葭始生その三 怪力毘沙姫
「大した威力だねえ、神海水。でも、もう空になっちゃった、お気の毒。不便な力だねえ、海の水しか使えないなんてさ」
瀬津姫の口元には笑みが、勝利を確信した慢心の笑みが浮かんでいます。
「さあ、恵、最後の機会をやるよ。知っている事を全部言いな。痛い目に遭いたくはないだろう」
脅しを掛ける瀬津姫に恵姫は無言で対峙します。もはや自分にできることはありません。と、
「姫様の切り札が印籠だけだと思っておるのか」
重々しい声でそう言いながら厳左が恵姫の前に出ました。その右手には本差、左手には脇差、二刀の構えで瀬津姫に対します。
「厳左、無理をするでない。如何にお主とて姫の業に刀で適うはずがない」
「この業を見るのは二度目。瀬津姫の力は恵姫様よりも遥かに弱い。しかもほうき星の為に、更に弱くなっておる。防げぬものでもなかろう」
凄まじいまでの殺気を放つ厳左の眼が瀬津姫に向けられました。一瞬たじろぐ瀬津姫、しかし、強気な態度は変わりません。
「いいよ、相手になってやるよ、厳左。前回みたいに無様な姿を晒したいのならね」
一歩、二歩、川を背にして後退する瀬津姫。業の威力を増すために水に近寄りたいのです。それを見た厳左は叫びました。
「雁四郎、姫様を連れて海へ走れ!」
直ちに恵姫の手を取り干潟に向かって走り出す雁四郎。恵姫の力の及ぶ距離まで海に近付けば、形勢は逆転します。厳左の思惑を悟った瀬津姫は舌打ちしました。
「ちっ、逃がさないよ!」
すぐさま追おうとした瀬津姫の前に厳左が立ち塞がります。
「そなたの相手はわしだ!」
「邪魔だ、水飛礫!」
迷いなく業を使う瀬津姫。先程と同じく複数の水の粒が厳左を襲います。
『うむ、見える』
厳左はすでに見切っていました。瀬津姫が放つ水は常にひとつ。同時ではなく時間差を伴って飛んでくるのです。
『一つ、二つ…』
厳左の二刀は確実に水の粒を弾いて行きます。瀬津姫の業の威力も早さも、恵姫に比べれば格段に劣ります。
『六つ、七つ……』
そして厳左は見抜いていました。業を出し終わった後、瀬津姫が完全な無防備状態になることを。水の粒を全て弾いた、その瞬間こそが最大の攻撃の機会なのです。
『九つ、十、今だ!』
最後の水を弾き飛ばすと、厳左は左手の脇差を捨てて瀬津姫に突進しました。ここからは攻撃あるのみ、狙うは瀬津姫の心の臓。両手で握り締めた刀に渾身の力を込めて突き通せばそれで全てが終わる、が、
「なにっ!」
全く予期せぬ出来事でした。切っ先が瀬津姫の胸に届く前に、厳左の胸に水の粒が迫ってきたのです。
『やられた、隠し玉か!』
水の粒は確実に厳左の心の臓を狙っています。突進している最中とあっては、もはやかわすこともできず、辛うじて右手の甲でそれを受ける厳左。
「うぐっ……」
右手から刀が落ちました。片膝をつき、痺れる右手首を左手で握り締めて、瀬津姫の足元にうずくまります。頭上から愉悦に溢れた声が聞こえてきました。
「油断したねえ、厳左」
投げかけられた言葉を撥ね退けるように、厳左は不屈の眼光を放ちながら瀬津姫を見上げました。
「水を全て弾き終わったところで、攻撃を仕掛けるつもりだったんだろう。そんなことは先刻お見通しなんだよ。遅れて飛ばした水玉ひとつ避けられないなんて、鬼の厳左がもうろくしたもんだ」
「厳左!」
恵姫の声が聞こえます。立ちどまってこちらを見ているのです。厳左は叫びました。
「何をしておる、早く海へ逃げよ!」
「恵―! いいのかい、これからこの爺さん、やっちゃうよ。早く戻って来ないと、どうなっても知らないよ」
瀬津姫の髪の先端が浅葱色に光り始めています。恵姫は雁四郎の手を振り切ると、厳左に向かって駆け出しました。
「やめよ、瀬津、やめるのじゃ」
「恵姫様。お戻りください」
恵姫の背後から雁四郎が抱きしめます。暴れる恵姫。
「放せ、雁四郎。厳左を見殺しにはできぬ」
