受けられる?」
四
北岡は後方からモーター音を聞いて自転車を左に寄せた。自動運転車が北岡の間近を通って彼を追い越す。
車の後部には太い文字で「セルヴム製作」と書かれている。
猿彦と別れた数日後、彼から十六桁の番号とリンクが書かれたメールが届いた。それはセルヴム製作の入社希望ページへのリンクだった。
受け取った番号を入力すると応募フォームに進んだ。指示に従って空欄を埋め、簡単な質問に答えると次のページに進んだそこでデジタルで作成した履歴書を添付し、事前同意にチェックマークを入れて完了をクリック。応募はものの五分程度で済んだ。
数分後、面接場所と日程が届いた。その指示に従って、北岡はいま、バスも電車も通っていない、自宅から二時間の工場用地に向かっていた。
首に提げたイヤホンから響いていた宣伝が止まり、軽快な音楽が流れだす。北岡は速度を落とし、片手をハンドルから離して耳にイヤホンをさした。
「……つまるところさ、機械を新しく作るよりも人間を機械的に置き換えちゃうほうが安上がりなんだってさ。もちろん、人道とか、そういうのがあるから、実際にやっちゃダメらしいけどさ。
でも考えてみてよ。脳みそみたいな柔軟な計算機が存在するのに、それに似せた機械を新しく作るのって無駄じゃない? 脳みそを弄くったほうが早いと思わない?
最近はそう考えられてるんだって。ボクは正直気味が悪くっていやなんだけど……噂じゃ自殺者数が減ってるのも、人間の機械化が進んでるからだとか。……噂だけどね。
もしそんな事が起きてたら、今頃大騒ぎだよね。一度会ってみたいよ、その、……ロボット人間。
もしいたとして、さ。彼らはどんな生活を送っているんだろうね?
さて、そろそろお別れの時間に差し掛かってきました。メカメカラヂオも本日はココマデ。提供は、セルヴム製作さんでした。明日も『機械たちの時間』をよろしくね~! エンドナンバーは『ロボット』。二十世紀のテクノポップを楽しんで!」
軽快なクラップ音。弾けるようなシンセサイザー。規則正しいドラムに上乗せされた加工音声にエレキギター。YOU ARE ROBOTと女の歌う声。
コード上に設けられた操作ボタンを押してラジオを止める。前後の車輪の軽い回転音が聞こえてきた。
イヤホンを外して周囲を見回す。道路の両側は水田で、耕作機械がせっせとイネを植えていた。
かつてはこの地にも都市があったという。北岡が生まれるずっと前の話だ。
人口は都市に集中し田舎と都会の区別もなくなろうとしている。かつての街は取り壊されて更地となり、工場か農地として再利用されている。
そこに人の姿はなくプログラムに従って機械たちが働くばかりだ。
人口減少の果てに要請された無人化だった。ユートピア法の施工前から第一次・第二次産業のほとんどを機械が担当している。
霞む彼方に目をやれば白煙を吐く工場地帯が目に入る。
ハンドルの手前にホログラム表示された地図を見ると、目的地まであと三十分と表示されていた。
猿彦に紹介された面接会場はセルヴム製作の工場の一つだった。
セルヴム製作は国営企業だ。その流通量をコントロールしたかったのか、規格の統一を図ったのかは判らないが、各企業からも技術者を派遣してもらい官民一体となってユートピア法の普及に努めていることは確かである。
結果的にもたらされたものはといえば非義体化労働者の排斥だ。しかしそれを咎める人は少ない。少数の意見は黙殺される。
その少数であるはずの自分すら、排斥を促す側へ仲間入りを果たそうとしている。
出来の悪い喜劇だ。北岡は自嘲した。
気づけば道路の両側をフェンスが区切っている。時折掛けられた看板には人員募集の文字があった。
巨人の鼻息を吹きかけられているような蒸し暑さは北岡の錯覚ではない。道路の先で陽炎が立っていた。
