葭始生その二 瀬津姫
「視察はこれくらいでよかろう、姫様」
「そうじゃな。葦牙を噛んでおったら腹が減ってきたわい。早目に庄屋の屋敷に寄って、茶でもいただくとするかのう」
三人は川に背を向けると、城下町に向けて歩き始めました。
「むっ!」
厳左が声をあげました。瞬時に抜かれた刀が、何かを地に叩き落としました。葦牙です。明らかに恵姫に向かって投げつけられたものでした。
「何奴!」
抜刀した雁四郎が恵姫の前に立ち、後ろに厳左が回って辺りを警戒します。
「まだまだもうろくしてないねえ、厳爺」
枯れた葦の間から一人の女が姿を現しました。赤い帯を締めた黒の上着、膝の上まで露わになった半股引。鉢金を仕込んだ額当てと手甲、忍者の如き姿は一目で只者ではないと分かります。
「まさか、くノ一」
女に刀を向けてにじり寄ろうとする雁四郎。しかし、厳左がこれを制しました。
「早まるな、雁四郎。奴は忍びではない。姫だ。記伊の姫衆のひとり、確か、瀬津姫……」
「嬉しいねえ、厳爺。まだ名前を覚えていてくれたんだね」
瀬津姫の顔がほころびました。しかし目は笑っていません。鋭い目つきで三人を睨んでいます。
「そこの坊やは初めて見るね。厳爺とよく似た顔立ち……ひょっとしてお孫さんかい」
「いかにも。雁四郎と申す。恵姫様の護衛を任されている」
相手が姫と聞かされても雁四郎の闘気は衰えません。むしろ気迫は増すばかりのようです。島羽での失態をここで挽回したい、そんな思いもあるのでしょう。
「厳左、雁四郎、お主たちは少し下がっておれ」
静かに成り行きを見守っていた恵姫が二人の前に出ました。瀬津姫は恭しくお辞儀をします。
「お久しぶり、恵。相変わらずお元気ですこと」
「余計な挨拶はよい。何の用があってここに参ったのじゃ」
「あら、何を知らばっくれているのかしら。私たち姫は互いに手を取り合うべきと、再三申し上げておりますのに、おほほほ」
丁寧な口調ながら、その語気には威圧感が漂っています。恵姫は動揺することなく答えます。
「それについてはこちらも再三答えておるじゃろう。そなたたち記伊の姫衆が考えを改めぬ限り、我ら伊瀬の姫衆は賛同できぬとな。これは斎主様がお決めになったこと。わらわ一人に会ってもどうにもなるまい」
「斎主様の命令など守る必要があるのかい。この非常時に」
元の口調に戻った瀬津姫は右手を上げました。立てた人差し指が空を指しています。その先にあるのはほうき星です、
「昨今の不作、姫の力の減衰、これはあのほうき星に起因するもの、そうだろう」
「ほう、記伊の姫衆も気付いておったのか」
「あたしたちの斎宗様が言っておられた。今は姫だけではなく、この世の全てに危機が迫っていると。その災厄を招いているのはあのほうき星だと。こんな時にいがみ合ってどうするつもりだい。今こそあたしたち姫の力を持つ者はひとつになって、この危機に立ち向かうべきなんだよ、そうだろう。さあ、恵。まずはあんたからあたしたちに力を貸しな」
「ふっ、何と身勝手な言い草じゃ。何故わらわたちが膝を屈せねばならぬのじゃ。姫をひとつに束ねるのなら、そちらがわらわたちの仲間になればよいのじゃ。心を入れ替えて斎主様の言い付けに従うと約束するなら、わらわたちも力を貸してやるぞ」
「くっ、相変わらず口の減らない娘だね」
これは決して合意に至らない話し合いでした。恵姫も瀬津姫も、その行動を決めているのは斎主であり斎宗なのです。つまり上に立つ二人の心が変わらぬ限り、下にいる姫も行動を変えることはできないのです。瀬津姫もそれは承知しているはずでした。
「まあ、いいよ。あんたの返事は分かっていたんだからね。どんなに話し合っても無駄だってこともね」
「無駄だと分かっていてわざわざ我が領地まで出向くとは、そなたも随分と暇ではないか。それとも何か、他の目的でもあるのか」
