菜虫化蝶その一 姫札
「この扱いは一体なんなのじゃ。わらわは姫じゃぞ。わらわが姫なのじゃぞ。雁四郎、聞いておるのか。お主が従者なのは分かる。実際わらわの家臣なのじゃからな。しかし何故にわらわまで従者扱いなのじゃ。どうにも腹の虫が収まらぬわい。それもこれも全ては磯島のせいじゃ。彼奴、ここまで見越したうえで、わらわとお福の装束を決めたに違いない。どこまで悪知恵の働くやつなのじゃ」
恵姫はご立腹です。伊瀬神宮の門前町に到着したのが昨日。二日後はいよいよ斎主様と面会する日です。にもかかわらずこの機嫌の悪さは困ったものです。雁四郎もほとほと手を焼いています。
「まあまあ、恵姫様。落ち着いてください。姫様が姫様と分からぬのは姫様にとっては良い気分ではないのでしょうが、そのおかげで姫様の安全が守られているのですから、多少のことには目を瞑るしかないでしょう。ただで貰うお守りよりも、お金を出して買ったお守りの方が御利益があるというものです。それと同じく、身の痛みを感じて得られた安全なのですから、致し方ないかと存じます」
「おい、団子もう一皿!」
雁四郎の言葉などまったく耳に入っていないようです。団子屋の軒先に腰掛けて、恵姫は門前町に入ってからの出来事を思い出しました。
* * *
「姫札じゃ~!」
斎主宮で姫札を貰った恵姫は意気揚々と門前町に入りました。伊瀬神宮の門前町、そこは日本中からやってくるお伊瀬参りの人々で、ここはお江戸か、はたまた京かと問いたくなるほどに年中賑わう庶民憧れの地。その地を訪れた姫が自由に飲み食い出来る特別の朱印手形、それが姫札なのです。
この姫札さえ見せれば、飯屋も茶屋も酒屋も駕籠屋も、金銭を払うことなく利用できます。中には値引きにて提供という場合もありますが、それでも破格の値には変わりありません。食いしん坊の恵姫にとっては、振れば食べ物が幾らでも出て来る打ち出の小槌に匹敵するお宝と言ってもよいでしょう。
「手始めに伊瀬うどんでも食うとするか。おい、四つくれ」
勝手にうどん屋に入って勝手に注文する恵姫。三人は少し呆れながら、それでも辛い山道を抜けたばかりだし、少しは大目に見てやろうと思いながら、恵姫に続いてうどん屋に入りました。
「ほい、四つお待ち。おっ、姫札かね。それじゃあ、お連れの二人は半値に負けときますな」
うどん屋の主人が気前のよい顔でうどんを置きます。いきなり食べ始める恵姫。
「えっと、お勘定を」
恵姫は無言でうどんを食べ続けます。
「ちょいとお武家さん、お勘定!」
主人の荒い語気にようやく気付く恵姫。うどんを食べていた手を休めて言いました。
「ああ、わらわは姫じゃ。ほれ姫札も見せたであろう」
「御冗談を。姫様はあちらのお二方で、お武家さんは付き添いでしょう」
「な、なんじゃと!」
血相を変えて立ち上がる恵姫を雁四郎が抑えました。
「落ち着いて、落ち着いて。ああ、ご主人。勘定は拙者が払う。二人分は半値でいいのだな。ほれ、受け取れ」
雁四郎から銭を受け取った主人はペコリと頭を下げて奥へ引き上げていきました。ぶすっと頬を膨らませたまま腰掛けてうどんを食う恵姫。
「まったく、ずるずる、どこをどう見てもわらわが姫であろうが、ずるずる、あの主人は目が悪いのか頭が悪いのかよく分からんな。ずずっ。ぷは~、美味いうどんであった」
さすがの雁四郎もツッコまずにはいられませんでした。
「いや、恵姫様、そんな恰好では間違えられるのも無理はないかと存じます。と言うか、姫と思われないように、そのような格好をしておられるのではなかったのですか」
「うっ、まあ、そう言われればそうじゃが。それでもじゃ、姫はわらわなのだから、わらわを姫と呼ぶべきであろう」
どうやら今日の恵姫には理屈が通用しないようです。雁四郎は今後、この話題に触れるのはやめようと心に決めました。
「は~、食ったのう、次は何を食うかな」
うどん屋を出た恵姫は腹を撫でながら通りを歩いて行きます。その後ろを、少し間を開けて付いて行く三人。と、幼い子らが数人駆けてきました。近くに住む町人の子のようです。