襟を前後させ体を扇ぐ。汗は止まらなかった。額の汗を手の甲で拭ってズボンに擦りつける。
建物が近づいてくると、視界いっぱいに無地のテクスチャを貼り付けられた気分になった。のっぺりとして立体感がない。
その中央にユートピア庁の紋章が掲げられている。セルヴム製作所に間違いなかった。
北岡はペダルを強く漕いだ。
ふと、開かれた正門の中央に人影があることに気づく。二人乗りの電気自動車の前で直立不動だ。深く考えず、脇に止めようとハンドルを切る。その時だった。
「北岡航犀さん、止まってください」
男の合成音声が首元から響く。北岡は驚いてブレーキを握った。
耳に響く音を立てつつ車輪は止まった。降りて片手で車体を支えながら首元を探っていると、また声がした。
「端末を利用させていただきました。申し訳ありません」
首に提げていたイヤホンと、正面から。
北岡は男に抗議の意味を込めて睨みつけた。
それはほんの五メートル先に立っていた。
顔に当たる部分は真っ黒だ。バイクのヘルメットにも似た無貌。発声器官も見当たらない。過去北岡が見た労働用機械のどれとも異なっている。顔文字は表示されていない。
それが居住まいを正したのをみて身構える。
「私は労働用機械L‐2号、セルヴム製作第七事務所への案内役です」
穏やかな声に北岡は呆気にとられた。
「北岡航犀さんですね」
「……そうですが……」
「本日は面接のお申し込み、ありがとうございます」
「あ、……いえ、こちらこそ」
丁寧な所作につられて頭を下げた。
北岡は混乱していた。
E‐9号とは違い、L‐2号の言行には機械らしさがなかった。その容貌だけが、このスーツを着たロボットを人から区分している。だがそれでも、北岡は人間と相対している気がしていた。
「工場はとても広いです。事務所までご案内します。どうぞ乗ってください」
「でも俺、自転車が……」
「あとで回収させますので、置いていっても構いません。さあ、乗ってください」
「いや、でも」
「さあ、乗ってください」
彼に逆らう理由がなかった。北岡は自転車を正門の内側まで押したのち、彼が開いてくれた扉の中に身を滑り込ませた。
冷房がついていたのだろう、車内は程よく涼しい。座席に体重を預けていると母の腕に抱かれいるような心地がする。北岡はウトウトし始めた。
「おやすみなさい」
穏やかな声を聞いてまぶたが閉じた。深く息を吸うたびに、体から力が抜けていく。
エンジンがかかり、静かに車が発進する。体を軽く押される感覚が、なんだか遠い世界の出来事に思えた。
五
空は白く、仄かに明るかった。
荒れ果てた高速道路一面に咲いた彼岸花の中、北岡は仰向けに寝転がっている。
涼しい風が肌を撫で、甘い香りを運んでくれた。
空気が湿っている。雨上がりだろうか。
視界の左右にそびえ立つ高層ビル群が空を切り裂いている。その表面に切り抜かれた長方形は極彩色に染め抜かれている。いくつかの側壁には溶けた懐中時計が垂れ下がり、たかる鴉に突つかれている。
そのうちの一匹と目が合った。
黒い翼で羽ばたくと右手のガードレールに止まってひと鳴き、ノイズ混じりのだみ声を響かせる。
そいつは機械だった。
頭上を羽ばたいていく鴉の腹部に懐中時計が埋め込まれていた。
立ち上がると、体の内側から渇渇と音がする。
北岡は水たまりを見つけると一目散に走った。
腰をかがめて覗き込むと、頬が剥げたその内側に大小様々な歯車が噛み合っている。
俺はひとつの懐中時計だ。頭のなかで言葉が弾ける。
北岡は顔を上げると、予めそう定められていたように高速道路を進んでいった。
体の内外至るところから針と歯車の音が聞こえる。胎内で聞く母と己の心音だと、理由もないのに確信した。
