蚯蚓出その二 落ち雀
「大漁じゃ~!」
船は鯛で溢れています。これほどの大漁は何年ぶりでしょうか。
「おお、まだ上がるのか。右も左も上も下も鯛だらけではないか。これは目出度い」
鯛は増えて行きます。どんどん増えて行きます。増えるに従って船は沈んで行きます。どんどん沈んで行きます。恵姫は不安になってきました。
「おい、少し捕れ過ぎではないか。このままでは船が沈むぞ。もうその辺でやめておけ、こりゃ、やめておけと言っておろうが、ああ、沈む、船が沈むぞ~」
鯛の重みに耐えられず沈んで行く船。海に投げ出された恵姫が助けを求めるように伸ばした手を誰かが掴みました。温かく柔らかく力強い手。恵姫は目を開けました。
「お福……」
半身を起こした恵姫が見たものは、海の中ではなく奥御殿の座敷。またも夢を見ていたようです。
「船が沈むほど鯛が捕れるとはのう。正夢だとすれば縁起が良い事この上ないわい。それにしてもお福、何故そなたがここに」
と尋ねるまでもなく理由が分かりました。恵姫の前には土瓶と茶菓子と湯呑を乗せた盆が置かれています。八つ時になったのでお福が茶を持ってやって来たのでしょう。
「ふむ、もう茶の時刻か。随分と眠ってしまったようじゃのう。どれ、いただくとするか」
恵姫は既に茶が注がれている湯呑に手を伸ばしました。お福は見ています。じっと見詰めています。盆でも恵姫でもない、畳の上のある一点を凝視しているのです。
「お福、そんなに真剣な目付きで何を見ているのじゃ」
気になった恵姫はお福の視線をたどりました。そして叫び声をあげそうになりました。寝ながら読んでいた絵草紙『江戸生真鯛蒲焼』が広げられたまま放置されていたのです。
「ま、まずい!」
慌てて絵草紙に駆け寄ると、拾い上げて後ろに隠す恵姫。お福の視線は今度は恵姫に向いています。何ですか、あれは。説明してください、そう言っているかのような目をしています。
「あ、いや、これはじゃな、違うぞ、わらわの物ではないのじゃぞ。誤解するでないぞお福。えっと……雁四郎、そう雁四郎の書なのじゃ。彼奴、伊瀬で絵草紙を買うたらしくてな、それが今日届いてわらわに貸してくれたのじゃ。まあ、さほど面白くはなかったが、せっかく貸してくれた物であるし大切にせんとな。物入れに仕舞っておこう」
恵姫は座敷の隅に行くと、ガラクタ満載の物入れの中に絵草紙を入れました。
『取り敢えずここに隠しておくか。磯島に見つかる前に別の場所に移さねばな』
以前、磯島の手によって、ここから絵草紙二冊が奪われたことは今でも忘れられぬ失態です。二度とあのような惨事を招かないようにしなくてはなりません。絵草紙を隠し終わった恵姫は元通り盆の前に座り、何食わぬ顔でお茶を飲み始めました。
「まあ、言うまでもないことじゃが磯島には教えぬようにな。雁四郎が気を悪くするかもしれぬからのう」
頷くお福。これで当面は物入れに入れっ放しにしておいても大丈夫でしょう。
こうして二人は茶を飲み合い茶菓子を食い合い、まったりとした午後のひと時を過ごしました。天気が良いので座敷は暑いくらいです。
「茶を飲むと少し汗ばむのう。お福、中庭に出てみぬか」
お福は頷くと盆を持って座敷を出て行きました。恵姫は縁側に出て草履を履き中庭に下りました。日差しはありますが心地よい風も吹いています。しばらくしてお福が奥御殿の玄関から出てきました。
「初夏のそぞろ歩きも悪くないのう。お福、たまには中庭を楽しんでみようぞ」
小さいながらも植木職人の技と心意気で、隅々まで手入れの行き届いた間渡矢城の中庭です。初夏の青葉を見るだけで、今日の青空のように気分も爽やかになります。
