蛙始鳴その一 四月朔日
「四月じゃ、卯月じゃ、夏じゃ!」
襦袢着のままで座敷の障子を開け放った恵姫は、早朝の青空を仰いで叫びました。立夏から二日過ぎて、今日は四月一日。名実ともに季節は夏となりました。
「姫様、そのような恰好で外に出るのはおやめください。それに暦の上では夏とは申せ、朝晩に吹く風はまだまだ寒さを感じるもの。早くお着替えください」
『磯島め、相も変わらず風流の分からぬ奴じゃのう』
夏となればどんなに寒くても薄着をするのが粋というものです。それを軽く見る磯島は全く以って無粋な奴、と恵姫は考えつつも、確かにちょっと肌寒いので、さっそく女中に着替えをしてもらいました。
「本日より小袖は綿を抜いて袷になります。寒ければ重ね着してくださいましね」
「なんの、一つ小袖で十分じゃ。へっくしょん」
言ったそばからくしゃみをしています。やはり外に出て体が冷えたようです。磯島はすぐに朝食の支度をさせました。まずは朝一番の熱い茶をすする恵姫。
「ずずっ、はふ~、茶が美味いのう。これは新茶か」
「今年一番摘みの越賀茶でございます。良い香りですこと」
越賀村は比寿家の領地の中でも畑作が盛んな場所で、伊瀬、志麻の国で最も早く茶摘みが行われます。恵姫が飲んでいるのは、その越賀で摘まれたばかりの茶葉から作られた釜炒り茶です。摘んだ茶葉を蒸すのではなく炒って作られた茶です。香ばしい味わいが恵姫のお気に入りです。
「新茶を飲むと夏が来たという気分も一層深まるのう」
晴れ晴れとした恵姫の顔、この、いつにない機嫌の良さには理由があります。今日は午前のお稽古事はありません。一日中自由な時間なのです。
「さて、何をして遊ぶかのう」
「何もなさる事がないのなら、衣替えのお仕事を手伝ってくださっても構わないのですよ。綿を抜き、洗い、干し、破れ目を繕い、穴に布を当て、入れ替え……」
「ああ、もう良い。そのような細々した仕事、わらわが苦手としておるのは知っておろう。手を貸しても余計な仕事が増えるだけじゃぞ」
本日四月一日は別名四月朔日。武家社会では年四回ある衣替えの日のひとつです。冬から夏に向かう四月の衣替えは、なかなかに手間が掛かるので、磯島も他の女中同様仕事に精を出さねばなりません。その為、この日のお稽古事は取りやめることになっているのです。
「ああ、そうでございましたね。昨年は恵姫様にも手伝っていただいたのでしたね、無理に綿を抜こうとして縫い目を破き、洗い物を泥だらけにし、干してある装束に池の水を掛け、破れ目を更に引き裂き、穴に指を突っ込んで大きくし、姫様のおかげで昨年の衣替えは深夜に及びましたものね」
「分かっておるなら余計な申し立てはするでない、磯島。わらわは昼まで座敷で大人しくしておる。それが一番であろう。さあ、飯にするぞ」
初夏の風物に触れて気分爽快だったのに、磯島のおかげですっかり台無しにされてしまいました。こうなると腹を膨らませて幸福感に浸るしかありません。恵姫は本日の朝食をじっくりと味わいました。
「うむ、美味かったぞ」
食べ終わってお茶を飲み、すぐにごろりと横になる恵姫。いつものことなのですが、今日の磯島は何となく文句を言いたい気分です。
「午前のお稽古事がないとは言っても、朝寝は感心致しませぬ。それに食べてすぐ寝るのはお行儀が悪うございますよ」
「いいや、磯島、それは違うぞ」
恵姫は横になったまま喋っています。本当にお行儀が悪いです。
「一月ほど前の雛祭りの日に庄屋の屋敷に行ったであろう。その時、面白い書があって、ぱらぱらと読んでみたのじゃ」
「姫様が絵草紙以外の書を読まれるとはお珍しいですね。何が書かれていたのですか」