一面に咲いた紅い花畑を踏み倒し道なりに進んでいくうちに、ズボンの裾は血塗れになった。
そうして五つ目のカーブに差し掛かったときだ。
「こっちへ」
母の声がした。
声は首元からもう一度聞こえてくる。
「こっちへ」
北岡は立ち尽くした。
そのとき、カラカラと音がした。
見ると、道路の脇から歯車が転がってくる。それは北岡の眼前で動きを止める。
乾いた音が増幅していく。
二つ三つ、五つ、十。歯車が、波となってはじめの一つへと押し寄せる。華を潰して返り血を浴びて、紅い津波のようだった。
女が目の前で編み上げられていく。歪な輪郭だが、その顔を忘れるはずはない。
「母さん」
鈍色の女が、記憶のとおりに笑っている。
「こっちへ」
ぎざぎざの手のひらが北岡の手を包む。生暖かい感触がする。見ると、血が身体の隙間から溢れ出していた。
「行きましょう」
手を引かれて歩き出す。後ろを見ると赤い足跡が点々と二人を追ってきていた。
「中へ」
呼ばれて前を見てみると、黒い扉がぽつんと立っていた。
空いた手で白銀のドアノブに手をかける。
ふと不安になって北岡は手を止めた。
母を見ると、ところどころが血に濡れた笑顔が向けられていた。
「航犀、中へ入るのよ」
北岡は頷くと、ドアノブを回す。
そうして部屋の中に足を進めた北岡の目をまばゆい光が刺した。北岡は思わず目を瞑る。
「お待ちしておりました。席にどうぞ」
女性の声。
まばたき。
北岡は自分の体や辺りを見まわす。
自分の右手は赤くないし、母が隣にいるはずもない。北岡の後ろにはL‐2号が立っていた。
白昼夢だ。北岡は頭を振った。
灰色の壁紙は奥ほど白くグラデーションがかかっている。照明は明るくも暗くもなかった。無味無臭で加えて無音。
前を見ると、大きな黒い机に肘をついて女性が座っていた。肩ほどで揃えられた艶の良い黒髪が陶器のように白い肌に映えている。どこかで見たことがあるような気がした。
女性は手のひらで北岡の手前を指した。目を向けるとソファがある。
「お座りください」
「……失礼します」
北岡は会釈し、腰かけた。
「L‐2号、扉の前で待ってて」
「承知いたしました」
ここまでやってきた道のりが思い出せなかった。気まずくて顔が上げられない。北岡はしばらく黙っていた。
落ち込んでいても仕方がない。顔を上げた。すると女性は微笑して話し始めた。
「私はM‐1号。あなたの面接官を担当します。まず初めに、これからの流れをご説明します。第一に面接を行います。第二に工場案内と職務説明を行います。最後に、入社に同意するかを選択していただきます。よろしいですね」
「はい」
「ではこれから、面接試験を行います。当方が幾つかの質問を行いますので、できるだけ明瞭に、本心を隠すことなくお答えください」
「わかりました」
北岡は平常心を保とうと努めたが、目論見はあっさり崩れた。
「最初の質問です。あなたはセルヴムを憎んでいますか?」
呼吸が止まる。
どうしてそんな質問を。そう聞こうとしても声が出ない。だが確かに、セルヴムに関する質問だった。
「北岡さん、あなたはいくつかのアルバイトを点々としていますが、その前はある飲食店に三年勤務していましたね。しかし、労働用機械の導入により解雇されている。その解雇の原因をどう思っているのですか」
北岡は取り繕おうとして、面接官のはじめの言葉を思い出す。自分をよく見せようとすることと職を得ること、どちらが大切かなど考えるまでもなかった。
「セルヴムのことは忌々しく思っています。けれど、働かせていただけるなら我慢します」
「理由をお聞かせ願えますか?」
機械のような冷たい声に対し、北岡の声は熱を帯びていく。
「いまの私は、社会から弾き出された不良品の歯車です。なににも所属しておらず、なにかをするわけでもない。
