葭始生その四 二つの鏡、二人の斎姫
結局、厳左ひとりが城に戻ることになり、恵姫、雁四郎、毘沙姫の三人は庄屋の屋敷に向かうことになりました。
「ここから庄屋の屋敷に向かうなら、田畑の中道を歩いて行った方が早いのう。厳左、気を付けて帰るのじゃぞ」
「姫様もお気を付けて。毘沙姫様、雁四郎、後は頼んだぞ」
こうして厳左と別れた恵姫たちは、見晴らしの良い野原の道を歩き出しました。心地よい春風が頬を撫でると、先程の緊迫した情景が嘘のように思えてきます。すっかり気の緩んだ恵姫は歩きながらお喋りを始めました。
「しかし、毘沙よ、偶々あそこに姿を現してくれて助かったぞ。そなたが居らなんだら厳左は命を落としていたであろう。偶然とは恐ろしく、かつ有難いものじゃな」
「偶然ではない、恵。私は瀬津を付けて来たのだからな」
「付けて……それはどういう意味じゃ」
それから毘沙姫はここに至る経緯を二人に話しました。他の姫たちと同様、毘沙姫の元にも伊瀬の斎主を訪ねるよう要請が来たのです。そうして伊瀬に着いたのが二日前。
ここまで来たのだから、ついでに志麻の恵姫たちに会おうと磯辺街道に向かったのが昨日。その道の途中で偶然瀬津姫の姿を見掛けたのです。
怪しまれぬよう後を付け、間渡矢城下の宿に泊まるのを見届けた後、自分は乾神社で一泊。今朝、再び後を追って来たのですが、城下を抜けた東の川の辺りで姿を見失ってしまったのでした。
「どうしようか迷いながらも、取り敢えず川に沿って下って行こうと思い、歩き始めた。そこで睨み合っている厳左と瀬津の姿を見付けた、このような次第だ」
「ふ~む、妙じゃな。その話の通りなら、瀬津は迷わずわらわたちの居たあの場所へ来たように思えるが」
「その通りだ、恵。瀬津は知っていたに違いない。恐らくは間渡矢城の中に記伊の姫衆の間者が紛れ込んでいて、今日、ここへ恵たちが来ることを瀬津に知らせたのだろう。厳左が急いで城に戻ったのは、それが誰かを突き止めるためでもある」
「な、なんじゃと!」
それは思い掛けない事であると同時に至極当然の事でもありました。幾ら忍びの術を心得ていようと、城からこの場所まで三人の後を付けてきたのなら、勘の良い厳左が、途中でそれに気付かないはずがありません。瀬津姫は予めここで待ち伏せをしていたのです。つまり、三人が今日ここに来ることを瀬津姫は知っていたのです。
「じゃが、瀬津は与太郎のことは知らなんだ。奥の女中たち、吟味をした重臣たち、花見をした城の者たち、これらは与太郎とほうき星の関係を知っておる。つまりそれ以外の者が間者……」
「そうなりましょう。迂闊でした。出入りの商人か、領内を見て回った役方と接触した者か、あるいはこの雁四郎自身が間者と知らずにうっかり口を滑らせたのかも……」
間渡矢城の家臣たちの警戒感が希薄なのは恵姫も気付いていました。それは逆に言えば、城内も城下も平和であったからです。凪いだ海のように平穏無事な領内の治安は、それを統治する比寿家の自慢でもありました。その治安の良さが油断を生み、記伊の姫衆に足元をすくわれたのです。
「もうよい、雁四郎。瀬津に今日の事を伝えた時点で間者の役目は終わっておるのじゃ。今頃は志麻の国からも姿を消しておるじゃろう。大事なのはこれからじゃ。記伊の姫衆が領内に入り込んでいると分かった以上、今日のような事態が二度と起きぬように気を引き締めて事に当たらねばな」
「はい」
「時に恵、今日は与太郎は来ていないのか。ほうき星が昇ればこの世に与太郎が来ると、斎主様から聞いていたのだが」
毘沙姫は少し誤解をしているようです。恵姫は斎主の会見の後に知った与太郎の御神木の話を語って聞かせました。
「そうか、昇れば必ず来る訳ではないのか。三百年の後の世の男と会えるのを楽しみにしていたのだがな」
嘆息する毘沙姫を見て、せっかく軽くなっていた恵姫の気分はすっかり重くなってしまいました。
『瀬津の無理強いも、毘沙の落胆も、あれもこれも全て与太郎のせいじゃ。彼奴が姿を現してから気が休まる暇がないわ』
と、いつものように他人のせいにする恵姫です。いっその事、与太郎の件について、瀬津姫に全て話してしまったらどうなるだろう、とも思うのですが、こちらに有利な状況をわざわざ覆す必要はありません。やはりこのまま様子を見るのが一番だと自分を納得させる恵姫でした。