「庄屋は俳諧を好んでおろう。俳諧師についてあれこれ書かれておったわ。傑作なのは各務支考のくだり。蕉門十哲のひとりで、仏門に入るも、すぐに還俗した意志薄弱なおのこの話じゃ。此奴、頭脳明晰ながら性格や素行は少々難ありの人物でな。ある日、獣の肉をガツガツ食っているところを法師に見られ、
『そのような堕落した振る舞いをすれば、来世は必ず牛になるに違いない』
と注意されたところ、
『牛になる合点ぞ朝寝夕涼み』
と句を詠んで開き直ったそうじゃ。
つまり何じゃな、腹が膨れたら牛になるのも厭わずに、横になって寝るのが一番体に良いと、こう言いたいのであろうな。よって、わらわが朝寝をするのも仕方のないことなのじゃ」
磯島は呆れました。何でも自分の都合の良い方向へ物事を捻じ曲げ、歪ませ、仰け反らせるのが恵姫の得意技。今回も、食べてすぐ寝ると牛になるという諺を、強引な解釈で自分の味方に付けてしまいました。
「姫様が牛になるとすれば、牛は牛でもウミウシでございましょうね」
「おお、磯島、上手い事を言うではないか。小さくて愛らしいところは、わらわにそっくりであるからのう」
いや、畳の上でゴロゴロしている姿が、岩の上でノソノソしているウミウシにそっくりだと言いたかったのですが、またも恵姫のご都合解釈にしてやられてしまいました。
これ以上、相手をしていても時間の無駄と悟った磯島は腰を上げました。
「それでは、ごゆるりと」
寝っ転がる恵姫を文字通り見下しながら、膳を片付けた女中と一緒に座敷を出て行きました。一人残された恵姫は膨れた腹を撫で、わずかに開いた障子の向こうに見える中庭の風景などを眺めておりました。
「さてと」
ウミウシのように座敷に転がっていた恵姫が、むくりと起き上がりました。そのまま座敷の隣にある納戸に向かって歩いて行きます。
「よっこらしょっと」
恵姫のガラクタが放り込んである二畳ほどの納戸。掛け声と一緒にそこから引っ張り出してきたのは、小ぢんまりとした文机でした。それを座敷の真ん中まで持ってくると、その上に硯箱を置きました。
「では、書くとするか」
墨を擦り、紙を広げて文鎮で押さえ、恵姫は筆を持ちます。お稽古事以外では筆を持つことなど滅多にない恵姫が、なにやら書いているのです。極めて珍しい光景と言えるでしょう。
「まずは厳左と雁四郎じゃな」
どうやら文を書いているようです。厳左と雁四郎ならば直接言えば済むはずです。にもかかわらず文を書くとは、一体どのような心境の変化が恵姫に起こったのでしょうか。
「次は黒、おお、今年は毘沙もおるな」
真剣な表情で筆を動かしていく恵姫。釣りをしている時以外で、これ程真面目に事に当たる恵姫の姿など、そうそう見られるものではありません。
「あとはお福と磯島か。毎日のように顔を合わせておるが、まあ、よかろう」
少しだけ開けた縁側の障子から、四月の爽やかな風が吹き込んで、筆の下の紙をそよがせます。表御殿からは番方の声、奥御殿からは女中たちの声。遠くからは鳥の囀り。長閑な四月の午前の時が、恵姫が綴る文字のようにゆったりと流れて行きます。
「うむ、これで良いな」
七人に宛てた七通の文を折り畳んで油紙に包む恵姫。完成させた充実感に浸りながら、それらを眺めた恵姫は再び畳に転がりました。このまま昼食まで寝て過ごすつもりのようです。
「ああ、そう言えば与太郎を忘れておった。しかし、彼奴に文を届ける手立てはないからな。それに別段義理があるわけでもなし、気にすることはないか。ふあ~」
文机も硯箱もそのままにしてうつらうつらとする恵姫。その姿は磯島の言葉通り、岩の上をノソノソするウミウシにそっくりでありました。




