序章 錆の騎士7
「なぁ!なぁてば!」
子供と大人の歩幅は大きく違う。
大人の無遠慮な歩きは、子供にとって小走りと同じだ。
錆びた甲冑を纏い見た目はともかく、騎士であるライは堂々たる足取りで人込みを割っていき、ティクにも周囲にも一切遠慮なく歩いていく。
その一歩後ろを歩く赤い髪の女、フィラキは時折足を止めて振り返り、ティクを気にかけているが。
だからと言って、ライに特に指摘することなく、足を止めては歩いてを繰り返す。
始めこそ、声を掛ける程度には元気があったティクだが、次第に声が出せずにただ足を動かすことだけに集中する。
今になって、酒場で殴り蹴られた痣と、冷静になって考えればとても無謀なことをしたことに気が付き。
体に実感となって、それらが一斉に響き始めていた。そうして、歩き続けてたどり着いたのは水汲み場。
あまねく者達に慈悲を齎す白竜に、清められし水のテロス。
許し無き者利用を禁ずる。
そんな立て札と金を入れる箱、そして詰め所で見張る警ら。
彼らと取引をして、無断利用者からより金銭を集る為に、ギラギラと目を走らせるチンピラ。
あまねく者達に慈悲という建前はどこへやら、そんな実質有料の共同水汲み場だ。
だが、それは決して悪いことばかりではない。
集まった金で、水汲み場はある程度整理されており。
流れ出す水には泥や誰かの糞尿、吐瀉物で汚されていない。
払う物を払えば、警らもチンピラも、流れ者の悪人や、乱暴な物乞いから秩序を守る番人という肩書に早変わりだ。
実際に、水汲み場に集まっているのは。一般的な労働階級の妻やその子供達が洗濯のついでに、生活水を溜める為に募っている。
女子供が集まれるというのは、それだけでもそれなりに秩序を保たれていると言っても過言ではない。
いつか先の未来ならばともかく、腕力がそのまま力となる世では。
いつだって力によって真っ先に虐げられるのは、力がない女子供だ。先のティクがいい例だ。
「なぁ名前くらい教えてくれよ」
とりあえず、立ち止まったので息を整えたティクはそうライに言葉をかけるが。
ライは一応の雇い主を無視して、利用料の箱に銀貨のように、アインの三弟子の一人聖法人ディシンストーの肖像が彫られている。
これまた大小二種ある銅貨の小銅貨を。
言いがかりされないよう、見せつける様にゆっくりとした動作で入れると、貸桶を手に取り、フィラキに投げる。
「フィラキ頼んだ」
「はーい」
頼んだ。
ただ一言だけ目的を言わずに告げたにも関らず、それを理解したと答えるフィラキ。
ライとフィラキ、すでに多くを語るまでなく意思疎通出来る二人には。
ただの男と女として付き合っただけの仲とは違う、確かな仲間としての信頼関係を感じることが出来た。
だが、ライの言葉の意味を理解できないティクは混乱するしかない。
しかし、すでに払う物を払い。言うだけのことは言ったとばかりに、ライは来た道を戻っていき人込みに消えていった。
「…………」
並み外れた美女であるフィラキと二人きりになったティク。
子供とはいえ男、その美貌を一人独占できる状況には多少なりとも、酒場で公衆の面前でボコボコにされた自尊心が満たされた、ということはなく。
警戒の視線を向けながら、樽に水を汲むフィラキの動向を見張っていた。
金を出せと言ったが、自身を助けてくれたライではあるが。
その後の態度が、やれ話を無視するわ、走り去る気ではないかと疑う速度で歩くわロクなものではなかった。
そんな中、フィラキは少なからず気にかけてくれたが、それでもティクにとっては所詮は態度の悪いライの連れ程度の認識だ。
何をやるか気が気でない。
水を入れた樽を持ち、近づいてくるフィラキに、それで水をかけて、嘲笑った後に逃げる気かと不審感を抱き、一歩引いたティクだが。
ティクには見上げる程の背丈を持つフィラキが。