「あ、姫様だ」
「姫様、姫様」
「おうおう、伊瀬の幼子も可愛いのう。賢くなるように、わらわが頭を撫でてやろうぞ」
と言ってしゃがんだ恵姫の横を素通りして、子らはお福と黒姫向かって走って行きます。
「姫様、こんにちは」
「姫様、力を見せてください」
子らに裾を引っ張られて嬉しそうな黒姫とお福。しゃがんで頭を撫でたり、小さい子を抱き上げたりし始めました。
「ちょっとだけだぞ、コツン」
黒姫は小槌で子らの頭を叩いています。そんな二人を無言で眺める恵姫の眉間に深い皺が寄りました。妙に低い声で雁四郎に問い掛けます。
「おい、雁四郎。これに似た風景を左義長の折にも見たような気がするのじゃが気のせいか。確か、あの時はわらわを素通りしてお福に懐いておったのう」
「き、気のせいでございましょう」
二度と触れたくない話題でも相手が振ってくれば触れないわけにはいきません。雁四郎は今後この話題に触れた時にはすべて『気のせいでございましょう』で済ませようと心に決めました。
「ほれ、お福も黒も、いつまで子らとじゃれ合っておるのじゃ。早く来い、置いていくぞ」
恵姫が叱り声で注意すると、子らは動きを止め、恵姫に向かって言い立てました。
「わあー、あのお武家さん、怖いね」
「お武家さん、髪が長くておんなみたいだね」
「おんなおとこだ、おんなおとこ、おんなおとこ」
これを聞いて恵姫の堪忍袋がちょっと切れたようです。
「何を言っておるのじゃ、この鼻たれどもが。それを言うならおんなおとこではなく、おとこおんなと言わぬか」
「どっちも同じだよおー」
「違うわ。おんなおとこでは女みたいな男なのであくまで男じゃが、おとこおんなならば男みたいな女なので女であろう。天と地ほどの違いがあるではないか」
「それならやっぱりおんなおとこだよ。だって男だもん」
「女だと言っておろうが」
「やーい、おんなおとこ、おんなおとこ」
「こ、この~、姫に向かってなんという無礼、許せぬ。おい、雁四郎、少し懲らしめてやりなさい」
余りにも程度の低い言い合いなので、雁四郎は少し情けなくなってきました。懲らしめたいのは子らよりも恵姫、などとは口が裂けても言えません。
「雁四郎、何を突っ立っておる、早うやらぬか」
これも家臣としての務めと諦め、子らに向かって歩いて行くと、黒姫が袂から何かを出しています。
「ほら、笹飴だよ、甘いよ~。これをあげるからあのお武家さんをからかうのはもうやめようね」
「わ~い、姫様、ありがとう」
「ありがとう、姫様、さよならー」
子らは飴を舐めながら走って行きました。雁四郎が安堵の息を吐きました。
「ふう~、助かりました。黒姫様。感謝いたします」
「どういたしまして。めぐちゃん、幼子にもすぐ本気になっちゃうからね」
「これ、何をこそこそ話しておるのじゃ。ああ、もう。通りにいては碌なことがない。宿に向かうぞ」
こんなに腹を立てていては、せっかくの名物料理も不味くなってしまいます。腹も一杯になったことだし、後は宿屋で体を休めるのが一番でしょう。四人は御師町に足を向けました。
姫たちが泊まる宿は姫専用の御師が世話する宿坊です。ここにはもう何度も泊まっているのに、やはり恵姫は完全に従者扱いでした。黒姫とお福は上の間、恵姫と雁四郎が下の間です。当然の如くに恵姫の怒りが噴出しました。
「くく、わらわの顔を忘れたのか。こんな部屋に通しおって。しかも何故雁四郎と相部屋なのじゃ。ああもう、こんな装束脱ぎ捨ててやる」
「恵姫様、小袖も袴も替えはないのですよ。脱いでも着る物がないではないですか」
「うぐぐ、磯島め。またしてもしてやられたわ。男装束のためにわらわが門前町に居づらくなれば、姫札で遊びすぎることなく早く帰ってくるはず、あやつはそう読んだのじゃ。じゃがな、思い通りにはならんぞ、磯島め。はぐはぐ」
宿坊で出された茶菓子を頬張りながら、雁四郎に向かって吠え立てる恵姫ではありました。