「いいえ、放しません。お爺爺様の気持ちが分からぬのですか、恵姫様」
雁四郎とて厳左を助けたい気持ちに変わりはありません。しかし、厳左の忠義の心を思えば、それはかえって厳左の意志に背くことになります。涙を飲んで厳左を見捨てるしかないのです。
こちらには来そうにない恵姫の様子を見て、瀬津姫の顔に苛立ちと嗜虐の色が浮かび上がりました。
「そうかい分かったよ、恵。そこまで言いたくないのなら、望み通り厳左を葬ってやるよ」
瀬津姫の髪の輝きが増しました。見上げたまま微動だにせぬ厳左、動きを封じられた恵姫、堪える雁四郎。そして最後の業の言葉を発しようとする瀬津姫。その口が動こうとした時、川辺に大声が轟きました。
「斬!」
大地が大きく揺れました。同時に瀬津姫と厳左の間を、地震の如き亀裂が走っていきます。
「誰だい!」
瀬津姫は亀裂が走って来た川の上流を見ました。そこには大剣を地に突き立てた一人の女が立っています。深紅の七分袖の道着に臙脂色の袴、恵姫と同じく背にかかるほどの長髪は持ち上がり、先端は赤い光を放っています。
「ちっ、あんたかい、毘沙」
「瀬津、これ以上の勝手な振る舞い、許さぬ」
毘沙姫は突き立てた大剣を引き抜くと、瀬津姫に剣先を向けました。長身に加えて太い声、凛々しい顔立ち、長髪でなければ男にしか見えません。そして怒りに満ちたその眼光は、厳左をも凌ぐ殺気を帯びて瀬津姫を威圧します。
「分かったよ、あんたが出て来たんじゃ退くしかなさそうだね。でも覚えておきな。ほうき星に何をしたのか、必ず暴いてみせるからね」
瀬津姫はそう言い捨てると、素早く川面へと身を翻しました。枯れ葦を揺らしながら瀬津姫の体は水面を滑るように渡って行きます。恵姫同様、水に浮く業を心得ているのでしょう。やがて向こう岸に着いた瀬津姫は葦原の中へと消えて行きました。
「厳左あ~!」
走って来た恵姫が厳左の首にしがみつきました。
「何という無茶をするのじゃ。如何に力の弱い記伊の姫じゃとて、刀で太刀打ちできるはずがなかろう」
「姫様をお守りするのが厳左の役目。勝てぬと分かっていても向かわねばならぬこともある」
厳左はすがりつく恵姫の両腕を丁寧に払いのけて立ち上がりました。川上からは背中の鞘に大剣を収めた毘沙姫が、悠然とこちらに歩いて来ます。厳左もまたそちらに歩み寄ると、深々と頭を下げました。
「かたじけない。一度ならず二度までもそなたに助けられるとはな」
「礼には及ばぬ、厳左。それに二度あることは三度あると言う。次も我が力を存分に役立ててくれ」
「冗談ではないぞ、毘沙。こんなことがそうそうあっては困るじゃろうが。それよりも厳左、右手を怪我しておるのではないか」
左手で右手首を握りしめたままの厳左を心配そうに見詰める恵姫。雁四郎は投げ出されたままの本差と脇差しを拾っています。
「なに、たいしたことはない」
そう言って雁四郎の手にある刀を受け取った厳左の顔が歪みました。
「むっ、折れぬまでもヒビくらいは入っていそうだな」
やはりそれなりの傷は負っているようです。二本の刀を腰に差した厳左は恵姫に向かって言いました。
「姫様、今のわしに護衛の任は無理だ。それに記伊の姫衆が領内に入っているとなると城の警備も気に掛かる。昼の庄屋行きは取りやめにして城へ戻りたいと思うが、姫様は如何される」
庄屋の屋敷は城下の東にあります。この場所からさほど遠くないので、新田開発候補地の視察の帰りに、報告も兼ねて寄る手はずになっていました。
「うむ、厳左は城に戻って怪我の手当てをした方がよい。しかしわらわは出てくる時に、今日の昼は黒の屋敷で食ってくると磯島に言ってしまったからのう。今、戻っても碌なものは食わしてもらえぬはずじゃ」
こんな時でも食べる事を気に掛ける呑気な恵姫に、張りつめていた緊張は緩み、笑みさえ浮かべてしまう三人ではありました。