すとんとその黒いオーバーニーソックスを汚れることを厭わず膝をつき。
琥珀の瞳で目線が合う様に真っ直ぐティクを見つめると、ふわりと優しく、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
それは、反則だった。
美女の屈託の無い笑みを、対価なく見せられて老若関係なく落ちない男はそういない。
しかもそれはある者は母を、ある者は姉を、ある者は恩師を。
自らを無条件に包容してくれた者達を彷彿させる類の笑みだ。
姉の為ならばと強面の男達に、普通の男の子ならば話すことさえ憚れる者達に、立ち向かえるほどの愛情を抱くティクだ。
落ちない訳がなかった。
惚けた顔してフィラキの見つめるティクには、ライはともかくフィラキに対する疑心は、笑み一つだけで大きくかき消された。
「名前聞きたかったんだっけ?私はフィラキ・ピュラー。あの乱暴な錆甲冑野郎がライね」
「ライ……?一つ名ってことは、あいつも亜人?」
「……そうね」
一つ名、それは端的にいえば仇名に近い。
それらは罪を犯した咎人や奴隷身分の者が、罪として罰として家名を奪われたこと他ならない。
もっとも、亜人達が一つ名なのは、文化として。
家名という意識が低い為、親から名づけられた一つだけの名で名乗るという事情ではあるが。
亜人達ではない者は、そういった亜人達の文化的な思考など持っていないので、奴隷ではないかぎりは偽名で勝手につける。
その為一つ名であることはそのまま、亜人か亜人の混ざり者で、親から亜人寄りの教育を受けてきたと名乗っているようなものだ。
フィラキの歯切れの悪い返答を、不審には思ったティクだが、ライに対しても、多少なりの仲間意識に似た同情心は湧いた。
もっとも、骨人の扱いは正人でなければ亜人ですらない。
そして、先の大戦で正人に敗北した故に、劣ると扱われる亜人ですら、骨人を忌み嫌う。
骨人をどういった物に分類されるかとなれば、肉槍娼婦と同じ化物という枠だ。
「とにかく、体痛むでしょ?」
「うん……」
「こっちへ来て」
ティクの手を引っ張り、水汲み場の隅に移動すると、壁際にティクを押し付け。
フィラキは先ほどとは打って変わって、真剣な表情を浮かべ、ティクの両肩を強く握る。
「これからやることは絶対に内緒。いい?」
「え、何するんだよ」
公衆の面前とはいえ、美人で年上の女性に壁際に押し付けられるという状況に、ティクの心臓はティクの困惑する思考を余所に早鐘を打った。
だが、そんなティクが抱く淡い期待は叶うことはない。
「体の痛みを治すからそりゃ治療よ、ちょっと特別な、ね」
あくまでも治療。
そう言い放つフィラキは、ジャケットから手拭を取り出し、汲んだ水桶で手拭を濡らす。
そのまま痣となっているところに、当てる。それならば、この治療を特別とは言わない。
ティクが、ギョッと動揺したのは水に濡れた手拭に、垂らされた物だ。
「えー……」
美人というのは、どうして舌までも、整っているのか。
容姿という理不尽を垣間見たティクだが、それ以上に驚いたのは垂れるフィラキの唾液。
正人だろうが、亜人だろうが、唾液というのは病でもない限り大体は透明だ。
しかし。フィラキが垂らすのは不気味にも紫色に染まっていた。
唾を付けておけば治るとはよく言うが、それは自分か。
よっぽど信頼寄せる人物以外の唾では、真っ先に嫌悪を感じるのが普通だ。
美人の物ならばご褒美、と考える人もいなくはないだろうが。ティクの性はそこまで開花してはいなかった。
「な!!――」
ティクの抗議の声は、フィラキの爛々とした光を放った琥珀の瞳に見つめられた瞬間。
体全身に走った衝撃に止められた。
喉を掴まれたから、声が止まった。殴られたから、声が止まった。