いまの私は何者でもない。それが耐えられないのです。
それに正直なところ、……収入も安定していません。
ですから、お金がもらえるならどんな仕事でも喜んで働かせていただきたいと、そう思っております」
北岡は途中で、どうしてこんな私的な話をしてしまったのかと疑問に思った。この面接官には、なぜか逆らえる気がしなかった。
面接官は机に肘をついて手を組むと、気にした様子もなく質問を続けた。
「ではなぜ義体化しないのですか」
「それはお金が……」
「今年から義体化手術には国から助成金が出るようになりました。大々的に報道されたので、北岡さんもご存知のはずです。ご家族の収入を考えても手術は受けられるでしょう。それなのに電脳化もされていない
なぜ、北岡さんは生身にこだわっていらっしゃるのですか?」
叫び出したい気持ちを堪える。
どこまで調べているのか問い詰めたかった。
この女性は、どんな表面的な事情を語ったとしても、心の奥深くに根ざしているものを掘り起こそうとするだろう。
思い出したくない出来事は、他人に抉られるよりも自ら掘り返せば痛みが少ない。
ペンで書きつけられた細い文字が目に浮かぶ。
答える声は震えていた。
「……遺言なんです」
北岡は母の第一発見者だった。
母は朝陽を浴びて、ただでさえ白い肌が、いっそう白く、まるで透き通っているようだった。
起こそうと思って近づいたとき、椅子のそばに引き寄せられた書き物机に懐中時計が乗った手紙を見つけた。
北岡は母から漂う甘い匂いをかぎながら、彼女の膝下に座り込んで、北岡は手紙を読んだ。三枚はすべ
て彼に宛てられたものだった。
「一度目覚めて、書いたんだと思います。一枚目と二枚目には彼女の死後の指示が事細かに書かれていました。病院の指示もあって……
そして三枚目の最初の行、読み終えたら燃やすようにと断りが書かれたあとに、遺言が続いていました。
あなたは生身のまま生きて、生身のままに死になさい。
そう結ばれていました。……これが、理由です」
面接官は、そうでしたか、と言って頷いた。
北岡は目を逸らした。
壁は灰色と白色ともつかない色合いで、間近で見た死んだ母の肌のようだ。
静かな部屋に、何かが回るような音が聞こえてきた。空調だろうか、耳鳴りだろうか。北岡は黙って、それが鳴り止むのを待った。
六
面接官はなにごともなかったように質問を続けた。高校の面接練習で行ったような、当たり障りのない時間が過ぎていった。その間、北岡は脳裏に蘇った死んだ母のにおいを忘れようと努めていた。
面接官はさて、と前置きした。
「次が最後の質問です。北岡さん、あなたは人の機械化についてどう思われますか?」
「……義体化のことですか?」
「いいえ。人を機械の一部、たとえばコンピュータにおける演算装置として利用することを、どう思われるかと尋ねています」
北岡は利用、という言葉が不自然に思えた。だが最後と言われ気が緩み、深く考えなかった。
「本人が望むのであれば、良いのではないでしょうか」
「ではあなたが機械化を求められたら、どうしますか。承諾しますか」
硬い声に驚いて身体がこわばる。だが、答えは決まっていた。
「それで仕事がもらえるのであれば。……けれど、勿論それ以外にも理由はあります」
咄嗟に口走っていた。
「人が機械の部品として利用され、その機械が社会の歯車として働くのであれば、私が働いていることと同義です。そうなると、人の労働者と労働用機械の区別はなくなっていきます。区別がなければ、機械を――セルヴムを憎む人もいなくなる。
そう思うので、その……同意します」
聞き終えると、面接官は立ち上がった。