「そろそろ鰹も初物が出回る頃じゃのう。江戸ではこの時期の初鰹を有難がるようじゃが、わらわは脂の乗った戻り鰹の方が好きである。お福はどうじゃ」
お福は首を傾げています。どうやら鰹の好き嫌いはないようです。と、急にお福が立ち止まりました。
「お福、どうかしたか」
お福は木の根元をじっと見ています。そこには小さくて、時々動く、見慣れぬ物があります。恵姫も目を凝らしてそれを見詰めました。
「あれは、何じゃ」
急にお福が走り出しました。その物に近寄り、しゃがみ、手の平に乗せています。そこでようやく恵姫にもそれが何か分かりました。
「ふむ、雀のヒナのようじゃな」
巣から落ちたのでしょうか。まだ巣立ち前のヒナが地面の上でうごめいていたのです。
「巣に戻した方がよかろう。いや、待てよ、この辺り、草と小枝と葉が散らばっておるではないか。巣ごと蛇にでも襲われたのか」
巣がなければ戻すことはできません。お福は哀しそうな目で手の平に乗せた雀のヒナを見ています。
「お福、諦めよ。人の手でヒナを育てるの大変なことじゃ」
お福は首を横に振ります。恵姫も島羽では一度ならず雀に助けられたので、お福の気持ちはよくわかりました。
「そのヒナはまだ小さい。親雀ならば穀物でも与えておけばよいが、ヒナは虫を食わねば丈夫に育たぬ、それも頻繁に。そうじゃな、半刻に一度は餌を与えねばならぬぞ。奥で働いておるそなたに到底できるものではない」
やはりお福は首を横に振ります。どうしても見殺しにはしたくないようです。
「寒さにも弱い。夜などは温くしてやらねば凍えて死んでしまう。昔、わらわの父上が鶯を飼っていたことがあったので、よく知っておるのじゃ。それは大変な手間がかかるものじゃ。悪いことは言わぬ。諦めよ、お福」
お福は顔を上げました。手に雀のヒナを乗せたまま、奥御殿に顔を向けました。
「どこを見ているのじゃ、お福」
恵姫はお福の視線をたどります。奥御殿、縁側、障子、その向こうにあるのは恵姫の物入れです。絵草紙を隠した物入れ……
「ま、まさか、お福、そなた」
お福は雀のヒナを乗せた手を恵姫に差し出しました。姫様が育ててください、そう言っているかのようです。そして再び顔を奥御殿に向けました。もし断るのなら物入れに隠した絵草紙を磯島様に知らせます、そう言っているかのように。
『な、なんという事じゃ。絵草紙をダシにしてわらわを脅そうというのか。初めて会った時のお福とはまるで別人ではないか。斎主様に会い、磯島の教育を受け、もはやお福はわらわを凌駕する程のおなごになってしまったと言うのか』
と考えた恵姫ですが、少し違っています。お福に一番影響を与えたのは、何を隠そう恵姫本人なのです。平然と付く嘘、傍若無人な態度、弱みに付け込む狡猾さ、それらを全て恵姫から吸収し、お福は一皮むけてしまったのです。門前の小僧習わぬ経を読むとは、まさにこの事でしょう。
「分かった、わらわもヒナを育てる手助けをしよう。じゃがな、あくまで手助けじゃ。お福、そなたも責任を持ってヒナを育てるのじゃぞ」
恵姫の言葉を聞いて満面の笑みを浮かべるお福です。
中庭のそぞろ歩きはこの場で打ち切りとなりました。二人は奥御殿に戻り、磯島に頼んで殿様が使っていた鳥籠を用意させ、布きれを沢山敷き、再び中庭に出て餌を探しました。虫を取るのは大変なので、もっぱら土を這っているミミズを取る二人。
「もうミミズが這い出る季節となったか。それにしてもどうしてわらわがこんな目に……とほほ」
鯛漁のための英気を養うどころではなくなってしまいました。それでもお福の笑顔を見れば、明日への活力が湧いてくる恵姫ではありました。




