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元禄・マジカル・プリンセス  作者: 沢田和早
第一話 はるかぜ こおりをとく
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東風解凍その五 家老厳左

「では、これにて失礼させていただきます」


 食べ終わった膳を女中に命じて下げさせ、座敷に夜具の支度をさせた磯島は、こう挨拶して座敷を出て行きました。食後の幸福感に浸りながら、ひとり、聞こえてくる時太鼓の音に耳を傾ける恵姫。


「暮れ六つか。今年も終わるのう」


 日が暮れれば一日が終わり、同時に新しい一日が始まります。それが大晦日ならば、始まった新しい一日は新年の最初の日です。

 さりとて今の恵姫には何もすることはありません。できることと言えば、火鉢の炭火に手をかざし、座敷の片隅でほのかな光を放つ置行燈の和紙に描かれた赤い鯛の絵を眺めつつ、重箱に詰まっている明朝の正月料理で、最初に口に入れるのは何にしようかと思案を巡らすくらいのものです。


「後は寝るだけじゃが、まだ眠くはないしのう、はて、どうするか」


 いきなり立ち上がった恵姫は、座敷の襖を開けて縁側に出ました。昼間とは違い夕暮れの夜風は冷たく感じます。目の前の庭はよく手入れされ、小さいながらも端正で奥行きがあり、眺めているだけで心が休まります。


「お主も無事に年を越したな」


 恵姫は庭の南東隅にある立派な楠の木を見上げました。庭を覆い尽くさんとばかりに枝を広げた楠の木は、巨樹と呼ばれるに相応しい威容を備えています。樹齢は五百年とも千年とも言われており、この城が他国に誇れる自慢のひとつでもありました。

 恵姫はしばらく楠の木を眺めていましたが、やがて痺れを切らしたように言いました。


「いつまで隠れておるつもりじゃ。姿を見せよ」


 この言葉を待っていたかのように、楠の木の陰から姿を現したのは一人の老人でした。黒の紋付羽織に鼠色の袴、腰には脇差。一目で武士と分かる出で立ちです。顔に刻まれた皺と残り少ない白髪から、相当な高齢であることは間違いありません。しかし、西から差す残照を受けて光る両眼は、血気にはやる若者の如き鋭い殺気を恵姫に放っていました。

 穏やかな奥御殿の中庭に似つかわしくない武士の出現。それでも恵姫は驚きもたじろぎもしませんでした。いや、むしろ、その口元には笑みさえ浮かんでいます。


「お前か、厳左」

「姫様、新年おめでとうござる」


 現れた武士は深々と頭を下げました。老人の名は厳左衛門。この城の筆頭家老にして城代家老にして国家老。城内の番方、役方をまとめ、現在、参勤交代で江戸在中の殿様に代わり、城の業務の一切をこなす、重臣中の重臣であります。


「気が早いのう。夜が明けぬうちに新年の挨拶か」

「明朝は、姫様と共に年始の客を相手にせねばならぬ故、挨拶は夜のうちに済ませておこうと参上いたしました次第」

「余計な気を遣いおって。ならば隠れずとも声を掛ければよいのに」

「声を掛けようと思いましたら、丁度、姫様が縁側に出ていらっしゃる。不意に、こちらに気付くかどうか試してみたくなりましてな。咄嗟に隠れてしまいましたわい」


 強面に似合わぬ茶目っ気ぶりは恵姫に通じるものがあります。この老人の影響を多少は受けているのかもしれません。


「厳左のように全身殺気だっておるようでは、赤子でもそなたに気付いて泣きだすぞ。厄介なのは磯島じゃ。背後に忍び寄られても、あやつの気配には気が付けぬ。まるで忍者じゃ」