「ところで恵姫様、先程の瀬津姫とはいかなる者なのでしょう。それに記伊の姫衆とか、力を貸せとか。拙者にはさっぱり分からぬ事ばかりなのですが」
雁四郎が少し情けない顔で恵姫に尋ねました。愉快そうに笑う毘沙姫。
「ははは、そうだな。雁四郎は何も知らぬのだったな。恵、いい機会だ。教えてやってはどうだ」
「うむ、そうじゃな。今後の事を考えれば雁四郎も知っておいた方がよいな。伊瀬でわらわが話した事を覚えておるか。八咫鏡を譲り受け伊瀬に神宮を開いた倭姫。その鏡を譲り渡した豊鍬入姫。この二人の姫こそが、姫の始まりの姫である、と」
「はい、覚えております」
「八咫鏡は天の岩戸を開く時に用いられたのじゃが、実は鏡はもう一枚あったのじゃ。最初に作られた鏡は日矛鏡。しかしこれは出来が良くなかった。そこで次に作られたのが八咫鏡。この出来の良い方の鏡を使って岩戸は開かれ神器のひとつとなった。一方の日矛鏡は豊鍬入姫によって記伊の神宮に祀られた。こうして二人の姫により二つの神鏡が奉安されることとなった。ここまで言えば分かるじゃろう。われら伊瀬の姫衆は倭姫と八咫鏡に由来し、記伊の姫衆は豊鍬入姫と日矛鏡に由来するのじゃ」
これもまた雁四郎にとっては初めて聞く話でした。姫の力を持つ主に仕えながら、その姫に関して何も知らなかった自分が少し恥ずかしくなる雁四郎です。
「よく分かりました。しかし、それなら腑に落ちぬことがあります。鏡が違うという点を除けば同じ姫であるのに、何故伊瀬の姫衆と記伊の姫衆は対立しているのですか。共に手を取り合えば、より大きな力となって今の難局も乗り切れましょう」
「そう、雁四郎の言う通りだ。それはまた我らの望んでいるところでもあるのだ」
毘沙姫の爽やかな声。幼い頃に出会った記憶のままの毘沙姫は、雁四郎にとっては憧れの一人でした。姫の力を使わなければ剣の腕前は厳左と互角、いや、年を取って衰えた今の厳左相手ならば、打ち負かすことも不可能ではないほどの達人だからです。
「望み……毘沙姫様、ならば同じ姫同士、ひとつにまとまればよいのではありませんか」
「そう簡単には行かぬのが人の世と言うものじゃ、雁四郎。かつて全ての姫は斎王様によってひとつにまとめられておった。代々の斎王様は必ず倭姫由来の姫衆から選ばれる。斎王宮も神器の八咫鏡も伊瀬にあるし、何より姫の力は記伊の姫衆よりも強いのじゃから、それは当然のことであろう。しかし、記伊の姫衆はそれを不満に感じておったのじゃろうな。南北朝の動乱で斎王様が廃された時、その不満は爆発した。斎王様の代わりとして斎主様を立て、神宮の近くに斎主宮を作った伊瀬の姫衆に反発し、記伊の姫衆は斎宗様を立て、記伊の地に斎宗宮を作った。二つの姫衆の対立はこの時より始まったのじゃ」
「対立と言っても二つに分かれただけでしょう。上に立つ者と、その者が御座す場所が異なるだけに過ぎません。その程度の違いならば容認し合えるのではないですか」
恵姫は面倒くさそうに雁四郎を眺めました。姫衆対立の説明をすることにそろそろ飽きて来たようです。雁四郎の問いになかなか答えようとしません。恵姫の性格をよく知っている毘沙姫が、後を引き継いで答えました。
「そうだな、その程度の違いならばな。だが、決定的に相容れられぬ相違があるのだ。記伊の姫衆は天より与えられた姫の力で世を変えたい、その様な考えに囚われている」
「世を変える、とは」
「文字通りだ。力のある者が上に立つのが正しい世のあり方、つまり斎宗様こそ世を治めるに相応しいと考えている。南北朝に続く戦国の世において、姫の力は大いに使われ、かつ利用された。天下泰平の世になった今でもその考えは変わっていない。だからこそ伊瀬の姫衆に劣る力を補うために忍びの者と手を組み、更には伊瀬の姫衆を取り込んで、己が勢力を増そうと画策している。あわよくば徳川の世を覆そうともしている。そのような者たちと手を組むことなどできると思うか、雁四郎」
ここに至って、ようやく雁四郎は納得できました。先程現れた瀬津姫がくノ一の如き装束だったのも、執拗に恵姫を仲間にしようとしたのも、そしてほうき星の謎に拘り続けたのも。
姫の力で世を統べたいと目論む彼女たちにとって、力の減衰は絶対に阻止せねばならぬ事柄。どんな手段を講じても、その原因と対策を知りたいはずです。わざわざ間渡矢城に間者を放ち、瀬津姫を潜入させ、厳左の命を奪ってでも聞き出そうとした理由が、やっとの事で飲み込めた雁四郎ではありました。