「お疲れ様でした。北岡航犀さん、あなたはセルヴム製作に入社する適性が十分におありだと当方は判断いたしました。これより、当工場の紹介と北岡航犀さんに担当していただく業務の説明を行います。こちらへどうぞ」
この会社に勤めることができるかもしれない。喜びに北岡の胸は沸き立った。立ち上がると、走り出しそうな衝動を押さえながら部屋の奥へと進む面接官を追いかけた。
部屋の奥に突き当たると、面接官は手のひらをさっと上に動かした。壁に取付けられていセンサーが反応し、ホロボードを彼女の手元に表示する。面接官はパスワードを入力しながら、振り向いて北岡に話しかけた。
「この工場はセルヴム製作を目的としていますが、それだけの施設ではありません。これからご覧になることは他言無用、もし入社を拒否される場合は、然るべき処理を行わせていただきます」
「処理?」
面接官は答えなかった。
壁に区切りが生まれたと思うと、それは奥へと窪みスライドした。
現れた入口の向こうは完全な闇に包まれている。北岡を置き去りにして、面接官は中へと進み、すぐに見えなくなった。
北岡は躊躇いながら、差し込む光で僅かに見える壁に手を伸ばし、恐る恐る足を進めた。
だが扉をくぐって少し進んだ途端、光が消えた。完全な暗黒が帰ってきて、北岡は思わず立ち止まる。
側で人の気配がした。
「人間に代替可能なAIを作るより、人の脳を利用したほうがコストが少ない。……労働の機械化が緊急の課題として掲げられ設立された委員会で、ある科学者が発言しました」
面接官の声が変調する。声は馴染みのあるものになり、甘い香りが漂ってくる。
これは夢だ。
朦朧とし始める意識に差し込まれるように、女の声が響いてくる。
「彼女が企画したプロジェクトは立ち上げられ、すぐに実現されました」
北岡が手をついていた壁が突如輝いた。思わず目を細める。
ぼやけた視界に、白とピンクのモザイク画が広がっている。なんどか瞬きするうちに、像は徐々に輪郭を固めていく。
白い部屋に整然と、何かが並べられていた。
両側に手のようなものついた、先が太い紡錘形――背面から様々なコードが伸びているが、それは、教科書で見たとおりの子宮だった。
「これは第一ブロック、機械化処理区画です。左下を御覧ください」
目を動かすと、前部が上に開いた子宮があった。その前に男が立っていた。
彼ははっきりした足取りで、子宮の中に入り込み、仰向けに寝転がった。
そして、子宮の蓋が閉じた。
北岡は、恐る恐る、面接官を見た。黒髪が淡い光をまとい、まるで鬼火のようだ。
「私は労働用機械M‐1号。私たちは、このようにして――人を素体とし、機械化処理を施すことで完成します」
薄暗がりを背にして、面接官は、全く変わらない笑顔を向けていた。それは求め続け、毎晩逢い続けてきた笑顔だった。
彼女の声が、夢で聞く声に重なっていく。
「機械化処理機は人間に、労働用機械に接続可能にするための処理を行います。接続中に見せる夢や用途別の最適動作が、この時入力されます。
その結果、接続者は労働用機械にとって最適な装置になるのです。
勤務時間になればレム睡眠に移行して自発的に接続し、勤務時間が終了すればノンレム睡眠へと移行する。処理により、人は休息しながら身体を労働させられるようになるのです」
遮光処理が手前から奥へと消えていく。光が差し込み、白い床が闇から浮き上がる。
北岡は、面接官の両隣に溶けた懐中時計を見た。文字盤は全て揃っているが、一方は止まっていて、一方は驚くほど早く進んでいた。
「試作段階では事故がありましたが、改良を重ねた結果、現在では、人への副作用はほぼゼロにすることに成功しています」
面接官は、付いてきてくださいと言って廊下の奥へと進んでいった。
北岡は、足元に咲いた彼岸花を踏みながら、彼女の背中を追いかける。返り血が生暖かい。寄ってくる小蝿を手で振り払いながら、窓の向こうに広がる区画を見下ろす。