「ははは、聞いておりますぞ。まんまと磯島殿の罠にはまり、髷を結われることになったとか」

「髷など好かぬのじゃ。磯島のやつ、簪だの櫛だの髪飾りだの、あれこれ突き刺しおって。頭が重うてかなわぬ」

「さりとて、そのおかげで見違えるような艶やかさですぞ。よく似合っておられる」


 またも髷を褒められて、満更でもないという顔をする恵姫。ほんの少しだけではありますが、髷にするのも悪くないなという気持ちが芽生え始めているようです。


「立ち話では体が冷えるじゃろう。座敷に上がらぬか」

「殿以外のおのこが奥御殿に上がるのは厳しく禁じられておるはず。家老職といえど禁は犯せぬ」

「そうか、では、このまま用件を聞こうかのう。一旦下城し、こんな時刻に再び出向いて来たのは、新年の挨拶だけではないのであろう」


 真っ直ぐに厳左を見詰める恵姫。その目は、思うところあらば即座に吐き出せと言っているようでした。厳左は軽くお辞儀をすると、縁側に近付き、誰にも聞かれたくないような小声で言いました。


「氷室にて、良からぬことがあり申した」

「氷室……浅摩山にある氷室のことか」


 氷室は夏の暑さに備えて、冬の内に氷や雪を保存しておく場所です。間渡矢城の北西にある浅摩山は、標高はそれほど高くないものの、樹木が濃く生い茂り、また北斜面には深くて広い洞窟もあったので、氷室として選ばれたのでした。

 厳左は頷くと話を続けました。


「姫様もご承知の通り、大雪の降った大寒の日に、氷室はようやく雪で一杯となり、氷室詰めはその日に終了と致した。例年ならば立春の今頃は蓄えた雪の量はほとんど減っておらぬはず。ところが昨日改めさせたところ、既に一割ほどの雪が失われているとのこと」

「そんな、馬鹿な……」


 恵姫は絶句しました。有り得ぬ話だったからです。普通の氷室ならば、暖冬のためにそのような事も起こるかもしれません。しかし、浅摩山の氷室ではそのような事が起こるはずがない、起こってはいけないのです。


「間違いなく解けたのであろうな。誰かが氷室に忍び込み、盗んだということはないのか」

「氷室への出入り口は頑丈な扉と幾重もの鎖と錠で閉じられたまま、それをこじ開けた形跡は微塵もない、と」

「信じられぬ。分かっておろう、あの氷室は伊瀬の神宮より託されたもの。そして伊瀬の斎主様の力が掛けられておる。その力によって氷室の中は真冬と同じ状態が保たれているのじゃ。氷室の雪が解けるなど、あってはならぬ。もしそんなことが本当に起こったとしたら……」


 恵姫は言い淀みました。その続きを口にするのが恐かったのです。厳左も恵姫も無言で立ち尽くしていました。が、しばらくしてようやく厳左が重い口を開きました。


「斎主様に何かがあった、それしか考えられませぬ」


 恵姫は否定できませんでした。さりとて容易に受け入れられるはずもありません。他にどのような理由があるだろうか、思案を巡らせても答えは出てきません。


「はるかぜ、こおりをとく、か」

「はっ?」


 突然の恵姫の言葉に厳左は返答に困りました。日暮れの残照も消え、今ではすっかり夜の闇に包まれた中、晴れ渡った星明りの下で見る恵姫は少し笑っているようでした。


「いや、何でもない。厳左よ、よく知らせてくれた。もし機会があれば伊瀬の神宮に参ってみよう。久しぶりに斎主様の顔も見てみたいしのう」

「そうですな、それがよい。では、これにて」

「うむ、気を付けて帰れよ。提灯でも貸してやろうか」

「通いなれた道ですぞ。城から屋敷に戻るくらい、目を閉じても大丈夫……おっと」


 言ったそばから石に蹴つまずく厳左を苦笑しながら見送ると、恵姫は座敷に戻らず、縁側の東に寄りました。ここからは昼間遊んだ浜が見えます。完全に日が落ちた今となっては、亀が落ちた穴も海女小屋もほとんど見えません。微かな波のキラメキと潮騒が聞こえて来るばかりです。

 そうして恵姫は昼間のお浪の言葉を思い出していました。冷たい夏、暖かい冬、間抜けな亀、衰えを感じた自分の力、そして斎主様。それらがどう繋がっているのか、あるいは全く関係ないのか、恵姫には分かりませんでした。


「分からないのならば、分からないままにしておこう。いつか分かる時が来るまで、な」


 取り敢えず、それが恵姫の出した結論でした。



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