虹始見その三 お花見
「う~む、気が重くなるような雨模様じゃのう。磯島、簑なども用意しておくようにな」
「分かっております。姫様の支度はそれでよろしいのですか」
「おう、運よく磯真鯛が釣れおったわい。桜の下でわらわの腕前をとくと拝見するがよいぞ」
生憎の曇り空でした。厚い雲が垂れ込め、いつ降ってきてもおかしくない雲行きです。中庭に集まった花見の面々も、晴れやかな、とは言い難い表情をしています。
「皆、元気を出せ。せっかくの花見だ。しかも島羽の件で力を貸してくれた与太郎殿の慰労も兼ねておる。賑やかに参ろうではないか」
厳左の声に応えるようにあちこちから「ははっ」という声があがりました。さすがは筆頭家老にして城代家老にして国家老の厳左。鶴の一声の効果はてきめんです。
「うむ、では、花見に参るぞ。おい、与太郎、本日はお主が主役じゃ。粗相のないように頼むぞ」
「え、は、はい」
どぎまぎしながら中庭を見回す与太郎。集まっているのは表で働く番方、役方の主だったもの二十名。奥で働く女中六名。そして恵姫、厳左、磯島、お福、雁四郎の総勢三十一名です。
「与太郎殿、気負う必要はない。本日の花見はそちの慰労を兼ねるもの。普段通り寛いでくれればよい」
普段通りと言われてもこの時代に来て寛げたことなんて、ただの一度もなかったんですけど、と与太郎は言いたかったのですが、厳左に意見をするなどという無謀な真似ができるはずがないので何も言いませんでした。
こうして間渡矢城の三十一名と与太郎は城門を出て山を下り始めました。花見の場所は城の北東、大島桜の名所として知られる艮山の中腹です。途中に庄屋の屋敷があるので、そこで黒姫と合流することになっています。
与太郎が借りた装束は小袖と羽織、袴。浪人ということで武士らしい姿にしてもらったのです。ただし、その下にはパジャマも着込んでいました。これで、元の時代へ素っ裸で戻るという心配はせずに済みます。
「えっと、花見の場所までは随分遠いのですか、雁さん」
この顔ぶれで一番気を遣わなくて済むのは雁四郎です。当然、与太郎が並んで歩くのも、話をするのも、相手は雁四郎ということになります。
「いえ、半里ほどですよ。すぐに着きます。何か用事でもあるのですか」
「別に用事はないんですけどね。その、ほうき星が沈みかかっているんですよ。多分、あと一時もせずに沈んじゃうんじゃないかなあ」
「それはいけませんね。急がねば与太郎殿が帰ってしまわれる」
午前中はほとんど花見の支度に費やされてしまいました。城を出ることができたのは午の刻になってから。現在、ほうき星はかなり西の空に傾いています。どうやら与太郎がこちらに来たのは、最初の時と同じく深夜頃だったようです。
「雁四郎、与太郎なんぞに気を遣う必要はないぞ。早く来ぬから悪いのじゃ。過去二回はいずれも朝方にほうき星が昇っておったのにのう。まあ、間の悪いことに掛けては右に出る者がおらぬ与太郎ゆえ、これも奴の運命なのじゃろうがな」
話を聞いていた恵姫につれない言葉を投げかけられても、与太郎はそれほど気にしませんでした。花見にも、そこで出される御馳走にも、さして興味はなかったからです。
「おーい、めぐちゃ~ん」
庄屋の家の前で黒姫が手を振っています。待ちきれないように間渡矢城一行に加わると、恵姫と並んで歩きます。
「めぐちゃん、あたし今日もお魚のお菓子を作ってきたんだよ」
「ほほう、それは楽しみじゃ。雁四郎、黒の魚の菓子がまた食えるぞ」
「それは嬉しい。与太郎殿もきっと気に入りましょう」
「あ、はい。そうですね」
この時代の魚の菓子……与太郎には見当もつきませんでした。
