虹始見その二 与太郎浮気
「きゃー!」
雛祭りから数えて七日目の朝でした。奥御殿に響き渡る女の悲鳴でその日は始まったのです。
寝床の中で半分目覚め、半分眠りながら、
「ああ、ぬくいのう。もう少しこうして眠っていよう。春眠暁を覚えずとはよく言ったものじゃ。まったく如何なる理由で春の曙はこれほど人を寝床に引き付けるのじゃ。うむ、また眠くなってきたわい。今度こそ鯛を腹いっぱい食う夢を見たいものじゃ、むにゃむにゃ」
と、朝の二度寝の気持ち良さに身を任せていた恵姫だったのですが、響き渡る女の悲鳴で一遍に目が覚めてしまいました。
「もしや!」
がばりと起き上がった恵姫は、座敷を出て女中部屋へ直行しました。
「来たか、遂に来おったか」
がらりと襖を開けると、そこには素早く別室から駆けつけた磯島、女中たち、そしてぺらぺらの単衣を着た男、つまり与太郎が居ました。
「なんじゃ、与太郎の奴、まだ寝ておるではないか。しかも、おい、此奴が抱きしめておるのは、お福ではなく別の女中の夜着ではないのか」
「あ、はい。わたしくしの夜着でございます。妙に息苦しく感じて目を開けたら、与太郎様が、わたくしの、横に……」
顔を伏せて恥ずかしそうに喋る女中。新年の羽根突き勝負で最初に恵姫に挑んだ小柄女中です。どうやら余りの寝相の悪さに、お福の隣で眠るこの女中の所へ転がってしまったようです。
「むにゃむにゃ、まだ食べ足りないよ、もう一皿……」
「与太郎の奴、また鯉の刺身を食う夢など見おって」
完全に恵姫の言い掛かりです。これから鯛を腹いっぱい食う夢を見ようとしていたのに邪魔されたので、すっかり頭にきているのでした。
「そんなに食いたければこれでも食え!」
そう叫びながら恵姫は与太郎の口に足を突っ込みました。どこかで見たことのある光景です。これは多分、高貴な女性が「足をお舐め」と言って男を見下すお馴染みのあの場面を、恵姫が無意識のうちに模倣しているものと思われます。「舐めろ」ではなく「食え」に変更されている点が、如何にも恵姫らしいと言えましょう。
「うぐっ、ごほごほ。えっ、何、ここどこ?」
「ようやく目覚めたか。この痴れ者めが」
半身を起こした与太郎の襟を恵姫の右手が掴みました。
「あ、やあ、めぐ様。久しぶり! またこっちに来ちゃったんだね」
「来ちゃったんだね、ではないわ。おい与太郎、お主、七日間もどこで何をしておったのじゃ。床柱の傍を離れるなと言い渡したであろう。あれからほうき星は二回も空を飛んだのじゃぞ。なのにお主は来ぬ。姿を現さぬ。こちらに来たらすぐに花見に行けるようにと、わらわは大切な午前のお稽古事を泣く泣く取りやめにして、お主を待っておったのじゃぞ。どのような了見でここへ来るのを避けておったのじゃ、とっとと白状せい」
どさくさに紛れて、もの凄く自分に都合のいいように事実を捻じ曲げて話しています。しかし、さすがの磯島も今はそんな些細な事にツッコんでも仕方ないと思ったのか、何も言いませんでした。
「えっ、二回も。そうなんだ。それは悪かったね。でも、ほうき星はあっちの世界じゃ見えないんだから仕方ないよ。それに僕も家に居たらあんまり勉強が進まないし、予備校へ行くお金もないから、図書館で勉強することにしたんだ。だから日中はだいたい外に居るんだよ。早く浪人生活を終わらせたいからね」
言っている意味はよく分かりませんでしたが、とにかく与太郎は浪人生活早期脱却のために、家には長く留まれないらしいということは分かりました。
「ふ~む、つまり腕を磨いて仕官を有利にするために道場に通い出したと、こう言いたいのじゃな、与太郎は」
またも恵姫お得意の妄想型事実歪曲です。
「う、うん。まあそんな感じ」
きっぱりと否定せずに流されていく辺りが、如何にも与太郎です。
「そうか、ならば三回目のほうき星でようやくこちらに来た件については大目にみてやろう。じゃがな、お福以外のおなごの夜具に忍び込んだ件はどのように言い逃れるつもりじゃ」