恵姫はとっくに気付いていました。瀬津姫には別の要件があることが。でなければ敵対関係にある伊瀬、志麻の地へ、危険を冒してやって来るはずがないからです。
「頭の回転だけは速いね、恵。そうだよ、訊きたい事があって来たんだよ。あんたたち、あのほうき星について知っていることがあるようじゃないか。大きさも輝きも増すばかりのほうき星が、不定期に小さくなったり光が衰えたりする。その時、姫の力は僅かの間だが強くなる。どうしてなんだい、訳を知りたいんだよ」
「知らぬな」
どうやら与太郎の件について、記伊の姫衆は知らないようです。勿論、それを教えてやる義理など恵姫にはありません。とぼけるのが一番です。
「変だねえ、噂では間渡矢の恵が何かを知っているって話なんだけどねえ」
「わらわが知っているのは鯛の捌き方くらいのものじゃ。それでよければ教えてやってもよいぞ」
恵姫の馬鹿にしたような口調に、これまで下手に出ていた瀬津姫も我慢ができなくなったようです。表情が一気に険しくなりました。
「嘘を付くんじゃないよ。あんたが島羽で大暴れした時とほうき星の輝きが衰えた時が一致するんだよ。ほうき星へ干渉するような業を、伊瀬の斎主が見付けたんじゃないのかい」
『なるほど、そんな風に考えておったのか。それならば訳を知りたくなるのも無理はないのう』
与太郎が来ればほうき星は弱まり姫の力は強くなる、恵姫にしても分かっているのはそれだけでした。何故与太郎の来訪がそのような作用を引き起こすのか、そもそもどうして与太郎はここに来るのか、それすらも依然として謎なのです。
「答えな、恵! 一体どんな業でほうき星を弱らせているんだい」
「答えるのは無理じゃと言っておろう。いくらわらわとて、知らぬものは答えられぬ」
ひとつだけ確かなのは、知っていることを瀬津姫に教えたとしても、恵姫には何の得にもならないことです。何の見返りもない以上、こちらから何かを与える必要はありません。
「そうかい、どうしても言わないつもりだね。だったらこっちにも考えがあるよ」
肩まである瀬津姫の髪が持ち上がり始めました。姫の力を使って、無理にでも言わせるつもりのようです。
「姫様!」
「やめよ、雁四郎。お主の適う相手ではない」
前に出ようとした雁四郎を恵姫が止めました。同時に恵姫の髪も持ちが上がります。
『海は……駄目じゃ。遠すぎて使えぬ。せめてもう少し満ちておれば使えるものを』
「ははは、この場所では海水を使うことはできないはず。恵、あんたの力は知り尽くしているんだよ。理由もなくここで事を起こしたとでも思っているのかい」
恵姫は帯に手を入れました。神海水を使えるのは一度だけ。しかもその量は限られているため、大業は使えません。
『これで奴の攻撃を防ぎ、逃げ切ることができるじゃろうか』
「さあ、痛い目に遭いたくなければ話しな、恵!」
瀬津姫の髪の先端が浅葱色に光り始めました。恵姫の髪も青色に光っています。
無言のまましばらく睨み合う二人。
穏やかな三月の風が吹き、瀬津姫の後ろにある葦を揺らしていきます。騒めく葦原。そうして風が吹き過ぎ、再び川辺に静寂が戻った時、瀬津姫の声が響きました。
「水飛礫!」
声と同時に背後の川から、弓で射られた矢のような水の粒が飛んできます。その数は十。即座に恵姫も叫びます。
「風波!」
右手に握った印籠の蓋が弾け飛ぶと、そこから吹き出した海水が三人の前に波のような壁を作りました。襲い掛かる水の粒は薄く青い壁に遮られ、水泡に帰し、やがて壁自身も崩れて地を濡らしました。
「へえ~、初めて見たよ。それが神海水かい」
最初の攻撃が不発に終わっても瀬津姫は余裕でした。水を制するのが瀬津姫の力、そしてその水は後ろの川に、使いきれない程流れているのです。恵姫は空になった印籠を握り締め、最後の切り札を失った自分に焦りを感じ始めていました。