『干物みたいなものかな。変な物を食べさせられなきゃいいんだけど』
実物を見る前から一抹の不安を感じる与太郎です。
城下の町並みを抜けると、すぐに艮山への登り道になります。黒姫も加えた花見行列総勢三十三名は、山道をゆるゆると歩いて行きました。
「見えてきましたぞ」
雁四郎にそう言われて与太郎が顔を上げると、木々の向こうにこんもりとした桃色の塊まりが見えてきました。与太郎は驚きました。その木までは、まだだいぶ距離がありそうです。それなのにこれほど大きく見えるとなると、間近に寄れば……
「す、凄い!」
その桜の木の下に立った与太郎は、圧倒的な迫力を感じ仰向けに倒れそうになりました。大きく広がった枝は完全に空を隠し、風に吹かれて散る花びらは雪のようです。ここまで見事な桜の木は見たことがありませんでした。
「どうじゃ、間渡矢が誇る大島桜じゃ。同じものが磯辺街道の茶屋の近くにもあるが、あれは小振りでな。こちらの方がでかくて見栄えも良い。その驚きようから察するに初めて見たようじゃが、お主の世では、この桜はどうなっておるのじゃ、与太郎」
「う、うん。それがこんな立派な桜の木は残ってないんだよ。この辺は県道、じゃなくて、太い道が作られているから、多分、その時に切り倒されちゃったのか、それとも枯れちゃったのか……あ、でも磯部道の方の桜は今でも残っているよ。こんなに大きくはないけどね」
「そうか、この桜は三百年後にはこの姿を留めておらぬのか」
恵姫の寂しそうなつぶやきを聞いて、与太郎は少し後悔しました。馬鹿正直に本当のことを話す必要はなかったのです。今でも綺麗に咲いている、自分は間近で見たことがないので驚いた、とでも言っておけば、恵姫も喜んだはずなのでした。
「その……ごめんね。後の世の人たちを代表して謝るよ」
「何をくだらぬ事を言っておる。生々流転は世の習い。生まれたものはやがて滅する。長寿を誇る樹木とて例外ではない。お主の世まで存在できなかったのは、この桜の運命であったのじゃろう。となれば、見事な花を見せてくれる今のうちに、心行くまで楽しまねばな。さあ、花見を始めようぞ」
恵姫の合図で皆が一斉に動き始めました。花ござと毛氈を敷き、幔幕を張り巡らせ、提げ重から花見料理、皿、酒、徳利などを取り出し並べます。こうして一通り支度ができると、毛氈に恵姫、厳左、そして与太郎の三人が座り、花ござの一同を見回します。
「では、厳左から一言申し上げる。折からの不作と苦しい台所事情ゆえ、昨年も一昨年も花見の会は見送られた。だが、今年は、ここに居る与太郎殿の御尽力のおかげで、島羽城の松平様よりお見舞金を頂戴し、こうして三年ぶりに花見の会を開くことができた。まずは与太郎殿にお礼を申し上げる」
厳左は言葉を切ると、与太郎に軽く会釈をしました。花ござに座る一同もそれに倣います。
「さて、此度の花見の会は与太郎殿への感謝だけでなく、比寿家に忠義を尽くすそなたたちへの慰労も兼ねておる。借上が続いて難儀をしておるのに、日々のお役目に励むそなたたちの忠義、感謝の念に堪えぬ。今日は思う存分日頃の憂さを晴らしてもらいたい。更には……」
「おい、厳左、いい加減に切り上げぬか。わらわは腹が減って倒れそうじゃ」
恵姫が横から口を挟みました。御馳走を前にして長口上を聞かされるのは、いつの時代でも辛いものです。
「うぉっほん。失礼。わしの話は以上だ。皆、楽しんでくれ」
厳左は手に持った杯の酒を飲み干しました。それを合図に花見の宴は始まりました。酒を飲む者、料理に舌鼓を打つ者、太鼓を叩く者、踊り出す者、桜の木の下の宴というものは、いつの時代でも賑やかなものです。