「施設を縦断するこの廊下からは、当施設の全区画を見ることが出来ます。右手の第三ブロックは食肉加工、第五ブロックは介護導入前試験場、左手の第四ブロックは……」
透明な仕切りの向こうでは、機械たちが働いている。女の声を聞きながら、北岡は、カーボンと鉄の外骨格の下にある肉体を想像する。
彼らは夢を見続けている。今の北岡と同じように、面接官から説明を受けて、その後選択を迫られたに違いない。彼らは夢を見ることを選び、一つの歯車として生きる道を選択した。
彼らの心情に、北岡は、兄弟のような親しみを感じた。
廊下の奥のエレベータに北岡は女性と二人で乗り込む。ボタンを押す女性のタイトスカートには真っ赤な血が付いており、紅い花が咲いたようだった。
一瞬の浮遊感で、現実感は消え失せる。
北岡はするりと、背後から回された腕の暖かさを感じる。母が来てくれたのだとすぐにわかった。
下降するエレベータの中、前と後ろの両側から、母の声が響いてくる。
「北岡航犀さん、あなたは、労働用機械の素体としての適性がとても高いと判断されました」
「航犀、母さんの言うことを聞いて」
「これから案内するのは、あなたがはじめに担当する区画――機械化処理施設です。入社に同意される場合、速やかに機械化処理を施す準備が整っています。機械化処理の過程であなたはレム睡眠に没入し、すべてが終わるまで夢を見続けることになるでしょう」
「母さんの言葉を聞いて」
「当社はあなたの安全と健康を保証し、適切で公正な判断に基づいて給与を支払うことを誓約しております。北岡航犀さん、あなたは、入社に同意いたしますか?」
エレベータが止まる。開いた扉の向こうには、幾つもの子宮が列をなしている。
その一つが、北岡の帰還を待ち望んでいるように開かれている。
母は北岡の前に進むと、その子宮のほうへと歩き出した。北岡は女性と並んで母を追う。
北岡の手首が掴まれた。
「北岡航犀さん、入社に同意いたしますか」
面接官に尋ねられ、北岡はいくつか気になっていたことを思い出した。振り返ると、母が子宮の蓋に腰かけて、北岡に微笑んでいた。
五年も待たせたのだ。これ以上待たせるわけには行かない。
「一つだけ聞かせてください」
「質問を許可します」
「事故にあったのは、誰だったんですか?」
面接官は北岡の手を放すと、エレベータの中へ下がりながら答えた
「プロジェクトチーフを務めていた研究者です。……他に質問はありますか」
「いいえ、ありません。セルヴム製作に入社します」
北岡の答えに、面接官は柔らかく微笑んだ。
「あなたの入社を歓迎します。良い夢を」
そうして面接官はエレベータに乗り込み、あとには母と子供だけが残される。
母の声を待つまでもない。やり方はもうわかっている。北岡はエレベータに背を向けると、母のもとへとゆっくり歩く。
部屋中に敷き詰められた彼岸花が、一斉に弾けた。紅い祝福の雨が、北岡に降り注ぐ。その暖かさに酔いながら、北岡は、母の子宮に還っていった。
蓋が閉じられ、起動するまでの一瞬の間だけ暗闇に包まれる。その間に、母が全身を包み込んでくれた。
薄いピンク色の光に包まれる。怖くはなかった。子宮に響く渇渇という連動する歯車の心音を聞きながら、北岡はゆっくり目を閉じた。
読んでくださりありがとうございます。
創元SF短編賞に応募しようかと考えて書いた小説でしたが、力不足を感じ、これをラフスケッチとして別の小説を作成することに決めました。供養の意味も込めて公開。
星球大賞に応募するのは失礼ではないかと感じていましたが、自分が今おかれた状況で出せる限界は今作であると判断したので応募しました。
「羽化」の増補改訂版を投稿したら、当分休載します。