「えっ、僕、そんなことをしたの?!」
恵姫は黙って小柄女中に顔を向けました。事情を話せと無言で催促しているのです。小柄女中はおずおずと話し始めました。
「はい、朝、気が付いたら与太郎様の顔が目の前にありまして」
「ふむふむ、して、与太郎の腕はどうなっておったのじゃ」
「わ、わたくしの背中に回されておりまして……」
「ほほう、では与太郎の足はどうなっておったのじゃ」
「は、はい、私の足の上に乗っておりまして……」
「この、不逞の輩がっ!」
恵姫の強烈な右平手打ちが与太郎の左頬に炸裂しました。
「ちょっと、何も叩かなくてもいいでしょう」
「黙れ。おふうに惚れただの、お福は可愛いだのと言っておきながら、別のおなごに手を出すとは何事ぞ。殿様でもあるまいに、側室を持とうなどと、図々しいにもほどがあるぞ」
「きっと眠っている間に隣に行っちゃったんだよ。僕、寝相がいい方じゃないから」
「そんな言い訳、誰が信じるか。お福、そなたからも何か言ってやれ」
それまで黙って聞いていたお福が与太郎の前に進み出ました。いつものように穏やかな笑顔です。与太郎もお福の優しさはよく分かっているので、ここはすっかり安心していました。
パチン!
「えっ!」
与太郎は額を押さえました。お福が中指で与太郎のおでこを弾いたのです。驚きました。痛さにではなくお福にです。温厚なお福が他人を攻撃するなど、まったく予想していませんでした。
「お、お福、そなた……」
驚いたのは恵姫も同じです。磯島に顔を近付け、ヒソヒソ話を始めました。
「おい、磯島、最近のお福は妙に気が強くなっているとは思わぬか。与太郎を指で弾くなど、これまでのお福からは考えられぬぞ」
「はい、私も驚いております。姫様と互角に渡り合えるおなごになるための教育は、毎日欠かさずしておりますが、この短期間でこれほどまでに度胸が付くとは」
「やり過ぎじゃぞ、磯島。このままではわらわの額も与太郎の二の舞になりかねぬわ。お福がわらわの額を指弾きするようになる前に手を打っておけ」
「いえ、あれは相手が与太郎殿だからこその仕打ちです。故意ではなくとも、他の女中の夜具に忍び込んだのが許せなかったのでしょう。もしや、お福、嫉妬……」
「ば、馬鹿を申すな。あんな腑抜けたおのこに、お福が惚れるはずがなかろう」
「蓼食う虫も好き好きと申します。こちらに姿を現すたびに、与太郎殿に抱かれていたのですよ。情が移ってもおかしくはないでしょう」
「あの、二人とも、何をコソコソ話しているんですか」
与太郎が声を掛けてきました。お福も二人をじっと見詰めています。
「いや、なんでもないのじゃ。うむ。さてと、花見の支度をせなばならんな。先ずは腹ごしえじゃ。磯島、朝飯を頼む。ほれ、他の者も働け、働け。今日はこれから花見なのじゃぞ」
恵姫が手を打ち鳴らすと、女中たちはさっそく支度に取り掛かります。朝の時間はいつの時代でも忙しいもの。女中たちは慌ただしく部屋を出て行き、ただ与太郎一人だけが畳の上に座っていました。
「おい、与太郎。いつまでそこに居るつもりじゃ。早う出ていけ。ここは男子禁制の奥御殿なのじゃぞ」
「う、うん、分かっているんだけど、今日はパジャマで来ちゃったんで、何か着る物を貸してくれないかな」
「ちっ、世話の焼ける奴じゃ。島羽事件の折に残して行った装束を前回持って帰ったりするから、こんなことになるのじゃ。まあいい、磯島に頼んで何か見繕ってもらうか。おーい、磯島あー!」
呼ばれてやってきた磯島に連れられて、与太郎は部屋を出て行きました。
与太郎にはいつもイライラさせられると、ご機嫌斜めの恵姫。さりとて待ちに待った花見が、今日ようやく開かれるのです。それを思えば斜めになった機嫌も、天を目指すが如く真っ直ぐになる恵姫ではありました。