ティクの声が止められたのは、そういった類の物ではなかった。
瞳を見た瞬間、ティクは自身の体が石のように固まった感覚、金縛りを受けたのだ。
そして、今なお息こそできるが、ティクの体は固まったままだった。
「こーら、静かにしなさい。説明はしてあげるから」
再び優し気な笑みを浮かべるフィラキだが、ティクは激しく幾度も頷いた。
もう何が起きても驚かない、そう肝に銘じたティクだが、すぐに驚愕することになった。
「私の唾液は、普通のも出せるけど痛みを鈍くするのも出せるの。まぁ重要なのはこっちじゃないけどね」
そうフィラキは言うと同時に、腰から簡易かつ粗末な折り畳み式のナイフを取り出すと。
手袋を外し、躊躇なく右手のひらを切り裂いた。
「な!!――」
再び、ティクが叫ぼうとした瞬間。フィラキの琥珀の輝きが増すと同時にティクの体が金縛りにされた。
だが、治療と血。
その二つから連想された単語にティクは、やはり僅かに動く顔の筋肉で驚愕の表情を浮かべるしかなかった。
そして、そんなティクの表情から考えを読み取ったフィラキは頷く。
「お察しの通り。私、血の癒者よ」
血の癒者。それは極めて高い治癒能力を持つ、血のテロスを分け与えられる者達の名だ。
全ての物は、テロスによって構成されている。
始祖聖王アインが仰ったらしい言葉の証明の様に。
生物には生来、自身の傷を癒す血のテロスが身に宿ってある為。
その力を持って、外傷や内なる病を治すことができる。
血のテロス自体は特に珍しいものではない。
先天的に傷や病の治りが早い者もいれば、後天的に早くなった者もいる。
だが、血の癒者達は別だ。そう名乗ることが許される者達は、出したばかりの新鮮な血を他者に与えることで。
その高い治癒能力を他者に分け与えることが出来るのだ。
では、ここで例を出そう。
とある貴族が、暗殺者によって外傷を負い、今にも死に至りそうな時。
そこに、血の癒者が現れ癒した。
とある高名な聖職者が、たまたま起きた事故により、今にも死に至りそうな時。
そこに、血の癒者が現れ癒した。
では、ここで問いを出す。
そんな即死さえしなければ、外傷を瞬く間に癒し。
死の間際から一気に生へ引き戻すことをできる血の癒者達を、独占したいと思わない人が、この世にいないのだろうか。
答えは当然否だ。
地位の高い者達は、当然の様に。
ただでさえ、虚偽が混ざったりするものだから、希少価値が高まってしまったその血の癒者達を自らの緊急時の血袋として飼う。
見た目がどれだけ醜悪だろうが、下賤の血が流れていようが、持つだけで役に立つ血袋には変わりない。
その血袋が、フィラキのような誰もが目を惹いてしまうような、美人の場合。
持つだけでどれだけの自慢となるだろうか。
幼いティクは、言い表せぬ悪寒を抱いた。
「はーい。じっとしてねー」
血の癒者の血一滴は、同量の金にも勝る。
そんな格言すらある血を惜しげもなく、フィラキは手拭に赤色に染み込ませると。
人より劣る亜人、その亜人の血が混ざった者。
そんな者達では一生機会がないであろう血の癒者の施し。
ティクは神秘を前にして、瞳を見た時と違った別種の緊張で体が固まった。
そして、血が染みた手拭に痕に当たると。
先の唾液の効果により、肌の痛みが驚くほど引いていき、奇跡の血の効果に痣が無かったかのように消えていく。
「すげぇ……」
服の下にある痣を治すために、無遠慮に公衆の面前で脱がされるティクだが。
目の前の出来事に、そんなこと気にもせず、感嘆とした声を零すしかないティク。
万物を司り、万物を構成するテロス。
それ故に、無から火を出したり。水を出したり。風を出したり。岩を出したり。
聖なる白き竜、その尊き白い絶大な力を放出したり。
ティクが知る情報ではそういった、ありえない奇跡を起こせる者達を白竜教会は神術と呼び、それらを扱う者の中で。
現聖王に認められ叙任された者達。白竜騎士を白竜教会は抱えている。
目の前で治癒の奇跡を起こすフィラキは、白竜騎士の証である。
七色の光を放つ、銀の目のネックレスを持ってはいなかったが。
紛れもなく、神術と呼ぶにふさわしい、そんな出来事だった。
「はい、おしまい」
例え有難い血だとしても、そのままでは見た目に問題はある。
血に濡れた箇所を改めて、水で血を流した手拭で改めて拭ってもらい。
そうフィラキに声を掛けられた頃には、ティクの体からすっかり、痛みも痣も消えていた。
濡れた手拭を絞る、フィラキの白い手のひら。
そこには、すでにナイフで切った跡が残ってないことに改めて、フィラキが血の癒者であることをティクは実感し、思わず質問せざる負えなかった。
「なぁ……フィラキさん」
「フィラキでいいわよ。お姉ちゃんでも可」
「……フィラキ」
「何?」
「何で、ぼ……俺の傷を治してくれたんだ?」
「ライに頼まれたから」
「え?」
「あいつ、私に言ったでしょ?頼んだって」
あの短い言葉で、どうしてそこまで事情を汲めたのか。
ティクには、ライとフィラキの二人組がどういった関係なのか、不思議で仕方なかったが。
唐突に、全身に暖かく柔らかな感触と共に、フィラキの赤い髪と同じ。
深紅の薔薇の、その甘くて熱い情熱的な、幼い子供には刺激的な香りに包まれると思考が停止した。
フィラキに抱きしめられた、そうティクが認識するまで、先の金縛りよりも時間を要した。
「痛かったでしょ」
「え?」
語る声音は、どこまでも優しく。背中を擦るその手付きもまた、優しかった。
それはティクにとって、一週間程前にはあった当たり前の温もり。
心の底では、もう二度と手に入らない温もりだと、恐れていたものだった。
「怖かったでしょ?」
「…………」
酒場のことなのか、それとも少し前。
唐突に現れ、女手で一人、苦労しながらも育ててくれ、自ら囮になって逃してくれた姉を、化物らしき奇声と共に連れ去った。
黄金教団に襲われた、夜のことなのか。
必死に街について、白竜教の者達に姉の救助の依頼をしても。
亜人の混ざり者という侮蔑を含んだ態度と、街に槍を扱う危険な化物がいるからとまともに取り合ってくれない大人。
それならばと、冒険者という名のゴロツキ達に頭を下げ、嘲笑うだけ嘲笑い無視した大人。
ようやく聞いてもらっても、姉から託された金を騙し取られた今までのことなのか。
酒場の件以前ならば、ティクは何を知ったようにと激怒していた。
「辛かったんだよね」
「……あ」
だが、その姉を彷彿させる温もり故か、誰も話しても聞いてくれない苦しみを理解してくれた為か。
下げたくない頭を下げることに対する、悔しさでも。
助けを聞き届けてくれない、苦しさでも。
どうやっても敵わない相手に、殴られた痛みでも。
決して、零すことはなかった。
姉を助け出す時まで、流さないと決めていた涙がティクから零れていた。
「頑張ったね男の子」
頑張ったね。その言葉をティク自身にかけてくれたのは、姉の代わりに薪運びをやり遂げた以来だった。
仕事をしたくない、遊びたいとぐずるのを叱ったが。
最後には長い間水に浸かり、ふやけた手で優しく撫でながら頑張ったねと、優しい笑みを浮かべ、労う声と確かな愛情をくれた。
一週間前には常に隣にいてくれた愛しき姉以来だった。
「ぐ……くぅ……」
ティクは歯を食いしばり静かに、泣いた。
泣き叫ばなかったのは、まだ姉を取り戻していない。ティクの男としての残った最後のプライドだった。
だが、ティクは今だけはとフィラキの胸に顔を埋めて泣いた。
二度と遊べなくても、一生を休みなく働き続けることとなっても。
フィラキではなく、姉に頑張ったねと、声を掛けて貰いたい。その決意を新たにするために。